一
南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公から馬鹿と云われたって怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年前、神田の小川亭の前にあった怪しげな天麩羅屋へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試がない。「今度いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその格だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍が迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。何でも是公に聞いて見ると馬関や何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この尨大な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが厭なら別でも差支えないと云う返事であった。 それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月半ばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。立てると云えば立てるような身上だから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ何日の船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。それも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから一船延ばすがどうだと云う便りがあった。これも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し悪くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な塊に見えた。それでも御供旅行の好奇心はどこかに潜んでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。 そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛っていれば清浄潔白で何も不足はないじゃないかと云う気になった。枕元で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない下賤なものはあるまいと思った。眼を開いて本棚を見渡すと書物がぎっしり詰っている。その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。煩わしい事夥しい。何の酔興でこんな差別をつけたものだろう、また何の因果でそれを大事そうに列べ立てたものだろう。実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった。 禎二さんが蒲団の横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿気ていて何とも云う了見にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非止めなくっちゃならないと説諭したが、御尤もだとも不尤もだとも答えるのが厭だった。 そのうち日は容赦なく経った。病気は依然として元のところに逗留していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った。中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。
二
小蒸気を出て鉄嶺丸の舷側を上るや否や、商船会社の大河平さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。船が動き出すと、事務長の佐治君が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で出逢うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。こうみんなが総裁総裁と云うと是公と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう安東県を経て、韓国にまで及んだのだから少からず恐縮した。総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友中村是公を代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに大袈裟で、あまりに親しみがなくって、あまりに角が出過ぎている。いっこう味がない。たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と呼び棄てにしたかったんだが、衆寡敵せず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは遺憾である。 船の中は比較的楽だった。二百十日の明る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外呑気にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは鈍り返っていた。甲板の上に若い英吉利の男が犬を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う。 ありゃ何ですかと事務長の佐治さんに聞くと、え、あれは英国の副領事だそうですと、佐治さんが答えた。副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていた。もっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえない。この犬はその後大連に渡って大和ホテルに投宿した。そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に出食わして一驚を喫した。固より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入って来たものと見える。もっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇の下に抱えて食堂の外に出て行った。その退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも風呂敷包のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股に歩んで戸の外に身体を隠した。その時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかった。あたかも弾力ある暖かい器械の、素直に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状に至ってはすこぶる気高いものであった。余はその後ついにこの犬に逢う機会を得なかった。
三
退屈だから甲板に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方のつかない天気の中に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。しばらくその痕を眺めていたが、やがてまた籐椅子の上に腰をおろした。例の英吉利の男が、今日は犬を椅子の足に鎖で縛りつけて、長い脛をその上に延ばして書物を読んでいる。もう一人の異人はサルーンで何かしきりに認め物をしている。その妻君はどこへ行ったか見えない。亜米利加の宣教師夫婦は席を船長室の傍へ移した。甲板の上はいつもの通り無事であった。ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。その響の中でいつの間にかうとうとした。 眼が覚めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を引っ剥がして見た。傍には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。いずれも佐治文庫と云う判が押してある。これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。友人の畔柳芥舟と同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。 また室を出て海を眺めた。すると先刻黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは鉄嶺丸とほぼ同じぐらいに思われるが、船足がだいぶ遅いと見えて、しばらくの間にもうこれほど追つかれたのである。欄干に頬杖を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と後から逼って行くのがよく分る。しまいには黄色い文字で書いた営口丸の三字さえ明かに読めるようになった。やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出た。そうして、尻から胴の方へじりじりと競り上げて行った。船は約一丁を隔ててほとんど並行の姿勢で進行している。もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に逼って来た。向うの甲板にいる乗客の影が確に勘定ができるようになった。見るとことごとく西洋人である。中には眼鏡を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。髪の色も眼鼻立も甲板に立っている人は御互に鮮かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかった。と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓して刹那に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打つかるなと思った。途端に向うの舳は余の眼を掠めて過ぎ去りつつ、逼りつつ、とうとう中等甲板の角の所まで行ってどさりと当った。同時に甲板の上に釣るしてあった端艇が二艘ほどでんぐり返った。端艇を繋いであった鉄の棒は無雑作に曲った。営口丸の船員は手を拍ってわあと囃し立てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。 一時間の後佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。為替の替せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名が好いでしょうと忠告した。佐治さんは呆れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。
四
