最後のスタンドプレイ
ダヴィンチの評伝を走り読みしていたら、はたと一枚の挿画に行き当った。最後の晩餐の図である。私は目を見はった。これはさながら地獄の絵掛地。ごったがえしの、天地震動の大騒ぎ。否。人の世の最も切なき阿修羅の姿だ。 十九世紀のヨオロッパの文豪たちも、幼くしてこの絵を見せられ、こわき説明を聞かされたにちがいない。 「われを売る者、この中にひとりあり。」キリストはそう呟いて、かれの一切の希望をさらっと捨て去った、刹那の姿を巧みにとらえた。ダヴィンチは、キリストの底しれぬ深い憂愁と、われとわが身を静粛に投げ出したるのちの無限のいつくしみの念とを知っていた。そうしてまた、十二の使徒のそれぞれの利己的なる崇敬の念をも悉知していた。よし。これを一つ、日本浪曼派の同人諸兄にたのんで、芝居をしてもらおう。精悍無比の表情を装い、斬人斬馬の身ぶりを示して居るペテロは誰。おのれの潔白を証明することにのみ急なる態のフィリッポスは誰。ただひたすらに、あわてふためいて居るヤコブは誰。キリストの胸のおん前に眠るが如くうなだれて居るこの小鳩のように優美なるヨハネは誰。そうして、最後に、かなしみ極りてかえって、ほのかに明るき貌の、キリストは誰。 山岸、あるいは、自らすすんでキリストの役を買って出そうであるが、果して、どういうものであるか。中谷孝雄なる佳き青年の存在をもゆめ忘れてはならないし、そのうえ、「日本浪曼派」という目なき耳なき混沌の怪物までひかえて居る。ユダ。左手もて何やらんおそろしきものを防ぎ、右手もて、しっかと金嚢を掴んで居る。君、その役をどうか私にゆずってもらいたい。私、「日本浪曼派」を愛すること最も深く、また之を憎悪するの念もっとも高きものがあります故。
冷酷ということについて
厳酷と冷酷とは、すでにその根元に於いて、相違って居るものである。厳酷、その奥底には、人間の本然の、あたたかい思いやりで一ぱいであるのだが、冷酷は、ちゃちなガラスの器物の如きもので、ここには、いかなる花ひとつ、咲きいでず、まるで縁なきものである。
わがかなしみ
夜道を歩いていると、草むらの中で、かさと音がする。蝮蛇の逃げる音。
文章について
文士というからには、文に巧みなるところなくては、かなうまい。佳き文章とは、「情籠りて、詞舒び、心のままの誠を歌い出でたる」態のものを指していう也。情籠りて云々は上田敏、若きころの文章である。
ふと思う
なんだ、みんな同じことを言っていやがる。
Y子
そのささやきには真摯の響きがこもっていた。たった二度だけ。その余は、私を困らせた。 「私、なんだか、ばかなことを言っちゃったようね。」 「私にだって個性があるわよ。でも、あんなに言われたら黙っているよりほかに仕様がないじゃないの。」
言葉の奇妙
「舌もつれる。」「舌の根をふるわす。」「舌を巻く。」「舌そよぐ。」
まんざい
私のいう掛合いまんざいとは、たとえば、つぎの如きものを指して言うのである。 問。「君はいったい、誰に見せようとして、紅と鉄漿とをつけているのであるか。」 答。「みんな、様ゆえ。おまえゆえ。」 へらへら笑ってすまされる問答ではないのである。殴るのにさえ、手がよごれる。君の中にも!
わが神話
いんしゅう、いなばの小兎。毛をむしられて、海水に浸り、それを天日でかわかした。これは痛苦のはじまりである。 いんしゅう、いなばの小兎。淡水でからだを洗い、蒲の毛を敷きつめて、その中にふかふかと埋って寝た。これは、安楽のはじまりであろう。
最も日常茶飯事的なるもの
「おれは男性である。」この発見。かれは家人の「女性。」に気づいてから、はじめて、かれの「男性。」に気づいた。同棲、以来、七年目。
蟹について
阿部次郎のエッセイの中に、小さい蟹が自分のうちの台所で、横っ飛びに飛んだ。蟹も飛べるのか、そう思ったら、涙が出たという文章があった。あそこだけは、よし。 私の家の庭にも、ときたま、蟹が這って来る。君は、芥子つぶほどの蟹を見たことがあるか。芥子つぶほどの蟹と、芥子つぶほどの蟹とが、いのちかけて争っていた。私、あのとき、凝然とした。
わがダンディスム
「ブルウタス、汝もまた。」 人間、この苦汁を嘗めぬものが、かつて、ひとりでも、あったろうか。おのれの最も信頼して居るものこそ、おのれの、生涯の重大の刹那に、必ず、おのれの面上に汚き石を投ずる。はっしと投ずる。 さきごろ、友人保田与重郎の文章の中から、芭蕉の佳き一句を見いだした。「朝がほや昼は鎖おろす門の垣。」なるほど、これに限る。けれども、――また、――否。これに限る。これに限る!
「晩年」に就いて
私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷けられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい恢復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。 けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に滲透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに、「歌留多」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、全銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければいけないようだ。すべての遊戯にインポテンスになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という燈台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨をからだに巻きつけて入水したいものだとさえ思っている。
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