黒い蝙蝠
わたしの憂鬱は羽ばたきながら ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。 ああなんといふ幻覺だらう とりとめもない怠惰な日和が さびしい涙をながしてゐる。 もう追憶の船は港をさり やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた 草場に昆蟲のひげはふるへて 季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。 ああ私はなにも見ない。 せめては片戀の娘たちよ おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。
石竹と青猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る その黒髮は床にながれて 手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる。 この密室の幕のかげを ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの青ざめたふしぎの情慾 そはむしかへす麝香になやみ くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。 ああいま春の夜の灯かげにちかく うれしくも屍蝋のからだを嗅ぎてもてあそぶ やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。 そはひとつのさびしい青猫 君よ夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。
海鳥
ある夜ふけの遠い空に 洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる かなしくなりて家家の乾場をめぐり あるいは海岸にうろつき行き くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。
しとしととふる雨にぬれて さびしい心臟は口をひらいた ああ かの海鳥はどこへ行つたか。 運命の暗い月夜を翔けさり 夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが ああ遠く飛翔し去つてかへらず。
眺望 旅の記念として、室生犀星に
さうさうたる高原である 友よ この高きに立つて眺望しよう。 僕らの人生について思惟することは ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ ここには爽快な自然があり 風は全景にながれてゐる。 瞳をひらけば 瞳は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。 友よここに來れ ここには高原の植物が生育し 日向に快適の思想はあたたまる。 ああ君よ かうした情歡もひさしぶりだ。
蟾蜍
雨景の中で ぽうとふくらむ蟾蜍 へんに膨大なる夢の中で お前の思想は白くけぶる。
雨景の中で ぽうと呼吸をすひこむ靈魂 妙に幽明な宇宙の中で 一つの時間は消抹され 一つの空間は擴大する。
家畜
花やかな月が空にのぼつた げに大地のあかるいことは。 小さな白い羊たちよ 家の屋根の下にお這入り しづかに涙ぐましく動物の足調子をふんで。
夢
あかるい屏風のかげにすわつて あなたのしづかな寢息をきく。 香爐のかなしい烟のやうに そこはかとたちまよふ 女性のやさしい匂ひをかんずる。
かみの毛ながきあなたのそばに 睡魔のしぜんな言葉をきく あなたはふかい眠りにおち わたしはあなたの夢をかんがふ このふしぎなる情緒 影なきふかい想ひはどこへ行くのか。
薄暮のほの白いうれひのやうに はるかに幽かな湖水をながめ はるばるさみしい麓をたどつて 見しらぬ遠見の山の峠に あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。
ああ なににあこがれもとめて あなたはいづこへ行かうとするか いづこへ、いづこへ、行かうとするか。 あなたの感傷は夢魔に酢えて 白菊の花のくさつたやうに ほのかに神祕なにほひをたたふ。
寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて 貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた ああ ここにはもはや友だちもない戀もない 渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる その草の根はけむりのなかに白くかすんで 春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。 おぼろにみえる沖の方から 船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる あやしくもここの磯邊にむらがつて むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹の幽靈ですよ。
野鼠
どこに私らの幸福があるのだらう 泥土の砂を掘れば掘るほど 悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか 春は幔幕のかげにゆらゆらとして 遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。 どこに私らの戀人があるのだらう ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても もう永遠に空想の娘らは來やしない。 なみだによごれためるとんのづぼんをはいて 私は日傭人のやうに歩いてゐる ああもう希望もない 名譽もない 未來もない さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが 野鼠のやうに走つて行つた。
閑雅な食慾
松林の中を歩いて あかるい氣分の珈琲店をみた 遠く市街を離れたところで だれも訪づれてくるひとさへなく 松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店である。 をとめは戀戀の羞をふくんで あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組 私はゆつたりとふほくを取つて おむれつ ふらいの類を喰べた 空には白い雲がうかんで たいそう閑雅な食慾である。