船が飯田河岸のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊るとさらに不体裁である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、陸の方で帽子を振って知人に挨拶をするものなどができて来た。宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら御世辞を云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら権威赫々たる総裁だって予知し得る道理がない。余は欄干に頬杖を突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の家へ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は鷹揚にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒った蜂の巣のように、急に鳴動し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った身体なんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。まあひとまず総裁の家へでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、紺色の夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して叮嚀に挨拶をされた。それが秘書の沼田さんだったので、頬杖を突いて、いつまでも鳴動を眺めている余には、大変な好都合になった。沼田さんは今度郷里から呼び迎えられた老人を、自宅へ案内されるために、船まで来られたのだそうだが、同じ鉄嶺丸に余の乗っている事を聞いて、わざわざ刺を通じられたのである。 じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。河岸の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた。力車もたくさんある、ところが力車はみんな鳴動連が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、御せられている様子である。したがっていずれも鳴動流に汚ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、露助が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、御叮嚀に穴を掘って、土の中に埋めて行ったのを、チャンが土の臭を嗅いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を縦横十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。 その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗なのが二台あった。御者が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を穿いて、哈爾賓産の肥えた馬の手綱を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の傍まで連れて行った。さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ鞭を執った。車は鳴動の中を揺ぎ出した。
五
門を這入って馬車の輪が砂利の上を二三間軋ったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。石段を上って、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈な樫の戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶をした。もう御帰りかと尋ねると、まだでございますと云う。留守では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に佇ずんで首を傾けているところへ、後に足音がするようだからふり向くと、先刻鉄嶺丸で知己になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、中に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、室の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい性質だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の絨毯で敷きつめられて、四角だけがわずかばかり華やかな織物の色と映り合うために、薄暗く光っている。この大きな絨毯の上に、応接用の椅子と卓がちょんぼり二所に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。仰向いて見ると天井がむやみに高い。高いはずである。室の入口には二階がついていて、その二階の手摺から、余の坐っている所が一目に見下されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井兼二階の天井である。後に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公の書斎へ通ったので、喫驚する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様を思い出さない事はなかった。 室を這入って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二鉢置いて、横に奇麗な象の置物が据えてある。大きさは豚の子ほどある。これは狸穴の支社の客間で見たものと同じだから、一対を二つに分けたものだろうと思った。そのほかには長い幕の上に、大な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。書体から云うと、上海辺で見る看板のような字で、筆画がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨くなったものだと感心したが、その実感心したのは、後藤さんの揮毫ではなくって、清国皇帝の御筆であった。右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小さ過ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に逢って、こう小さく呼び棄に書かれちゃたまらない。えらい人からは、滅多に賜わったり何かされない方がいいと思った。 沼田さんは給仕を呼んで、処々方々へ電話をかけさして、是公の行方を聞き合せてくれたが全く分らない。米国の艦隊が港内に碇泊しているので、驩迎のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを観に行ってるかも知れないと云う話であった。 そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。
六
湯を立ててもらって、久しぶりに塩気のない真水の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩くものがある。風呂場で訪問を受けた試しはいまだかつてないんだから、湯槽の中で身を浮かしながら少々逡巡していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。いくらこつこつやったって、まさか赤裸で飛び出して、室の錠を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。すると摺硝子の向側で、ちょっと明けなさいと云う声がする。この声なら明けても差支えないと思って、身体全体から雫を垂らしながら、素裸でボールトを外すと、はたして是公が杖を突いて戸口に立っていた。来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観て、それから舟を漕いでいたと云う挨拶である。飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締めた。締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭なら遼東ホテルへでも行けと云って帰って行った。 例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓へ坐らせられた。その男が御免なさい、どうも嚏が出てと、手帛を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗に嚏を奨励しておいた。この男は自分で英人だと名乗った。そうして御前は旅順を見たかと余に尋ねた。旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを委しく語って聞かせた。余はなるほどなるほどと聞いていた。次に御前は門司を見たかと聞いた。次にあすこの石炭はもう沢山は出まいと聞いた。沢山は出まいと答えた。実は沢山出るか出ないか知らなかったのである。 しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも前同様な返事をしておいた。すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた先刻と寸分違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。最後に突然御前は日本人かと尋ねた。余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは何国人と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。 余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀で親切で慇懃で実に模範的国民だなどとしきりに御世辞を振り廻し始めた。せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた。 表へ出るとアカシヤの葉が朗らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の蹄は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から突出した細長い塔が、瑠璃色の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝つかせていた。
七
