電氣がついてから、小菅がひとりで病室へやつて來た。はひるとすぐ、寢てゐる葉藏の顏へおつかぶさるやうにして囁いた。 「飮んで來たんだ。眞野へ内緒だよ。」 それから、はつと息を葉藏の顏へつよく吐きつけた。酒を飮んで病室へ出はひりすることは禁ぜられてゐた。 うしろのソフアで編物をつづけてゐる眞野をちらと横眼つかつて見てから、小菅は叫ぶやうにして言つた。「江の島をけんぶつして來たよ。よかつたなあ。」そしてすぐまた聲をひくめてささやいた。 「嘘だよ。」 葉藏は起きあがつてベツドに腰かけた。 「いままで、ただ飮んでゐたのか。いや、構はんよ。眞野さん、いいでせう?」 眞野は編物の手をやすめずに、笑ひながら答へた。「よくもないんですけれど。」 小菅はベツドの上へ仰向にころがつた。 「院長と四人して相談さ。君、兄さんは策士だなあ。案外のやりてだよ。」 葉藏はだまつてゐた。 「あす、兄さんと飛騨が警察へ行くんだ。すつかりかたをつけてしまふんだつて。飛騨は馬鹿だなあ。昂奮してゐやがつた。飛騨は、けふむかうへ泊るよ。僕は、いやだから歸つた。」 「僕の惡口を言つてゐたらう。」 「うん。言つてゐたよ。大馬鹿だと言つてる。此の後も、なにをしでかすか、判つたものぢやないと言つてた。しかし親爺もよくない、と附け加へた。眞野さん、煙草を吸つてもいい?」 「ええ。」涙が出さうなのでそれだけ答へた。 「浪の音が聞えるね。――よき病院だな。」小菅は火のついてない煙草をくはへ、醉つぱらひらしくあらい息をしながらしばらく眼をつぶつてゐた。やがて、上體をむつくり起した。「さうだ。着物を持つて來たんだ。そこへ置いたよ。」顎でドアの方をしやくつた。 葉藏は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包に眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言へば財産といふ單語を思ひ出すのには變りがないやうだ。「おふくろには、かなはん。」 「うん、兄さんもさう言つてる。お母さんがいちばん可愛さうだつて。かうして着物の心配までして呉れるのだからな。ほんたうだよ、君。――眞野さん、マッチない?」眞野からマツチを受け取り、その箱に畫かれてある馬の顏を頬ふくらませて眺めた。「君のいま着てゐるのは、院長から借りた着物だつてね。」 「これか? さうだよ。院長の息子の着物さ。――兄貴は、その他にも何か言つたらうな。僕の惡口を。」 「ひねくれるなよ。」煙草へ火を點じた。「兄さんは、わりに新らしいよ。君を判つてゐるんだ。いや、さうでもないかな。苦勞人ぶるよ、なかなか。君の、こんどのことの原因を、みんなで言ひ合つたんだが、そのときにね、おほ笑ひさ。」けむりの輪を吐いた。「兄さんの推測としてはだよ、これは葉藏が放蕩をして金に窮したからだ。大眞面目で言ふんだよ。それとも、これは兄として言ひにくいことだが、きつと恥かしい病氣にでもかかつて、やけくそになつたのだらう。」酒でどろんと濁つた眼を葉藏にむけた。「どうだい。いや、案外こいつ。」
今宵は泊るのが小菅ひとりであるし、わざわざ隣りの病室を借りるにも及ぶまいと、みんなで相談して、小菅もおなじ病室に寢ることにきめた。小菅は葉藏とならんでソフアに寢た。緑色の天鵞絨が張られたそのソフアには、仕掛がされてあつて、あやしげながらベツドにもなるのであつた。眞野は毎晩それに寢てゐた。けふはその寢床を小菅に奪はれたので病院の事務室から薄縁を借り、それを部屋の西北の隅に敷いた。そこはちやうど葉藏の足の眞下あたりであつた。それから眞野は、どこから見つけて來たものか、二枚折のひくい屏風でもつてそのつつましい寢所をかこつたのである。 「用心ぶかい。」小菅は寢ながら、その古ぼけた屏風を見て、ひとりでくすくす笑つた。「秋の七草が畫れてあるよ。」 眞野は、葉藏の頭のうへの電燈を風呂敷で包んで暗くしてから、おやすみなさいを二人に言ひ、屏風のかげにかくれた。 葉藏は寢ぐるしい思ひをしてゐた。 「寒いな。」ベツドのうへで輾轉した。 「うん。」小菅も口をとがらせて合槌うつた。「醉がさめちやつた。」 眞野は輕くせきをした。「なにかお掛けいたしませうか。」 葉藏は眼をつむつて答へた。 「僕か? いいよ。寢ぐるしいんだ。波の音が耳について。」 小菅は葉藏をふびんだと思つた。それは全く、おとなの感情である。