飛騨は大きいからだをひとつゆすつた。 「でも、――逢はないはうがいいんだ。やつぱり、このまま他人になつてしまつたはうがいいんだ。もう東京へ歸つたよ。兄さんが停車場まで送つて行つて來たのだ。兄さんは二百圓の香奠をやつたさうだよ。これからはなんの關係もない、といふ證文みたいなものも、そのひとに書いてもらつたんだ。」 「やりてだなあ。」小菅は薄い下唇を前へ突きだした。「たつた二百圓か。たいしたものだよ。」 飛騨は、炭火のほてりでてらてら油びかりしだした丸い顏を、けはしくしかめた。彼等は、おのれの陶醉に水をさされることを極端に恐れる。それゆゑ、相手の陶醉をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあひだの默契である。小菅はいまそれを破つてゐる。小菅には、飛騨がそれほど感激してゐるとは思へなかつたのだ。そのつれあひのひとの弱さが齒がゆかつたし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相變らずの世間の話として聞いてゐたのである。 飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のはうへやつて來た。硝子戸に鼻先をくつつけるやうにして、曇天のしたの海を眺めた。 「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからぢやないよ。そんなことはないと思ふなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで歸つたさうだ。汽車に乘つてる姿が眼にちらつくよ。」 小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」 「美談だらう? いい話だらう?」飛騨は、くるつと小菅のはうへ顏をねぢむけた。氣嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きてゐるよろこびを感ずるのさ。」 思ひ切つて、僕は顏を出す。さうでもしないと、僕はこのうへ書きつづけることができぬ。この小説は混亂だらけだ。僕自身がよろめいてゐる。葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがつて、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。 どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覺悟してゐた。書いてゐるうちに、なにかひとつぐらゐ、むきなものが出るだらうと樂觀してゐた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらゐ、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらゐなにかひとつぐらゐとそればかりを、あちこちひつくりかへして搜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばつたのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。なんといふ馬鹿な。この言葉に最大級のわざはひあれ。うつとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらゐのちがつた意味をもつておのれの胸へはねかへつて來るやうでは、ペンをへし折つて捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく氣取つて見せなくてよい。どうせおさとは知れてゐるのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。
その夜、だいぶ更けてから、葉藏の兄が病室を訪れた。葉藏は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでゐた。きのふ兄がここへはじめて來たときにも、彼等はトランプをしてゐた筈である。けれども彼等はいちにちいつぱいトランプをいぢくつてばかりゐるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがつてゐる程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に發揮できないやうなゲエムはきつと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやつて見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑ふ。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言ふ。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもひおもひに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく。當つたためしのないのだが、それでもいつかはぴつたり當るだらう、と彼等は考へる。あたつたら、どんなに愉快だらう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしてゐない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も來合せた。 兄は病室へはひつて來て、ちよつと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考へちがひしたのである。このやうな不幸は人生にままある。葉藏は美術學校時代にも、これと同じやうな不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合つた。たしかにたつた三度であつた。日本有數のフランス語學者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたやうにして、大聲で言つた。「君は、僕の時間にはあくびばかりしてゐる。一時間に百囘あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる囘數を事實かぞへてみたやうな氣がしてゐるらしかつた。 ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いてゐる。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いつたいこれは、どんな小説になるのだらう。はじめから讀み返してみよう。 僕は、海濱の療養院を書いてゐる。この邊は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて惡人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むづかしい理窟はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張してゐるだけだ。よし、それにきまつた。むりにもきめる。なにも言ふな。 兄は、みんなに輕く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなづいて、小菅と眞野へ目くばせした。 三人が病室から出るのを待つて、兄は言ひだした。 「電氣がくらいな。」 「うん。この病院ぢや明るい電氣をつけさせないのだ。坐らない?」 葉藏がさきにソフアへ坐つて、さう言つた。 「ああ。」兄は坐らずに、くらい電球を氣がかりらしくちよいちよいふり仰ぎつつ、狹い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こつちのはうだけは、片づいた。」 「ありがたう。」葉藏はそれを口のなかで言つて、こころもち頭をさげた。 「私はなんとも思つてゐないよ。だが、これから家へ歸るとまたうるさいのだ。」けふは袴をはいてゐなかつた。黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかつた。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合ひに手紙を出したはうがいい。お前たちは、のんきさうだが、しかし、めんだうな事件だよ。」 葉藏は返事をしなかつた。ソフアにちらばつてゐるトランプの札をいちまい手にとつて見つめてゐた。 「出したくないなら、出さなくていい。あさつて、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れてゐたのだ。けふは私と飛騨とが證人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたづねられたから、おとなしいはうでしたと答へた。思想上になにか不審はなかつたか、と聞かれて、絶對にありません。」 兄は歩きまはるのをやめて、葉藏のまへの火鉢に立ちはだかり、おほきい兩手を炭火のうへにかざした。