仰臥漫録
何度読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろさのしみ出して来るものは夏目先生の「修善寺日記」と子規の「仰臥漫録」とである。いかなる戯曲や小説にも到底見いだされないおもしろみがある。なぜこれほどおもしろいのかよくわからないがただどちらもあらゆる創作の中で最も作為の跡の少ないものであって、こだわりのない叙述の奥に隠れた純真なものがあらゆる批判や估価を超越して直接に人を動かすのではないかと思う。そしてそれは死生の境に出入する大患と、なんらかの点において非凡な人間との偶然な結合によってのみ始めて生じうる文辞の宝玉であるからであろう。 岩波文庫の「仰臥漫録」を夏服のかくしに入れてある。電車の中でも時々読む。腰かけられない時は立ったままで読む。これを読んでいると暑さを忘れ距離を忘れる事ができる。 「朝 ヌク飯三ワン 佃煮 梅干 牛乳一合ココア入リ[#「ココア入リ」は本文より小さいサイズの文字] 菓子パン 塩センベイ……」こういう記事が毎日毎日繰り返される。それが少しもむだにもうるさくも感ぜられない。読んでいる自分はそのたびごとに一つ一つの新しき朝を体験し、ヌク飯のヌクミとその香を実感する。そして著者とともに貴重な残り少ない生の一日一日を迎えるのである。牛乳一合がココア入りであるか紅茶入りであるかが重大な問題である。それは政友会が内閣をとるか憲政会が内閣をとるかよりははるかに重大な問題である。 昼飯に食った「サシミノ残リ」を晩飯に食ったという記事がしばしば繰り返されている。この残りの刺身の幾片かのイメージがこの詩人の午後の半日の精神生活の上に投げた影はわれわれがその文字の表面から軽々に読過するほどに希薄なものではなく、卑近なものでもなかったであろう。 この病詩人を慰めるためにいろいろのものを贈って来ていた人々の心持ちの中にもさまざまな複雑な心理が読み取られる。頭の鋭い子規はそれに無感覚ではなかったろう。しかし子規は習慣の力でいろいろの人からいろいろのものをもらうのをあたかも当然の権利ででもあるかのようにきわめて事務的に記載している。この事務的散文的記事の紙背には涙がある。 頭が変になって「サアタマランサアタマラン」「ドーシヨウドーシヨウ」と連呼し始めるところがある。あれを読むと自分は妙に滑稽を感じる。絶体絶命の苦悶でついに自殺を思うまでに立ち至る記事が何ゆえにおかしいのか不思議である。「マグロノサシミ」に悲劇を感じる私はこの自殺の一幕に一種の喜劇を感得する。しかし、もしかするとその場合の子規の絶叫はやはりある意味での「笑い」ではなかったか。これを演出しこれを書いたあとの子規はおそらく最も晴れ晴れとした心持ちを味わったのではないか。 夏目先生の「修善寺日記」には生まれ返った喜びと同時にはるかな彼方の世界への憧憬が強く印せられていて、それはあの日記の中に珠玉のごとくちりばめられた俳句と漢詩の中に凝結している。子規の「仰臥漫録」には免れ難い死に当面したあの子規子の此方の世界に対する執着が生々しいリアルな姿で表現されている。そしてその表現の効果の最も強烈なものは毎日の三度の食事と間食とのこくめいな記録である。「仰臥漫録」から「ヌク飯」や「菓子パン」や「マグロノサシミ」やいろいろの、さも楽しみそうに並べしるしたごちそうを除去して考える事は不可能である。 「仰臥漫録」の中の日々の献立表は、この命がけで書き残された稀有の美しい一大詩編の各章ごとに規則正しく繰り返されるリフレインでありトニカでなければならない。
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