言ふまでもないことだらうけれど、ふびんなのはここにゐるこの葉藏ではなしに、葉藏とおなじ身のうへにあつたときの自分、もしくはその身のうへの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されてゐるので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのやうな安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まづ好意的に言つて、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いつたいどこから覺えこんだものか。このやうなくだらない小説から? 「眞野さん、なにか話を聞かせてよ。面白い話がない?」 葉藏の氣持ちを轉換させてやらうといふおせつかいから、小菅は眞野へ甘つたれた。 「さあ。」眞野は屏風のかげから、笑ひ聲と一緒にたださう答へてよこした。 「すごい話でもいいや。」彼等はいつも、戰慄したくてうづうづしてゐる。 眞野は、なにか考へてゐるらしく、しばらく返事をしなかつた。 「祕密ですよ。」さうまへおきをして、聲しのばせて笑ひだした。「怪談でございますよ。小菅さん、だいぢやうぶ?」 「ぜひ、ぜひ。」本氣だつた。 眞野が看護婦になりたての、十九の夏のできごと。やはり女のことで自殺を謀つた青年が、發見されて、ある病院に收容され、それへ眞野が附添つた。患者は藥品をもちゐてゐるのであつた。からだいちめんに、紫色の斑點がちらばつてゐた。助かる見込がなかつたのである。夕方いちど、意識を恢復した。そのとき患者は、窓のそとの石垣を傳つてあそんでゐるたくさんの小さい磯蟹を見て、きれいだなあ、と言つた。その邊の蟹は生きながらに甲羅が赤いのである。なほつたら捕つて家へ持つて行くのだ、と言ひ殘してまた意識をうしなつた。その夜、患者は洗面器へ二杯、吐きものをして死んだ。國元から身うちのものが來るまで、眞野はその病室に青年とふたりでゐた。一時間ほどは、がまんして病室のすみの椅子に坐つてゐた。うしろに幽かな物音を聞いた。じつとしてゐると、また聞えた。こんどは、はつきり聞えた。足音らしいのである。思ひ切つて振りむくと、すぐうしろに赤い小さな蟹がゐた。眞野はそれを見つめつつ、泣きだした。 「不思議ですわねえ。ほんたうに蟹がゐたのでございますの。生きた蟹。私、そのときは、看護婦をよさうと思ひましたわ。私がひとり働かなくても、うちではけつこう暮してゆけるのですし。お父さんにさう言つて、うんと笑はれましたけれど。――小菅さん、どう?」 「すごいよ。」小菅は、わざとふざけたやうにして叫ぶのである。「その病院ていふのは?」 眞野はそれに答へず、ごそもそと寢返りをうつて、ひとりごとのやうに呟いた。 「私ね、大庭さんのときも、病院からの呼び出しを斷らうかと思ひましたのよ。こはかつたですからねえ。でも、來て見て安心しましたわ。このとほりのお元氣で、はじめから御不淨へ、ひとりで行くなんておつしやるんでございますもの。」 「いや、病院さ。ここの病院ぢやないかね。」 眞野は、すこし間を置いて答へた。 「ここです。ここなんでございますのよ。でも、それは祕密にして置いて下さいましね。信用にかかはりませうから。」 葉藏は寢とぼけたやうな聲を出した。「まさか、この部屋ぢやないだらうな。」 「いいえ。」 「まさか、」小菅も口眞似した。「僕たちがゆうべ寢たベツドぢやないだらうな。」 眞野は笑ひだした。 「いいえ。だいぢやうぶでございますわよ。そんなにお氣になさるんだつたら、私、言はなければよかつた。」 「い號室だ。」小菅はそつと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い號室だ。君、少女のゐる部屋だよ。可愛さうに。」 「お騷ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ。」 葉藏は別なことを考へてゐた。園の幽靈を思つてゐたのである。美しい姿を胸に畫いてゐた。葉藏は、しばしばこのやうにあつさりしてゐる。彼等にとつて神といふ言葉は、間の拔けた人物に與へられる揶揄と好意のまじつたなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近してゐるからかも知れぬ。こんな工合ひに輕々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きつと諸君は、淺薄とか安易とかいふ言葉でもつてきびしい非難をするであらう。ああ、許し給へ。どんなまづしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつてゐるものだ。されば、言はう。彼こそ神に似てゐる。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこつそり笑つて眺めてゐる智慧の女神のミネルに。
