亜米利加は、便利でおそろしくにぎやかだが、ロンドンが一番好き――おちついた気分だから――というだけのことで、 『何しろあめりかは大したものです。早いはなしが、食い物屋へ出かける。あちらでいうカフェテリヤ、つまりレストランでさね。あなた方もまあ一度は亜米利加へも行ってごらんなさい。這入るてえとこう、ずらりと機械みたいな物が並んでて、穴へ金を入れると自働でもってパンが出る、ね、肉が出る、はははは、コップにコウヒイが出て一ぱいになると止まりまさあ――って調子で、万事が簡便主義です。そのかわり人間も簡便だ。あははは、エロウストン・パアクですかね。それからナイヤガラ――芝居は駄目です。活動に押されましてね、活動のほうが簡便だから――そりゃ勿論そうでしょう。活動はさかんなものです。』 『こっちへいらしって、たべ物はどうです? べつにお困りじゃありませんか。』 『いえ。日本にいても私は洋食が好きでしてね。巴里のトウダルジャン、あそこはうまいですな。倫敦じゃあスコットのステイキ――ええ、芝居はずいぶん見ましたし、その方面の人にもいろいろ会いましたが、日本の芝居はどうも時間が長すぎる。あれあぜひ一つ改良しなくちゃあ――それにこっちは背景や舞台装置を取りかえるのが非常に早くてなだらかだから、幕あいが短い。これもいいことです。服装ですか? 男は洋服に限りますね。が、女は? さあ――こっちの女は綺麗な脚をしている。だからああ脚を出すんでしょうが――ネクタイ? 亜米利加は派出です。で、私もはでなやつをして来たんだが、ある人に注意されましてね。じっさい英吉利は、みんなくすんだネクタイをしますね。あめりかみたいなのをしてると人が見ます。私もこちらで買って掛けかえました――何か蒐めてる物? そう、行ったところで匙をあつめています。』 ここで羽左がかえり見ると、東道役がいままで集めた記念匙を列挙する。 『ホノルル・桑港・ニウメキシコ・市伽古・ナイヤガラ・紐育・巴里・倫敦・エデンバラ・ストラットフォウドオンアヴォン。』 『それから、帰って楽屋へ飾ろうと思って方々で写真を買っています。』 羽左衛門がつけ足した。 何しろ、あのせっかく大きな耳が何の役にも立たないんだから、どうやら眼で見たことと、ほうぼうの日本人に言われたことしか這入っていないわけだ、などと誰やらわるくちをいった人もあったようだが、ただ一つ、たしかに実感と思えたのは、 『西洋じゃあ何でも自分でするからいい。ことにこうして旅をしていると、まあ自分のこたあじぶんでするほうが多がさあ。それが自然運動になります。それに食い物の時間がきまっていて、ほかの時に勝手に食うわけにいかない。日本じゃあんた、よる夜中に帰って来ても、ちゃあんと女中が起きて待ってて、茶を出す。すると意地がきたないから、おい、何か食うものあねえのか、なんてね――日本でこっちふうにやってごらんなさい。何だ、旦那が帰って来たのに茶も出さねえ――。』 ここらで私たちも座を立った。 帰ろうとすると、羽左衛門が東道役に時間をきいていた。 『タイム?』 と英語で! じつに流暢な英語で!
