風呂の流し
風呂の流しいわゆる三助というものはいつの世に始まったものか知らないが考えてみると妙な職業である。大きな宿屋などの三助ででもあれば、あたりまえなら接近する事も困難なような貴顕のかたがたを丸裸にしてその肢体を大根かすりこぎででもあるように自由に取り扱って、そうしておしまいには肩や背中をなぐりつけ、ひねくり回すのである。また昔西洋の森の中にすんでいたサティールででもなければ見られなかったはずの美しいニンフたちの姿を、なんら罰せらるる事なしに日常に鑑賞し賛美する特権をもっているわけである。 西洋にも同じような職業があったと見えて、古い木版画でその例を見た事がある。大きな青竜刀の柄を切ったようなものをさげていて、これでごしごし垢でもこするのではないかと思われた。やはり褌のようなものをしているのがおもしろかった。 私は銭湯へ通っていた時代にも、かつてこの流しをつけた事がない。自分でも洗えば洗われる自分の五体を、どこのだれだかわからぬ男に渡してしまって物品のように取り扱われる気にどうしてもなれなかったのである。 しかし、困った事には旅行をして少し宿屋らしい宿屋に泊まると、きっと強制的にこの流しをつけられる。これは断わればいいのかもしれないが、わざわざ断わるのもぐあいが悪いので観念して流させる事にしている。非常に気持ちが悪い。ことにいちばん困るのは、按摩のつもりでやせた肩をなぐりつけ捻りつけられる事である。頭や腹へ響いて苦痛を感じる。もうたくさんであると言っても存外すぐにはやめてくれない。誠に迷惑である。丁寧なのになると、流しが終わってもいつまでもそばについていて、最後にタオルまですすいでくれる。監視されながらの入浴はなんとなく気づまりでこれも迷惑である。 友人たちにこの事を話してみるに、自分に同情する人はまだない。ある人は流しがなるべく念入りで按摩も十二分にやらないと不愉快であるという。また一人は旅行中宿屋の風呂の流しで三助からその土地の一般的知識を聞き出すのが最も有効でまた最も興味があるというのである。 そうしてみると、世の中には、多くの人に喜ばれる流しをはなはだしく嫌忌する人間もまれにはあるという事実を一つの事実として記録しておく事もむだではないかもしれない。 ついでながら精神的の方面でこの風呂の三助に相当する職業もあるようである。心の垢を落とすのも、からだの垢を落とすのも、商売となれば似たものではないだろうか。この心の三助に対しても私は取捨の自由を与えらるる事を希望するものである。
調律師
種々な職業のうちでピアノの調律師などは、当人にはとにかく、はたから見て比較的きれいで品の悪くないものである。だんだん西洋音楽の普及するに従ってこの仕事に対する要求が増加するので、従業者の数もこれに応じて増加しつつあるにかかわらず、いつも商売が忙しそうである。 ピアノでもすえてあろうという室ならばたいていあまり不愉快でないだけの部屋ではあるだろうと思う。そうして応接する人間もたぶんはそれほど無作法に無礼でもなさそうに想像される。 たくさんな弦線の少しずつ調子の狂ったのを、一定の方式に従って順々に調節して行く。鍵盤のアクションのぐあいの悪いのを一つ一つたんねんに検査して行く。これは見ていても気持ちのいいものである。かゆい所をかくに類した感じがある。すっかり調律を終わってから、塵埃を払い、ふたをして、念のために音階とコードをたたいてみていよいよこれで仕事を果たしたという瞬間はやはり悪い気持ちはしないであろうと想像される。 夏目先生の「草枕」の主人公である、あの画家のような心の目をもった調律師になって、旅から旅へと日本国じゅうを回って歩いたらおもしろかろうと考えてみた事もある。 狂ったピアノのように狂っている世道人心を調律する偉大な調律師は現われてくれないものであろうか。せめては骨肉相食むような不幸な家庭、儕輩相※[#「門<兒」、146-13]ぐようなあさましい人間の寄り合いを尋ね歩いて、ちぐはぐな心の調律をして回るような人はないものであろうか。 