さくら 敬白
ちなみに英貨一片は日本の約四銭、一志がざっと五十銭に相当するこというまでもない。 さて。 そこで私たちも「日本へ帰ったような気」になって片隅に腰をおろし、耳へ飛びこんでくる雑然たる「日本」の物音を心しずかに味わっていると――。 給仕人と女給――ともに日本人――が二階の台所へ向って註文を通す声がはっきり聞える。 『定食ツウ!』 けだし「ツウ」は two にして二つの意味であろう。 『ナンバ・フォア、味噌汁スリイ願います。』 四番さんおみおつけ三つというところ。 『ワン新香、おうらい!』 『海苔まきフォア・六人!』 『ナンバ・セヴンのお椀まだですか。』 『十一番さん、御飯おかわり!』 皿の音、沢庵の香、お醤油のこげるにおい、おつゆを啜る盛大なひびき、「いらっしゃいまし」「お待ち遠さま」「有難う存じます」の声々――それに混じって食堂じゅうに色んな日本語が縦横に走り交している。 『おい君、巴里で行ったかい? え? ほら、あそこさ。例のところさ。はは。』 と大声を発しているのは、若い会社員の一団――恐らくは一つ橋出らしい郵船の人たち――の食卓である。 『いや、そのことさ。じつはこうなんだ――。』 ひとりが答えかけて低声になると、みんなの首がまえへ出て話し手のほうへ集まる。 隣りに静粛にお刺身をつついている二人の老人組は、その端正さ、その謹厳な態度から押して、ともに大学教授何なに博士に相違ない。口をもごもごさせて何か言っているようだが、ときどきウインというのが聞えるところから見ると、近くウインから来倫したものらしい。泰然と落着いて二本の箸をあやつっている容子に、どことなく中華大人の風格があって、なかなか頼母しい眺めである。 こっちの卓子には、頭をきれいに分けて派出な両前の服を着た日本青年――N男爵嗣子オックスフォウドの学生――が、とうに食べおわったお膳をまえに、一月前の東京の新聞に読みふけっている。そばの家族づれは領事館の人らしい。七、八つの男の子が上手に日本言葉と英語を使いわけている。 『わっはっは!』 という猛烈な笑い声が若い会社員のてえぶるに爆発して、一時満堂の注意をあつめる。かれらは「若い会社員」らしい、いわゆる「わいだん」を一しきり済ましたのち、こんどはゴルフの話題だ。 『そりゃあ畑中君にゃあ敵わないさ。何といったっていいドライヴだからなあ――。』 『しかし、はじめのうちから早く廻ろうとするのはうそだね。』 『畑中なんか君、玄人に言わせるとゴルフじゃないっていうぜ。』 畑中君はその場に居あわせないとみえて、君と君のゴルフがあらゆる批評を受けている。 『三味線は宜うがすな。』 いずくからともなく渋い声がする。あちこち見廻して声の出どころを探すと、いつの間にか、商用の重役らしい三人づれが一卓を占めて、牛鍋のアルコホル焜炉をかこんでいるのだった。 『婆さんは残してきても何とも思わんが、三味線だけは手離せんでな。わざわざ持って来ましたが、洋行に三味線でもあるまい言うて、慶応へ行っとる伜なんか大笑いしとりました。なあに、国民音楽だから構わん、こう頑張って一挺トランクへ入れてきたんだが、さて、いざとなるとどうもホテルじゃ鳴らせませんわい。気分になれん。出して弄ってみるのが関の山で、いまでは荷厄介です。』 こう言って、非常に荷厄介らしい顔で食堂じゅうを見わたしている。 べつの方角からべつの声がする。 『佐々木さんの奥さん思いったら君、一週間奥さんから手紙がこないと、君、あいつどうしたんだろうねえってとても真面目な顔で俺んとこへ相談に来るんだからなあ――やりきれねえよ俺も。』 『相手になるな相手に。佐々木のやつ、この頃どうかしてるんだよ。』 ひとりがごく簡単に佐々木さんを退治してしまう。そのほか、日本人は声が高いから、聞くまいとしても色んな話が自然と私の鼓膜を訪れる。この二、三秒間に聞えて来るはなし声を構成派的に並べてみてもこうなる。 『いや、それではかえって恐れ入りまするから、ええ、伯林のほうは伯林のほうと致しまして、ええこちらはわたくしが――。』 『電報でさ――と言って来たろう。困ったね僕も――何しろ切符は買ったあとだし――。』 『は。名古屋でございます。いえ工場は大阪でございますが、どうも事業の中心が。』 『君、酒、呑るかい? ビイル?』 『伊太利はどうも人気が悪くて、ムッソリニなんて大山師ですよ。』 『娘は、ことし県立を出まして、女のくせに洋画のほうへ進みたい――。』 『僕は思うんだが、日米戦争は、だね――。』 『おい、君、君、ボウイさん! ここはどうしたんだい。え、ああ。玉子焼きさ、一人前。』 そうしてむこうではのべつ幕なしに、 『うな丼ワン!』 であり、 『白和え出来ますか。イエス! ツウ・プリイズ!』 なのだ。 このこんとんたる模型日本の環境のなかから、外部に拡がるろんどんの世界をうかがっていると、そのあまりに浮き立っている独自性が頭から私をとらえて、一種異様な気もちが雲のように覆いかぶさってくるのを意識する。 日本! 日本! 東の海のはてに何から何まですっかり他と異った社会と生活を保持している日本! 変っていることは何かを意味しなければならない。