緑蔭
芝生に日光がそそいで、近くはかげろうに燃え、遠くは煙霧にかすみ、人はみどりに酔い、靴は炎熱に汗ばみ、花は蒼穹を呼吸し、自動車は薫風をつんざいて走り、自動車に犬が吠え、犬は白衣の佳人がパラソルを傾けて叱り、そのぱらそるに――やっぱり日光がそそぐ。 まるで印象派の点描のように晴明な効果を享楽するのが、初夏のハイド・パアクだ。 草に男女。遠足籠。サンドウィッチ。 水にはボウトと白鳥と、それらの影。 そうしていたるところに陽線と斑点と tte--tte 笑声。 群集の会話。 男と女・男と女・男と女。 そのなかに私たちふたり。 椅子にかけて、遠くの野外音楽が送ってよこすかすかな音の波紋に耳をあたえていると――。 草を踏む跫音が私たちをふり向かせた。制服の老人が革のふくろをさげて立っている。 青い眼の愛蘭人の微笑だった。 『二片ずつどうぞ。』 私も、わけもなく好感にほほえんでしまう。 『――お構いなく。』 老人がしずかにくり返した。 『二片ずつどうぞ。』 私は重ねて辞退する。 『いいえ、有難う。ここで結構です。充分きこえますから。』 すると、老人の顔に困惑がうかんだ。言いにくそうにもじもじしたのち、彼は手に提げた袋の小銭をがちゃがちゃさせて、 『椅子にかける方には二片ずつ戴くことになっています。そのかわりこの切符を上げますから、これさえお持ちになれば、きょう一日ハイド・パアクとグリイン公園のなかならどこにかけても構いません。もしまた私の仲間が切符を売りにきたら、これを見せればよろしい。ひとり二片です。』 倫敦へ着いて二、三日してから、私たちふたりきりでハイド・パアクへ来ているのだから、お金をはらって椅子にかけることなど知らなかったが、道理で気がついてみると、制服の切符売りがあちこち椅子から椅子へと歩きまわっている。そこへ来る前にどこかの椅子で買った人はその切符を見せているし、はじめて掛けた人はそこで椅子代を払っている。もっとも無料で長腰掛もあるが、たいがいふさがっていてなかなかかけられないけれど、二片の椅子は数が多いから、すこし歩いて草臥れたところで随所に腰がおろせる。この、公園に椅子を供給するのは一つの会社にでも請負わしてあるらしく、ロンドンじゅうどこの公園へ行っても、車掌のような帽子に裾の長い軽外套を羽織った椅子代あつめの多くは老人が、緑いろの展開のあいだをゆっくり大胯にあるいているのを見かける。公園の入口に机でも据えてそこで売ったら宜さそうなものだが、何人あるいは何十人かの老人が一日いっぱい公園中を歩きまわって二片の椅子料を集めるほうもあつめるほうなら、勝手に腰かけていて取りにくれば黙々として金を出すほうも、いかにもいぎりす人らしく、莫迦々々しく野呂間で、神経のふといところがうかがわれる。はるかむこうの芝生を豆のような人かげがこっちをさして旅行――それは全く旅行という感じだ――してくる。近づくにつれてそれが椅子の切符売りということを自証する。かれは、こっちの端に椅子を占めている人を望遠鏡ででもみとめて、すでに二片の金を払って切符を所持しているかどうか、もしまだなら、その金員を徴集すべく、こうしてはるばると、そして急がずあわてず、同じ歩幅をつづけて旅してくるのである。掛けているほうもまた、切符の有無にかかわらず、豆から針、針から燐寸の軸といったようにだんだん大きくなってくる切符売りの姿を、見るでもなく見ないでもなく、悠然と腰をおちつけている。やっとのことで傍まで来ても、もし客が黙って既買の切符を示せば、制服の老人はちょっと帽子をとって汗を拭き、そのまま直ぐ、またもや遠くに霞む椅子をめざして新しい長途の歩行に発足するだけだ。じつに冷静にそれを繰り返している。このロンドンの公園の椅子売りは、よく英吉利人の「やり方」を象徴化していて、私には印象ふかく感じられた。何十人何百人の人間を使おうが、決まったが最後、なんらの感情なしに規定どおりに「実行」するのである。その愚鈍にまで大まかな着実さがいささか私の敬意を強いて、倫敦というと、私は反射的に、小さな鞄を胸へ下げて公園じゅう半哩一哩を遠しとせず、自信と事務に満ちて重々しく芝生を踏んでくる制服の「老いぎりす紳士」を脳裡にえがくのだ。