「ここを過ぎて悲しみの市。」 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。 大庭葉藏はベツドのうへに坐つて、沖を見てゐた。沖は雨でけむつてゐた。 夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。やれやれ、大仰きはまつたり。だいいち、大庭葉藏とはなにごとであらう。酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手を拍つた。この姓名は、僕の主人公にぴつたり合つた。大庭は、主人公のただならぬ氣魄を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんたうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉藏とかう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに劃期的ではないか。その大庭葉藏が、ベツドに坐り雨にけむる沖を眺めてゐるのだ。いよいよ劃期的ではないか。 よさう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から來るやうだ。現に僕にしても、ひとから言はれたくないゆゑ、まづまつさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もつと素直にならなければいけない。ああ、謙讓に。 大庭葉藏。 笑はれてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだらうけれど、僕にはちよつとめんだうらしい。いつそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顏して述懷する奇妙な男が出て來ないとも限らぬ。ほんたうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉藏をやはり押し通す。をかしいか。なに、君だつて。
一九二九年、十二月のをはり、この青松園といふ海濱の療養院は、葉藏の入院で、すこし騷いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がゐた。二人の重症患者と、十一人の輕症患者とがゐて、あとの二十三人は恢復期の患者であつた。葉藏の收容された東第一病棟は、謂はば特等の入院室であつて、六室に區切られてゐた。葉藏の室の兩隣りは空室で、いちばん西側のへ號室には、脊と鼻のたかい大學生がゐた。東側のい號室とろ號室には、わかい女のひとがそれぞれ寢てゐた。三人とも恢復期の患者である。その前夜、袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを搜しに半鐘をながいこと烈しく鳴らして村の消防手どものいく艘もいく艘もつぎつぎと漁船を沖へ乘り出して行く掛聲を、三人は、胸とどろかせて聞いてゐた。漁船のともす赤い火影が、終夜、江の島の岸を彷徨うた。大學生も、ふたりのわかい女も、その夜は眠れなかつた。あけがたになつて、女の死體が袂ヶ浦の浪打際で發見された。短く刈りあげた髮がつやつや光つて、顏は白くむくんでゐた。 葉藏は園の死んだのを知つてゐた。漁船でゆらゆら運ばれてゐたとき、すでに知つたのである。星空のしたでわれにかへり、女は死にましたか、とまづ尋ねた。漁夫のひとりは、死なねえ、死なねえ、心配しねえがええずら、と答へた。なにやら慈悲ぶかい口調であつた。死んだのだな、とうつつに考へて、また意識を失つた。ふたたび眼ざめたときには、療養院のなかにゐた。狹くるしい白い板壁の部屋に、ひとがいつぱいつまつてゐた。そのなかの誰かが葉藏の身元をあれこれと尋ねた。葉藏は、いちいちはつきり答へた。夜が明けてから、葉藏は別のもつとひろい病室に移された。變を知らされた葉藏の國元で、彼の處置につき、取りあへず青松園へ長距離電話を寄こしたからである。葉藏のふるさとは、ここから二百里もはなれてゐた。 東第一病棟の三人の患者は、この新患者が自分たちのすぐ近くに寢てゐるといふことに不思議な滿足を覺え、けふからの病院生活を樂しみにしつつ、空も海もまつたく明るくなつた頃やうやく眠つた。 葉藏は眠らなかつた。ときどき頭をゆるくうごかしてゐた。顏のところどころに白いガアゼが貼りつけられてゐた。浪にもまれ、あちこちの岩でからだを傷つけたのである。眞野といふ二十くらゐの看護婦がひとり附き添つてゐた。左の眼蓋のうへに、やや深い傷痕があるので、片方の眼にくらべ、左の眼がすこし大きかつた。しかし、醜くなかつた。赤い上唇がこころもち上へめくれあがり、淺黒い頬をしてゐた。べツドの傍の椅子に坐り、曇天のしたの海を眺めてゐるのである。葉藏の顏を見ぬやうに努めた。氣の毒で見れなかつた。 正午ちかく、警察のひとが二人、葉藏を見舞つた。眞野は席をはづした。 ふたりとも、脊廣を着た紳士であつた。ひとりは短い口鬚を生やし、ひとりは鐵縁の眼鏡を掛けてゐた。鬚は、聲をひくくして園とのいきさつを尋ねた。葉藏は、ありのままを答へた。鬚は、小さい手帖へそれを書きとるのであつた。ひととほりの訊問をすませてから、鬚は、ベツドへのしかかるやうにして言つた。「女は死んだよ。君には死ぬ氣があつたのかね。」 葉藏は、だまつてゐた。 鐵縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺を二三本もりあがらせて微笑みつつ、鬚の肩を叩いた。「よせ、よせ。可愛さうだ。またにしよう。」 鬚は、葉藏の眼つきを、まつすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣のポケツトにしまひ込んだ。 