翌る日、朝から療養院がざわめいてゐた。雪が降つてゐたのである。療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松がいちやうに雪をかぶり、そこからおりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂濱にも、雪がうすく積つてゐた。降つたりやんだりしながら、雪は晝頃までつづいた。 葉藏は、ベツドの上で腹這ひになり、雪の景色をスケツチしてゐた。木炭紙と鉛筆を眞野に買はせて、雪のまつたく降りやんだころから仕事にかかつたのである。 病室は雪の反射であかるかつた。小菅はソフアに寢ころんで、雜誌を讀んでゐた。ときどき葉藏の畫を、首すぢのばして覗いた。藝術といふものに、ぼんやりした畏敬を感じてゐるのであつた。それは、葉藏ひとりに對する信頼から起つた感情である。小菅は幼いときから葉藏を見て知つてゐた。いつぷう變つてゐると思つてゐた。一緒に遊んでゐるうちに、葉藏のその變りかたをすべて頭のよさであると獨斷してしまつた。おしやれで嘘のうまい好色な、そして殘忍でさへあつた葉藏を、小菅は少年のころから好きだつたのである。殊に學生時代の葉藏が、その教師たちの陰口をきくときの燃えるやうな瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとはちがつて、觀賞の態度であつた。つまり利巧だつたのである。ついて行けるところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがへして傍觀する。これが小菅の、葉藏や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであらう。小菅が藝術をいささかでも畏敬してゐるとすれば、それは、れいの青い外套を着て身じまひをただすのとそつくり同じ意味であつて、この白晝つづきの人生になにか期待の對象を感じたい心からである。葉藏ほどの男が、汗みどろになつて作り出すのであるから、きつとただならぬものにちがひない。ただ輕くさう思つてゐる。その點、やはり葉藏を信頼してゐるのだ。けれども、ときどきは失望する。いま、小菅が葉藏のスケツチを盜み見しながらも、がつかりしてゐる。木炭紙に畫かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と島である。 小菅は斷念して、雜誌の講談に讀みふけつた。病室は、ひつそりしてゐた。 眞野は、ゐなかつた。洗濯場で、葉藏の毛のシヤツを洗つてゐるのだ。葉藏は、このシヤツを着て海へはひつた。磯の香がほのかにしみこんでゐた。 午後になつて、飛騨が警察から歸つて來た。いきほひ込んで病室のドアをあけた。 「やあ、」葉藏がスケツチしてゐるのを見て、大袈裟に叫んだ。「やつてるな。いいよ。藝術家は、やつぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」 さう言ひつつベツドへ近寄り、葉藏の肩越しにちらと畫を見た。葉藏は、あわててその木炭紙を二つに折つてしまつた。それを更にまた四つに折り疊みながら、はにかむやうにして言つた。 「駄目だよ。しばらく畫かないでゐると、頭ばかり先になつて。」 飛騨は外套を着たままで、ベツドの裾へ腰かけた。 「さうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。藝術に熱心だからなのだ。まあ、さう思ふんだな。――いつたい、どんなのを畫いたの?」 葉藏は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしやくつた。 「海を畫いた。空と海がまつくろで、島だけが白いのだ。畫いてゐるうちに、きざな氣がして止した。趣向がだいいち素人くさいよ。」 「いいぢやないか。えらい藝術家は、みんなどこか素人くさい。それでよいんだ。