馬車の中で
馬車の中で 私はすやすやと眠つてしまつた。 きれいな婦人よ 私をゆり起してくださるな 明るい街燈の巷をはしり すずしい緑蔭の田舍をすぎ いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。 ああ蹄の音もかつかつとして 私はうつつにうつつを追ふ きれいな婦人よ 旅館の花ざかりなる軒にくるまで 私をゆり起してくださるな。
野景
弓なりにしなつた竿の先で 小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる おやぢは得意で有頂天だが あいにく世間がしづまりかへつて 遠い牧場では 牛がよそつぽをむいてゐる。
絶望の逃走
おれらは絶望の逃走人だ おれらは監獄やぶりだ あの陰鬱な柵をやぶつて いちどに街路へ突進したとき そこらは叛逆の血みどろで 看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。
あれからずつと おれらは逃走してやつて來たのだ あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を みんなは栗鼠のやうに這ひつた いつもおれたちの行くところでは 暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。
逃走の道のほとりで おれらはさまざまの自然をみた 曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や おれらは逃走し どこでも不景氣な自然をみた どこでもいまいましいめに出あつた。
おれらは逃走する どうせやけくその監獄やぶりだ 規則はおれらを捕縛するだらう おれらは正直な無頼漢で 神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか 良心だつてその通り おれらは絶望の逃走人だ。
逃走する 逃走する あの荒涼とした地方から 都會から 工場から 生活から 宿命からでも逃走する さうだ! 宿命からの逃走だ。
日はすでに暮れようとし 非常線は張られてしまつた おれらは非力の叛逆人で 厭世の、猥弱の、虚無の冒涜を知つてるばかりだ。 ああ逃げ道はどこにもない おれらは絶望の逃走人だ。
僕等の親分
剛毅な慧捷の視線でもつて もとより不敵の彼れが合圖をした 「やい子分の奴ら!」 そこで子分は突つぱしり 四方に氣をくばり めいめいのやつつける仕事を自覺した。
白晝商館に爆入し 街路に通行の婦人をひつさらつた かれらの事業は奇蹟のやうで まるで禮儀にさへ適つてみえる。 しづかな、電光の、抹殺する、まるで夢のやうな兇行だから 市街に自動車は平氣ではしり どんな平和だつてみだしはしない。 もとより不敵で豪膽な奴らは ぬけ目のない計畫から 勇敢から、快活から、押へきれない欲情から 自由に空をきる鳥のやうだ。 見ろ 見ろ 一團の襲撃するところ 意志と理性に照らされ やくざの祕密はひつぺがされ どこでも偶像はたたきわられる
剛毅な 慧捷の瞳でもつて 僕等の親分が合圖をする。 僕等は卑怯でみすぼらしく 生き甲斐もない無頼漢であるが 僕等の親分を信ずるとき 僕等の生活は充血する 仲間のみさげはてた奴らまでが いつぽんぶつこみ 拔きつれ まつすぐ喧嘩の、繩ばりの、讐敵の修羅場へたたき込む。
僕等の親分は自由の人で 青空を行く鷹のやうだ。 もとより大膽不敵な奴で 計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。 かれは生活を創造する。 親分!
涅槃
花ざかりなる菩提樹の下 密林の影のふかいところで かのひとの思惟にうかぶ 理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
涅槃は熱病の夜あけにしらむ 青白い月の光のやうだ 憂鬱なる 憂鬱なる あまりに憂鬱なる厭世思想の 否定の、絶望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影 哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。
涅槃は熱帶の夜明けにひらく 巨大の美しい蓮華の花か ふしぎな幻想のまらりや熱か わたしは宗教の祕密をおそれる ああかの神祕なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。
涅槃は媚藥の夢にもよほす ふしぎな淫慾の悶えのやうで それらのなまめかしい救世の情緒は 春の夜に聽く笛のやうだ。
花ざかりなる菩提樹の下 密林の影のふかいところで かのひとの思惟にうかぶ 理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
かつて信仰は地上にあつた
でうすはいすらええるの野にござつて 惡しき大天狗小天狗を退治なされた。 「人は麥餠だけでは生きないのぢや」 初手の天狗が出たとき 泥薄如來の言はれた言葉ぢや これぢやで皆樣 ひとはたましひが大事でござらう。 たましひの罪を洗ひ淨めて よくよく昇天の仕度をなされよ。 この世の説教も今日かぎりぢや 明日はくるすでお目にかからう。 南無童貞麻利亞聖天 保亞羅大師 さんたまりや さんたまりや。
信仰のあつい人人は いるまんの眼にうかぶ涙をかんじた 悦びの、また悲しみの、ふしぎな情感のかげをかんじた。 ひとびとは天を仰いだ 天の高いところに、かれらの眞神の像を眺めた。 さんたまりや さんたまりや。
奇異なるひとつのいめえぢは 私の思ひをわびしくする かつて信仰は地上にあつた。 宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱したひとびとの群があつた。 ああいま群集はどこへ行つたか かれらの幻想はどこへ散つたか。 わびしい追憶の心像は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。
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