老年
ひとにすすめられて、「花伝書」を読む。「三十四五歳。このころの能、さかりのきはめなり。ここにて、この条条を極めさとりて、かんのう(堪能)になれば、定めて天下にゆるされ、めいぼう(名望)を得つべし。若、この時分に、天下のゆるされも不足に、めいぼうも思ふほどなくは、如何なる上手なりとも、未まことの花を極めぬして(仕手)と知るべし。もし極めずは、四十より能はさがるべし。それ後の証拠なるべし。さる程に、あがるは三十四五までの比、さがるは四十以来なり。返返この比天下のゆるされを得ずは能を極めたりとおもふべからず。云々。」またいう。「四十四五。この比よりの手だて、大方かはるべし。たとひ、天下にゆるされ、能に得法したりとも、それにつけても、よき脇のして(仕手)を持つべし。能はさがらねども、ちからなく、やうやう年闌けゆけば、身の花も、よそ目の花も失するなり。先すぐれたるびなん(美男)は知らず、よき程の人も、ひためん(直面)の申楽は、年よりては見えぬ物なり。さるほどに此一方は欠けたり。この比よりは、さのみにこまかなる物まねをばすまじきなり。大方似あひたる風体を、安安とほねを折らで、脇のして(仕手)に花をもたせて、あひしらひのやうに、少少とすべし。たとひ脇のして(仕手)なからんにつけても、いよいよ細かに身をくだく能をばすまじきなり。云々。」またいう。「五十有余。この比よりは、大方せぬならでは、手だてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申す事あり。云々。」 次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。(中略)これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思い込んで居た芭蕉に対する自分の考えかたを変えなければ成らなくなって来た。(中略)『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁という気分で居たんだね。』と馬場君も言っていた。(中略)兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。云々。」 露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われているけれども、それは露伴の五重塔や一口剣などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。 王勝間にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思ふは、古の神社の盛りなりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社どもはいみじくも衰へて荒れたるを見なれて、古く尊き神社は本よりかくあるものと心得たるからのひがごとなり。」 けれども私は、老人に就いて感心したことがひとつある。黄昏の銭湯の、流し場の隅でひとりこそこそやっている老人があった。観ると、そまつな日本剃刀で鬚を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植えかえる季節は梅雨時に限るとか、蟻を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。私たちより四十も多く夏に逢い、四十回も多く花見をし、とにかく、四十回も其の余も多くの春と夏と秋と冬とを見て来たのだ。けれども、こと芸術に関してはそうはいかない。「点三年、棒十年」などというやや悲壮な修業の掟は、むかしの職人の無智な英雄主義にすぎない。鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定している。
難解
「太初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る。而して暗黒は之を悟らざりき。云々。」私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。 けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。
塵中の人
寒山詩は読んだが、お経のようで面白くなかった。なかに一句あり。 悠悠たる塵中の人、 常に塵中の趣を楽む。 云々。 「悠悠たる」は嘘だと思うが、「塵中の人」は考えさせられた。 玉勝間にもこれあり。 「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいふなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人繁く賑はしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしをるるやうにぞおぼゆる。云々。」 健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきでもあろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子にねそべっているわが身を抓っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫、井伏鱒二、中谷孝雄、いまさら出家遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。
おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて
自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。
書簡集
おや? あなたは、あなたの創作集よりも、書簡集のほうを気にして居られる。――作家は悄然とうなだれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒きちらして来ましたから。(深い溜息をついて、)大作家にはなれますまい。 これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。日本では偉い作家が死んで、そのあとで上梓する全集へ、必ず書簡集なるものが一冊か二冊、添えられてある。書簡のほうが、作品よりずっと多量な全集さえ、あったような気がするけれど、そんなのには又、特殊な事情があったのかも知れない。 作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。故作家と生前、特に親交あり、いま、その作家を追慕するのあまり、彼の戯れにものした絵集一巻、上梓して内輪の友人親戚間にわけてやるなど、これはまた自ら別である。あかの他人のかれこれ容喙すべき事がらでない。 私は一読者の立場として、たとえばチエホフの読者として、彼の書簡集から何ひとつ発見しなかった。私には、彼の作品「鴎」の中のトリゴーリンの独白を書簡集のあちこちの隅からかすかに聴取できただけのことであった。 読者あるいは、諸作家の書簡集を読み、そこに作家の不用意きわまる素顔を発見したつもりで得々としているかも知れないが、彼等がそこでいみじくも、掴まされたものはこの作家もまた一日に三度三度のめしを食べた、あの作家もまた房事を好んだ、等々の平俗な生活記録にすぎない。すでに判り切ったことである。それこそ、言うさえ野暮な話である。それにもかかわらず、読者は、一度掴んだ鬼の首を離そうともせず、ゲエテはどうも梅毒らしい、プルウストだって出版屋には三拝九拝だったじゃないか、孤蝶と一葉とはどれくらいの仲だったのかしら。そうして、作家が命をこめた作品集は、文学の初歩的なるものとしてこれを軽んじ、もっぱら日記や書簡集だけをあさり廻るのである。曰く、将を射んと欲せば馬を射よ。文学論は更に聞かれず、行くところ行くところ、すべて人物月旦はなやかである。 作家たるもの、またこの現象を黙視し得ず、作品は二の次、もっぱらおのれの書簡集作成にいそがしく、十年来の親友に送る書簡にも、袴をつけ扇子を持って、一字一句、活字になったときの字づらの効果を考慮し、他人が覘いて読んでも判るよう文章にいちいち要らざる註釈を書き加えて、そのわずらわしさ、ために作品らしき作品一つも書けず、いたずらに手紙上手の名のみ高い、そういうひとさえ出て来るわけではないか。 書簡集に用いるお金があったなら、作品集をいよいよ立派に装釘するがいい。発表されると予期しているような、また予期していないような、あやふやな書簡、及び日記。蛙を掴まされたようで、気持ちがよくないのである。いっそどちらかにきめたほうが、まだしもよい。 かつて私は、書簡もなければ日記もない、詩十篇ぐらいに訳詩十篇ぐらいの、いい遺作集を愛読したことがある。富永太郎というひとのものであるが、あの中の詩二篇、訳詩一篇は、いまでも私の暗い胸のなかに灯をともす。唯一無二のもの。不朽のもの。書簡集の中には絶対にないもの。
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