この、変りすぎるくらい変っている日本こそは、その、こんなにかわっているところから見ても、たしかに世界の人類にひとつの使命をもたらそうとしている種子――種子だから形は小さい。が、それだけ包蔵する力は大きい――に相違ない、と。 これは決して単なる安価な愛国的感傷でもなければ、珍しくしこたま日本料理をつめこんだために急に気が強くなっての言でもない。じっさい、こうやってあちこち動いて国と山と人を見ればみるほど、日本人ほど深い感情、高いこころもちに生きている人間は、どこの野、どこの谷にも棲息していないことを私は一そう確めるばかりだ。 旅は驚異を求めて絶えず前進をうながす。が、その旅の提供し得るあらゆる驚異に慣れてしまうと、私は、いまさらのように自分の残してきた孤島を振りかえって、そこに大きな大きな無数の驚異を発見している。 日本! 早い話が、この眼前の食物一つでもわかるように、何というユニイクな国土! と、私が、自分の食べあらした皿を眺めて他人ごとのように感心していると、むこうの卓子から見識らぬ日本紳士が立ってきて慇懃に礼をした。 『ええ、ちょっと伺いますが――。』 『はあ。』 『わたくしは今朝チェッコスロバキヤから着きましたもので。』 『は。』 『ここははじめてですが――あのう、ボウイのチップはどうなっておりましょう? 一割勘定書について参りますか。それとも別に――。』 『べつに置くようです。私はいつも一割やりますが――。』 『あ、そうですか。どうも有難うございました。』 『いえ。どう致しまして。』 そうかと思うと、あっちの隅では二同胞のあいだに先刻から大論判がはじまっている。 『諾威も瑞典も旅券の査証は要らないんだ。』 『そうかなあ。どっちだったか確か要る国があったと思うがなあ。』 『いいや、要らない。』 『いや、たしかに要るよ!』 要る、いらないで際限がない。見兼たとみえて、けさチェッコから来た人が仲裁に這入って何かくどくど言っている。やがてその説明に満足したらしく、両方とも間がわるそうに黙りこんで、妙ににやにやしながらふたたび箸をとり出した。 このとき私たちは、彼女の発議で取ってみた缶詰の羊羹に「日本和歌山市名産」という紙が貼ってあるその愉快さにおどろいている。和歌山名物缶詰の羊羹には、多分に「明治」の味が缶詰してあった。 部屋いっぱいにはち切れそうに濃厚な「日本」の発音と臭気。そしてそとは、チャアリング・クロスの史的に気軽な人浪とABCの詩だ。 饒舌るのと食べるのと、ここばかりはともに日本の「口」の緑園である。 日本旅人のらんでう[#「らんでう」に傍点]。 玄妙きわまりなき東洋日本の縮図―― It is SAKURA; yes sir, just off Charing Cross ! 『ナンバ・エイト、定食スリイ!』
セルロイドの玩具
ヴィクトリヤ停車場のまえは文字どおりに人の顔の海洋だった。 それがみんな、ちょうど三角浪のように一せいに同じ方向をむいて伸び上っている。 午後三時二十七分、カレイ・ドウヴァ間の汽船に聯絡する汽車が、巴里で結婚したアドルフ・マンジュウを乗せていま到着しようとしている。今朝の新聞にそう出ていた。だからこの人だかりである。 いっぱんに男よりもものずきなせいか、この自発的出迎人には女が多い。それともかれアドルフは全女性の「甘い心臓」とでもいうのだろうか。とにかく、あらゆる類型と年齢の女人がこの広場を埋めつくして、ロンドン交通の一部に大きな支障を来すほど、巡査が解散を命じようが軍隊が出動しようが、いっかな動きそうもない。おそらくは消防夫が喞筒で硫酸を撒いても、すでにアドルフ・マンジュウを瞥見するためには死を賭して来ている彼女らは、びくともしないで立ちつくすことであろう。 が、これほど群集の過半を占めている女も、こうしてよくみると、タイプと階級はじつに決定的に極限されていて、いかにもアドルフ・マンジュウを崇拝おく能わざるらしい、そして、一眼でいいからその巴里の花嫁なる人を「見てやり」たいと言いたげな、そこらの店の売子、タイピスト、女事務員、女給、老嬢、女房たちである。これらの低い、それだけまた妙に真剣な人たちのうえに、ひとつの変に競争的な空気が漂って、青い空の下、黒い建物に挟まれて数えきれない女の顔が凝然といならび、製本中の本の頁のようにいやにきちんと揃っているのだ。ちょっと不思議な圧迫を感ずる。 思うにアドルフ・マンジュウの映像は、この人々の胸において、それぞれひとつの絶対な存在であるに相違ない。この近代商業芸術の創造したせるろいど英雄に対するファンなるもののこころもちは、ひどく個人的――恋がひどく個人的であるように――で、そうして恐ろしいまでにひたむき――ふたたび恋がそうであるように――なものに考えられる。すくなくとも、女たちの眼が、みんな一ようにこう意気込んでいるように見えるのだ。 つまり、アドルフ・マンジュウを見るということは、この女群の一人ひとりにとって、聖なる概念の現象化――早くいえば、そのままに奇蹟を意味するのだろう。 奇蹟を待つ人々はしいんとしている。
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