もしこれが亜米利加なら、広いところを一々二片あつめて廻るかわりに、さしずめ白銅一個入れなければ腰かけられないように全部の椅子を改造することだろうし、そしてまたその椅子が、白銅一個入れるごとにちりんとかがちゃんとか、なんと恐ろしく証拠的な大音響を四隣へむかって発散することであろう。これにくらべれば、英吉利のは遥かに、そこにおのずから古典的な一つの趣きがあるような気がする。 ――などと考えたのはあとのことで、そのときは二片出してもっとよく音楽の聞えるところまで這入りこむのだと思ったから、私は、いや、ここでたくさんだ、ノウ・サンキュウと挨拶したわけだったが、そのお爺さんの説明でこころよく四片を投じ、ところどころで切符うりが来るたびにそれを呈示しながら、休みやすみ半日公園をうろついたのだったが――。 草に日光がそそいで音楽が沸き、KOBAKが活躍し、演説が人をあつめて兵隊は恋人と腕を組み、夫婦は寝そべり、子供はいつの間にか柵につかまって独り歩きし、そこにもここにもカクネイの発音が漂って――一くちに言えば英吉利人の好きそうなハイド・パアクの油絵だ。いくぶんでもこの国の人の興味をひくためには、それは何よりも先に出来るだけ平凡であることを必要とする。 公園を出ようとして石の道へ来たときだった。またすこし憩もうということになって見廻すと、ちょうどそこに空いた椅子がふたつ私たちを招いていた。で、腰を下ろしながら気がついたのだが、何だか眼のまえの芝生に粗らながら人だかりがしている。 大きな楡の木のかげである。 白ずくめの若い保姆が乳母車を停めてやすんでいるのだ。 黒塗りの小さな乗物、そのなかのふっくらした白布、それらのうえにまんべんなく小枝の交錯を洩れる陽が降って、濃い点が無数に揺れている。乳母車の主の赤ん坊は、白い被り物の下から赤い頬をふくらせて、太短い直線的な手の運動で、非常に熱心に、自分の靴下の爪さきを引っ張っている。保姆のほかに女中がひとり、それに、すこし離れて私服の役人らしい紳士がぶらりと立っていた。 みんなが赤んぼうを見て往く。なかには帽子をとっている人もある。 保姆は片手を乳母車にかけて、うしろ向きに女中と話しこみ、赤んぼはひとりでいつまでも自分の足と遊んでいる。一生懸命に靴下を摘んで、ながいことかかって或る程度まで脚を空に上げる事業に成功するんだが、そのうちにぽつんと切るように手が離れると、身体ぜんたいがころっと反り返って驚いて両腕をひろげる。そしてまたしばらく自分の足さきを凝視し、その誘惑に負けたように手を出すのだ。いつまでも同じことを反覆している。 赤んぼがぴいんと足をはじいて車が動揺する時だけ、保姆はちょっとかえりみるが、小さな主人が飽きずに幸福にしているのを確かめると、安心してふたたび女中のおしゃべりに熱中し出す。役人らしい男は、喫みおわった紙巻をぽうんと遠くの道へ捨てて欠伸をした。 来る人も往く人も足をとめて、ほほえみと軽い礼を赤んぼへ送っている。 草を踏んで近づいてくる跫音が私たちをふり向かせた。さっきの切符売りの老人である。眼の蒼い、愛蘭人の微笑とともに、そっと彼の低声が私たちの耳のそばを流れた。 『あれ――知ってますか誰だか。プリンセス・エリザベスですよ。』 エリザベス内親王殿下は、現陛下の第二皇子ドュウク&ダッチェス・オヴ・ヨウクの第一王女である。 椅子を立って歩き出すとき人の肩ごしに覗くと、内親王殿下には御機嫌いと麗しく、まだおみあしへ絶大な御注意を集中されて、あんまりつづけさまに引っぱるものだからすっかり伸び切ってしまった御靴下のさきを、不思議そうに御研究なされている最中だった。 ずらりと行人が垣をつくって、あらゆる角度からカメラがならび、瞬間シャッタアの音が草を濡らす小雨のようだ。無意識らしく話しこみながら、保姆がちらと手を上げて髪を直した。
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