その刑事たちが立ち去つてから、眞野は、いそいで葉藏の室へ歸つて來た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽してゐる葉藏を見てしまつた。そのままそつとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした。 午後になつて雨が降りだした。葉藏は、ひとりで厠へ立つて歩けるほど元氣を恢復してゐた。 友人の飛騨が、濡れた外套を着たままで、病室へをどり込んで來た。葉藏は眠つたふりをした。 飛騨は眞野へ小聲でたづねた。「だいぢやうぶですか?」 「ええ、もう。」 「おどろいたなあ。」 彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套を脱ぎ、眞野へ手渡した。 飛騨は、名のない彫刻家で、おなじやうに無名の洋畫家である葉藏とは、中學校時代からの友だちであつた。素直な心を持つた人なら、そのわかいときには、おのれの身邊ちかくの誰かをきつと偶像に仕立てたがるものであるが、飛騨もまたさうであつた。彼は、中學校へはひるとから、そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めてゐた。首席は葉藏であつた。授業中の葉藏の一一笑も、飛騨にとつては、ただごとでなかつた。また、校庭の砂山の陰に葉藏のおとなびた孤獨なすがたを見つけて、ひとしれずふかい溜息をついた。ああ、そして葉藏とはじめて言葉を交した日の歡喜。飛騨は、なんでも葉藏の眞似をした。煙草を吸つた。教師を笑つた。兩手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよひ歩く法もおぼえた。藝術家のいちばんえらいわけをも知つたのである。葉藏は、美術學校へはひつた。飛騨は一年おくれたが、それでも葉藏とおなじ美術學校へはひることができた。葉藏は洋畫を勉強してゐたが、飛騨は、わざと塑像科をえらんだ。ロダンのバルザツク像に感激したからだと言ふのであつたが、それは彼が大家になつたとき、その經歴に輕いもつたいをつけるための餘念ない出鱈目であつて、まことは葉藏の洋畫に對する遠慮からであつた。ひけめからであつた。そのころになつて、やうやく二人のみちがわかれ始めた。葉藏のからだは、いよいよ痩せていつたが、飛騨は、すこしづつ太つた。ふたりの懸隔はそれだけでなかつた。葉藏は、或る直截な哲學に心をそそられ、藝術を馬鹿にしだした。飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎてゐた。聞くものが、かへつてきまりのわるくなるほど、藝術といふ言葉を連發するのであつた。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠つてゐた。さうしてふたりとも、よくない成績で學校を卒業した。葉藏は、ほとんど繪筆を投げ捨てた。繪畫はポスタアでしかないものだ、と言つては、飛騨をしよげさせた。すべての藝術は社會の經濟機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言つて飛騨をけむに卷くのであつた。飛騨は、むかしに變らず葉藏を好いてゐたし、葉藏のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じてゐたが、しかし飛騨にとつて、傑作のときめきが、何にもまして大きかつたのである。いまに、いまに、と考へながら、ただそはそはと粘土をいぢくつてゐた。つまり、この二人は藝術家であるよりは、藝術品である。いや、それだからこそ、僕もかうしてやすやすと敍述できたのであらう。ほんとの市場の藝術家をお目にかけたら、諸君は、三行讀まぬうちにげろを吐くだらう。それは保證する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。 飛騨もまた葉藏の顏を見れなかつた。できるだけ器用に忍びあしを使ひ、葉藏の枕元まで近寄つていつたが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めてゐるだけであつた。 葉藏は、眼をひらいてうす笑ひしながら聲をかけた。「おどろいたらう。」 びつくりして、葉藏の顏をちらと見たが、すぐ眼を伏せて答へた。「うん。」 「どうして知つたの?」 飛騨はためらつた。右手をズボンのポケツトから拔いてひろい顏を撫でまはしながら、眞野へ、言つてもよいか、と眼でこつそり尋ねた。眞野はまじめな顏をしてかすかに首を振つた。 「新聞に出てゐたのかい?」 「うん。」ほんとは、ラヂオのニウスで知つたのである。 葉藏は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思つた。もつとうち解けて呉れてもよいと思つた。一夜あけたら、もんどり打つて、おのれを異國人あつかひにしてしまつたこの十年來の友が憎かつた。葉藏は、ふたたび眠つたふりをした。 飛騨は、手持ちぶさたげに床をスリツパでぱたぱたと叩いたりして、しばらく葉藏の枕元に立つてゐた。 ドアが音もなくあき、制服を着た小柄な大學生が、ひよつくりその美しい顏を出した。飛騨はそれを見つけて、唸るほどほつとした。頬にのぼる微笑の影を、口もとゆがめて追ひはらひながら、わざとゆつたりした歩調でドアのはうへ行つた。 「いま着いたの?」 「さう。」小菅は、葉藏のはうを氣にしつつ、せきこんで答へた。 小菅といふのである。この男は、葉藏と親戚であつて、大學の法科に籍を置き、葉藏とは三つもとしが違ふのだけれど、それでも、へだてない友だちであつた。あたらしい青年は、年齡にあまり拘泥せぬやうである。冬休みで故郷へ歸つてゐたのだが、葉藏のことを聞き、すぐ急行列車で飛んで來たのであつた。ふたりは廊下へ出て立ち話をした。 「煤がついてゐるよ。」 