はじめ素人で、それから玄人になつて、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、あいつは素人のよさを覘つた男だ。いや、さうでもないかな。」 「僕は畫をよさうと思ふのだ。」葉藏は折り疊んだ木炭紙を懷にしまひこんでから、飛騨の話へおつかぶせるやうにして言つた。「畫は、まだるつこくていかんな。彫刻だつてさうだよ。」 飛騨は長い髮を掻きあげて、たやすく同意した。「そんな氣持ちも判るな。」 「できれば、詩を書きたいのだ。詩は正直だからな。」 「うん。詩も、いいよ。」 「しかし、やつぱりつまらないかな。」なんでもかでもつまらなくしてやらうと思つた。「僕にいちばんむくのはパトロンになることかも知れない。金をまうけて、飛騨みたいなよい藝術家をたくさん集めて、可愛がつてやるのだ。それは、どうだらう。藝術なんて、恥かしくなつた。」やはり頬杖ついて海を眺めながら、さう言ひ終へて、おのれの言葉の反應をしづかに待つた。 「わるくないよ。それも立派な生活だと思ふな。そんなひともなくちやいけないね。じつさい。」言ひながら飛騨は、よろめいてゐた。なにひとつ反駁できぬおのれが、さすがに幇間じみてゐるやうに思はれて、いやであつた。彼の所謂、藝術家としての誇りは、やうやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構へた。このつぎの言葉を! 「警察のはうは、どうだつたい。」 小菅がふいと言ひ出した。あたらずさはらずの答を期待してゐたのである。 飛騨の動搖はその方へはけぐちを見つけた。 「起訴さ。自殺幇助罪といふ奴だ。」言つてから悔いた。ひどすぎたと思つた。「だが、けつきよく、起訴猶豫になるだらうよ。」 小菅は、それまでソフアに寢そべつてゐたのをむつくり起きあがつて、手をぴしやつと拍つた。「やつかいなことになつたぞ。」茶化してしまはうと思つたのである。しかし駄目であつた。 葉藏はからだを大きく捻つて、仰向になつた。 ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣を感じてゐたらしい諸君は、ここにいたつてはじめて快哉を叫ぶだらう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにゐて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくつてゐるこのもの悲しさを君が判つて呉れたならば! 飛騨はおのれの一言の效果におろおろして、葉藏の足を蒲團のうへから輕く叩いた。 「だいぢやうぶだよ。だいぢやうぶだよ。」 小菅は、またソフアに寢ころんだ。 「自殺幇助罪か。」なほも、つとめてはしやぐのである。「そんな法律もあつたかなあ。」 葉藏は足をひつこめながら言つた。 「あるさ。懲役ものだ。君は法科の學生のくせに。」 飛騨は、かなしく微笑んだ。 「だいぢやうぶだよ。兄さんが、うまくやつてゐるよ。兄さんは、あれで、有難いところがあるな。とても熱心だよ。」 「やりてだ。」小菅はおごそかに眼をつぶつた。「心配しなくてよいかも知れんな。なかなかの策士だから。」 「馬鹿。」飛騨は噴きだした。 ベツドから降りて外套を脱ぎ、ドアのわきの釘へそれを掛けた。 「よい話を聞いたよ。」ドアちかくに置かれてある瀬戸の丸火鉢にまたがつて言つた。「女のひとのつれあひがねえ、」すこし躊躇してから、眼を伏せて語りつづけた。「そのひとが、けふ警察へ來たんだ。兄さんとふたりで話をしたんだけれどねえ、あとで兄さんからそのときの話を聞いて、ちよつと打たれたよ。金は一文も要らない、ただその男のひとに逢ひたい、と言ふんださうだ。兄さんは、それを斷つた。病人はまだ昂奮してゐるから、と言つて斷つた。するとそのひとは、情ない顏をして、それでは弟さんによろしく言つて呉れ、私たちのことは氣にかけず、からだを大事にして、――」口を噤んだ。 おのれの言葉に胸がわくわくして來たのである。そのつれあひのひとが、いかにも失業者らしくまづしい身なりをしてゐたと、輕侮のうす笑ひをさへまざまざ口角に浮べつつ話して聞かせた葉藏の兄へのこらへにこらへた鬱憤から、ことさらに誇張をまじへて美しく語つたのであつた。 「逢はせればよいのだ。要らないおせつかいをしやがる。」葉藏は、右の掌を見つめてゐた。
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