物語に伝えられた最明寺時頼や講談に読まれる水戸黄門は、おそらく自分では一種の調律師のようなつもりで遍歴したものであったかもしれない。しかしおそらくこの二人は調律もしたと同時にまたかなりにいい楽器をこわすような事もして歩いたかもしれない。 調律師の職業の一つの特徴として、それが尊い職業であるゆえんは、その仕事の上に少しの「我」を持ち出さない事である。音と音とは元来調和すべき自然の方則をもっている、調律師はただそれが調和するところまで手をかして導くに過ぎない。 いわゆるえらい思想家も宗教家もいらない。ほしいものはただ人間の心の調律師であると思う時もある。その調律師に似たものがあるとすればそれはいい詩人、いい音楽者、いい画家のようなものではないだろうか。 しかし世の中にはあらゆる芸術に無感覚なように見える人があり、またこれを嫌悪する人さえあるように見える。こういう人たちは「心のピアノ」を所有しない人たちである。従って調律師などには用のない人である。そういう人はいわゆる「人格者」と称せられる部類の人種の中に多いように見受けられる。これはむしろ当然の事であろう。もたないピアノに狂いようはない。咲かない花に散りようはないと同じわけである。
芥川竜之介君
芥川竜之介君が自殺した。 私が同君の顔を見たのはわずかに三度か四度くらいのものである。そのうちの一度は夏目先生のたしか七回忌に雑司が谷の墓地でである。大概洋服でなければ羽織袴を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くちびるの色が著しくあかく見えた事、長い髪を手でなで上げるかたちがこの人の印象をいっそう憂鬱にした事などが目に浮かんで来る。参拝を終わってみんなが帰る時にK君が「どうだ、あとで来ないか」と言った時に黙ってただ軽く目礼をしただけであったと覚えている。そんな事まで覚えているのは、その日の同君が私の頭に何か特別な印象を刻みつけたためかと思われる。 もう一度はK社の主催でA派の歌人の歌集刊行記念会といったようなものを芝公園のレストーランで開いた時の事である。食卓で幹事の指名かなんかでテーブルスピーチがあった。正客の歌人の右翼にすわっていた芥川君が沈痛な顔をして立ち上がって、自分は何もここで述べるような感想を持ち合わさない。ただもししいて何か感じた事を述べよとならば、それは消化器の弱い自分にとって今夜の食卓に出されたパンが恐るべきかたいパンであったという事であると言って席についた。その夜の芥川君には先年雑司が谷の墓地で見た時のような心弱さといったようなものは見えなかった。若々しさと鋭さに緊張した顔容と話しぶりであった。しかし何かしら重い病気がこの人の肉体を内側から虫ばんでいる事はだれの目にもあまりに明白であった。「恐るべきかたいパン」、この言葉が今この追憶を書いている私の耳の底にありあり響いて聞こえる。そしてそれが今度の不慮の死に関する一つの暗示ででもあったような気がしてならない。 あの時同じ列にすわった四五人の中でもう二人は故人となった。そのもう一人は歌人のS・A氏である。
過去帳
丑女が死んだというしらせが来た。彼女は郷里の父の家に前後十五年近く勤めた老婢である。自分の高等学校在学中に初めて奉公に来て、当時から病弱であった母を助けて一家の庶務を処理した。自分が父の没後郷里の家をたたんでこの地へ引っ越す際に彼女はその郷里の海浜の村へ帰って行った。彼女の家を立てるべき弟は日露戦争で戦死したために彼女はほんとうの一人ぽっちであったので、他家に嫁した姉の女の子を養女にしてその世話をしているという事であった。 母の存命中は時々手紙をよこしていたが、母の没後は自然と疎遠になっていたので今度の病気の事も知らないでいた。年とってからはいろいろの病気をもっていたそうであるから、たぶんはそのうちのどれかのために倒れたものであろう。 