この間から米国の艦隊が四艘来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、翌日の晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと是公が勧めた。出て見ろったって、燕尾服も何も持って来やしないから駄目だよと断ると、是公が希知な奴だなと云った。燕尾服は其上倫敦留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を拵えた覚があるが、爾来箪笥の底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか持ってないか知らないくらいである。いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり箪笥の底にしまったなりで出て来た。じゃ、おれの袴羽織を貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、どんな容子だか見るが好いと、是公は何でも引き摺り出そうとする。いっそ出るくらいなら踊らなくっちゃつまらないから、日本服ならまあ止そうと云いたかったが、是公は正直だから本当にすると好くないと思って、ただ羽織袴はいけないよと断った。是公はそれでも舞踏会を見せる気と見えて、翌日の午、社の二階で上田君を捕えて、君の燕尾服をこいつに貸してやらないか、君のならちょうど合いそうだと云っていた。上田君もこの突然な相談には辟易したに違ない。笑いながら、いえ私のは誰にも合いませんと謙遜された。 舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから倶楽部に連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めた。だいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の下に出た。広い通りを一二丁来ると日本橋である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、雅にも丈夫にもできている。三人は橋の手前にある一棟の煉瓦造りに這入った。誰かいるかなと、玉突場を覗いたが、ただ電灯が明るく点いているだけで玉の鳴る音はしなかった。読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく列べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった。将棋歌留多をやる所へ這入って腰をかけて見たが、三人の尻をおろしたほかは、椅子も洋卓もことごとく空いていた。今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う。是公の会話の下手な事は天品と云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに出入して赤髯と交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの倶楽部の会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと呑気な説明をした。 会員の名札はなるほど外国流の綴が多い。国沢君は大きな本を拡げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。是公はよろしいと答えて、自分の名の前に proposed by と付けた。それへ国沢君が、同く seconded by と加えてくれたので、大連滞在中はいつでも、倶楽部に出入する資格ができた。 それから三人でバーへ行った。バーは支那人がやっている。英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの裡に星の光を認めた。国沢君がわざわざホテルの玄関まで送られた。玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った。国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。
八
ホテルの玄関で、是公が馬車をと云うと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや開いた奴が好いと命じている。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透き徹って、路も樹も屋根も煉瓦も、それぞれ鮮やかに眸の中に浮き出した。 やがて蹄の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの麗かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ這入らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、遥向うの岡の上に高いオベリスクが、白い剣のように切っ立って、青空に聳えている。その奥に同じく白い色の大きな棟が見える。屋根は鈍い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には奇麗な橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の位地と関係と恰好とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々危しくなって来た。よくよく糺明して見ると、実は今月末とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。 そのうち馬車が、電車の軌道を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で稽古している最中なのだから、軌道がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、鉄軌の据え方が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい。御影石が払底なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である。内地から来たものはなるほど田舎もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。 馬車が岡の上へ出た。そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の黄土が、見るうちに靴の先から洋袴の膝の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。
九
これが豆油の精製しない方で、こっちが精製した方です。色が違うばかりじゃない、香も少し変っています。嗅いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。 用いる途ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのです。これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じです。その点から見てもはなはだ重宝です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。動物性と同じくらいに消化れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり天麩羅などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。 出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、石鹸が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって葢をした。 柞蚕から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、傍に出されると全く白い。かつ節なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、羽二重のようなものができるつもりですと云う。その上価段が半分だと云う。柞蚕から羽二重が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ善かろう。 高粱酒を出して洋盃に注ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間高峯譲吉さんが来て、高粱からウィスキーを採るとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。 陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。 中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。その上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に免じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ椅子の上へ腰をかけてしまった。是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやった。これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に這入った。 そこへ汚ない支那人が二三人、奇麗な鳥籠を提げてやって来た。支那人て奴は風雅なものだよ。着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を樹の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば鳴き競をするからね。ああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を賞めている。余はポッケットからゼムを出して呑んだ。
十
政樹公が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。政樹公には十年前上海で出逢ったきりである。その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。 政樹公の姓は立花と云って柳川藩だから、立派な御侍に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。しかも双方共寄宿舎に這入っていたものだから、立花君や立花さんでは紛れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎という俗称だから銑さん銑さんと云った。なぜ片っ方が公なのに、片っ方はさんづけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹って、帰り路に香港で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公と云い馴れたようなものだろう。 ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻具合が悪いとかで家へ帰った後であった。こっちの都合もあるし、所労の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。広い階子段を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。それに一々紹介された。その中で昔見た田中君の顔を覚えていた。どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。 しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午になった。さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。この人数から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。 料理は大和ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。胃が痛いので肉刀と肉匙は人並に動かしたようなものの、その実は肉も野菜も咽喉の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形の西洋梨を勧られた時は、手を出す勇気すらなかった。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页
|