葉藏はその手のこまかくふるへてゐるのをぼんやり見てゐた。 「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言つて置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたさうだ。私の答辯と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言へばいい。」 葉藏には兄の言葉の裏が判つてゐた。しかし、そしらぬふりをしてゐた。 「要らないことは言はなくていい。聞かれたことだけをはつきり答へるのだ。」 「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまはしながらひくく呟いた。 「判らん。それは判らん。」語調をつよめてさう言つた。「どうせ四五日は警察へとめられると思ふから、その用意をして行け。あさつての朝、私はここへ迎へに來る。一緒に警察へ行くんだ。」 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく默つた。雪解けの雫のおとが浪の響にまじつて聞えた。 「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言ひだした。それから、なにげなささうな口調ですらすら言ひつづけた。「お前も、ずつと將來のことを考へて見ないといけないよ。家にだつて、さうさう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたつてなんにもならぬだらうが、うちの銀行もいま危くなつてゐるし、たいへんな騷ぎだよ。お前は笑ふかも知れないが、藝術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考へなければいけないと思ふな。まあ、これから生れ變つたつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう歸らう。飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるやうにしたはうがいい。ここで毎晩さわいでゐては、まづいことがある。」
「僕の友だちはみんなよいだらう?」 葉藏は、わざと眞野のはうへ脊をむけて寢てゐた。その夜から、眞野がもとのやうに、ソフアのベツドへ寢ることになつたのである。 「ええ。――小菅さんとおつしやるかた、」しづかに寢がへりを打つた。「面白いかたですわねえ。」 「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがふのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり眞似してゐやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまへだよ。しつかりしてゐる。」しばらく間を置いて、小聲で附け加へた。「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたはるのだ。僕たちにむりして調子を合せてゐるのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」 眞野は答へなかつた。 「あの女のことを話してあげようか。」 やはり眞野へ脊をむけたまま、つとめてのろのろとさう言つた。なにか氣まづい思ひをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしやらにその氣まづさを徹底させてしまはなければかなはぬ悲しい習性を葉藏は持つてゐた。 「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言はぬさきから葉藏は語りはじめた。「もう誰かから聞いただらう。園といふのだ。銀座のバアにつとめてゐたのさ。ほんたうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかつたよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかつたのだからな。僕も教へなかつたし。」よさうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互ひにまつたくちがつたことを考へてゐたらしい。園は海へ飛び込むまへに、あなたはうちの先生に似てゐるなあ、なんて言ひやがつた。内縁の夫があつたのだよ。二三年まへまで小學校の先生をしてゐたのだつて。僕は、どうして、あのひとと死なうとしたのかなあ。やつぱり好きだつたのだらうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだらう。「僕は、これでも左翼の仕事をしてゐたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやつたり、柄にないことをしてゐたのさ。滑稽だ。でも、ずゐぶんつらかつたよ。われは先覺者なりといふ榮光にそそのかされただけのことだ。柄ぢやないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけぢやないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食ふに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だらうな。」ああ、言へば言ふほどおのれが嘘つきで不正直な氣がして來るこの大きな不幸! 「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんたうは僕、畫をかきたいのだ。むしやうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑つた。「よい畫がかけたらねえ。」 よい畫がかけたらねえ、と言つた。しかも笑つてそれを言つた。青年たちは、むきになつては、何も言へない。ことに本音を、笑ひでごまかす。
夜が明けた。空に一抹の雲もなかつた。きのふの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々の隅にだけ、鼠いろして少しづつのこつてゐた。海には靄がいつぱい立ちこめ、その靄の奧のあちこちから漁船の發動機の音が聞えた。 院長は朝はやく葉藏の病室を見舞つた。葉藏のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言つた。 「たいていだいぢやうぶでせう。でも、お氣をつけてね。警察のはうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんたうのからだではないのですから。眞野君、顏の絆創膏は剥いでいいだらう。」 眞野はすぐ、葉藏のガアゼを剥ぎとつた。傷はなほつてゐた。かさぶたさへとれて、ただ赤白い斑點になつてゐた。 「こんなことを申しあげると失禮でせうけれど、これからはほんたうに御勉強なさるやうに。」 院長はさう言つて、はにかんだやうな眼を海へむけた。 葉藏もなにやらばつの惡い思ひをした。ベツドのうへに坐つたまま、脱いだ着物をまた着なほしながら默つてゐた。 そのとき高い笑い聲とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむやうにしてはひつて來た。みんなおはやうを言ひ交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。 「けふいちにちです。お名殘りをしいですな。」 院長が去つてから、小菅がいちばんさきに口を切つた。 「如才がないな。蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顏に興味を持つ。顏でもつて、そのひとの全部の價値をきめたがる。「食堂にあのひとの畫があるよ。勳章をつけてゐるんだ。」 「まづい畫だよ。」 飛騨は、さう言ひ捨ててヴエランダへ出た。けふは兄の着物を借りて着てゐた。茶色のどつしりした布地であつた。襟もとを氣にしいしいヴエランダの椅子に腰かけた。 「飛騨もかうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もヴエランダへ出た。「葉ちやん。トランプしないか。」 ヴエランダへ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。 勝負のなかば、小菅は眞面目に呟いた。 「飛騨は氣取つてるねえ。」 「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」 三人はくつくつ笑ひだし、いつせいにそつと隣りのヴエランダを盜み見た。い號室の患者も、ろ號室の患者も、日光浴用の寢臺に横はつてゐて、三人の樣子に顏をあかくして笑つてゐた。
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