彼女はあらゆる意味で忠実な女であった。物事を中途半端にすることのできないたちであった。その性質は自然に往々「我」の強さの形をとって現われた。また一方無学ではあるが女には珍しい明晰なあたまと鋭い観察の目をもっていた。だれでもかまわず無作法にじっと人の顔を見つめる癖があった、その様子が相手の目の中からその人の心の奥の奥まで見通そうとするようであった。実際彼女にはそういう不思議な能力が多分にあったように見える。人間の技巧の影に隠れた本性がそのままに見えるらしかった。そういう点で彼女は多くの人からはむしろはばかられあるいは憎まれたようである。たださすがに女であるだけに自分自身の内部を直視する事はできなかったらしい。 ある時ある高い階級の婦人が衆人環視の中で人力車を降りる一瞬時の観察から、その人の皮膚のある特徴を発見してそれを人に話したので、実に恐ろしい女だと言ってそれが一つ話になった。 彼女は日本の女には珍しい立派な体格の所有者であった。容貌も醜くないルーベンス型に属していた。挙動は敏活でなくてむしろ鈍重なほうであったが、それでいて仕事はなんでも早く進行した。頭がいいからむだな事に時を費やさないのである。そうして骨身を惜しむ事を知らないし、油を売る事をしらなかったせいであろう。 自分は彼女の忠実さに迷惑を感ずる事も少なくなかった。かまわないで打っちゃっておいてもらいたい事を決してそうはしてくれなかった。つまり二つの種類のちがったイーゴイストはこの点で到底相容れる事ができなかったのであろう。 妙な事を思い出す。父の最後の病床にその枕もと近く氷柱を置いて扇風器がかけてあった。寒暖計は九十余度を越して忘れ難い暑い日であった。丑女はその氷柱をのせたトタン張りの箱の中にとけてたまった水を小皿でしゃくっては飲んでいた。そんなものを飲んではいけないと言って制したが、聞かないで何杯となくしゃくっては飲んでいた。彼女の目の周囲には紫色の輪ができていた事をはっきり思い出す事ができる。 昨年母の遺骨を守って帰省した時に、丑女はわざわざ十里の道を会いに来てくれた。その時彼女の髪の毛に著しく白いものが見えて来たのに気がついた。自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。たとえ生きていてももう再び会う事があるかどうかもわからず、通り一ぺんの年賀や暑中見舞い以外に交通もない人は、結局は思い出の国の人々であるにもかかわらず、その死のしらせはやはり桐の一葉のさびしさをもつものである。 雑記帳の終わりのページに書き止めてある心覚えの過去帳をあけて見るとごく身近いものだけでも、故人となったものがもう十余人になる。そのうちで半分は自分より年下の者である。これらの人々の追憶をいつかは書いておきたい気がする、しかしそれを一々書けば限りはなく、それを書くという事はつまり自分の生涯の自叙伝を書く事になる。これは容易には思い立てない仕事である。そうしておそらくそれを書き終わるより前に自分自身がまただれかの過去帳中の人になるであろう。 身近い人であればあるほどその追憶の荷はあまりに重くて取り上げようとする筆の運びを鈍らせる。ただ思い出の国の国境に近く住むような人たちの事だけが比較的やすらかな記録の資料となりうるようである。 自分の過去帳に載せらるべくしてまだ載せられてないものには三匹の飼い猫がある。不思議な事には追懐の国におけるこれらの家畜は人間と少しも変わらないものになってしまっている。口もきけば物もいう。こちらの心もそのままによく通ずる。そうして死んだ人間の追憶には美しさの中にも何かしら多少の苦みを伴なわない事はまれであるのに、これらの家畜の思い出にはいささかも苦々しさのあと味がない。それはやはり彼らが生きている間に物を言わなかったためであろう。
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