飛騨は、おほつぴらにげらげら笑つて、小菅の鼻のしたを指さした。列車の煤煙が、そこにうつすりこびりついてゐた。 「さうか。」小菅は、あわてて胸のポケツトからハンケチを取りだし、さつそく鼻のしたをこすつた。「どうだい。どんな工合ひだい。」 「大庭か? だいぢやうぶらしいよ。」 「さうか。――落ちたかい。」鼻のしたをぐつとのばして飛騨に見せた。 「落ちたよ。落ちたよ。うちでは大變な騷ぎだらう。」 ハンケチを胸のポケツトにつつこみながら返事した。「うん。大騷ぎさ。お葬ひみたいだつたよ。」 「うちから誰か來るの?」 「兄さんが來る。親爺さんは、ほつとけ、と言つてる。」 「大事件だなあ。」飛騨はひくい額に片手をあてて呟いた。 「葉ちやんは、ほんとに、よいのか。」 「案外、平氣だ。あいつは、いつもさうなんだ。」 小菅は浮かれてでもゐるやうに口角に微笑を含めて首かしげた。「どんな氣持ちだらうな。」 「わからん。――大庭に逢つてみないか。」 「いいよ。逢つたつて、話することもないし、それに、――こはいよ。」 ふたりは、ひくく笑ひだした。 眞野が病室から出て來た。 「聞えてゐます。ここで立ち話をしないやうにしませうよ。」 「あ。そいつあ。」 飛騨は恐縮して、おほきいからだを懸命に小さくした。小菅は不思議さうなおももちで眞野の顏を覗いてゐた。 「おふたりとも、あの、おひるの御飯は?」 「まだです。」ふたり一緒に答へた。 眞野は顏を赤くして噴きだした。 三人がそろつて食堂へ出掛けてから、葉藏は起きあがつた。雨にけむる沖を眺めたわけである。 「ここを過ぎて空濛の淵。」 それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このやうな時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、榮ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のけふまでの生活を消すことだ。
「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」 この言葉は間が拔けて、よい。小菅がそれを言つたのである。したり顏にさう言つて、ミルクの茶碗を持ち直した。 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勳章を胸に三つ附けた肖像畫が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひつそり並んでゐた。食堂は、がらんとしてゐた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとつてゐた。 「ずゐぶん、はげしくやつてゐたよ。」小菅は聲をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまはつてゐたのでは、死にたくもなるよ。」 「行動隊のキヤツプだらう。知つてゐる。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかへしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶつたのではない。左翼の用語ぐらゐ、そのころの青年なら誰でも知つてゐた。「しかし、――それだけでないさ。藝術家はそんなにあつさりしたものでないよ。」 食堂は暗くなつた。雨がつよくなつたのである。 小菅はミルクをひとくち飮んでから言つた。「君は、ものを主觀的にしか考へれないから駄目だな。そもそも、――そもそもだよ。人間ひとりの自殺には、本人の意識してない何か客觀的な大きい原因がひそんでゐるものだ、といふ。うちでは、みんな、女が原因だときめてしまつてゐたが、僕は、さうでないと言つて置いた。女はただ、みちづれさ。別なおほきい原因があるのだ。うちの奴等はそれを知らない。君まで、變なことを言ふ。いかんぞ。」 飛騨は、あしもとの燃えてゐるストオブの火を見つめながら呟いた。「女には、しかし、亭主が別にあつたのだよ。」 ミルクの茶碗をしたに置いて小菅は應じた。「知つてるよ。そんなことは、なんでもないよ。葉ちやんにとつては、屁でもないことさ。女に亭主があつたから、心中するなんて、甘いぢやないか。」言ひをはつてから、頭のうへの肖像畫を片眼つぶつて狙つて眺めた。「これが、ここの院長かい。」 「さうだらう。しかし、――ほんたうのことは、大庭でなくちやわからんよ。」 「それあさうだ。」小菅は氣輕く同意して、きよろきよろあたりを見した。「寒いなあ。君は、けふここへ泊るかい。」 飛騨はパンをあわてて呑みくだして、首肯いた。「泊る。」 青年たちはいつでも本氣に議論をしない。お互ひに相手の神經へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神經をも大切にかばつてゐる。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きつとそこまで思ひつめる。だから、あらそひをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を數多く知つてゐる。否といふ一言をさへ、十色くらゐにはなんなく使ひわけて見せるだらう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交してゐるのだ。そしておしまひに笑つて握手しながら、腹のなかでお互ひがともにともにかう呟く。低腦め! さて、僕の小説も、やうやくぼけて來たやうである。ここらで一轉、パノラマ式の數齣を展開させるか。おほきいことを言ふでない。なにをさせても無器用なお前が。ああ、うまく行けばよい。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页
|