更に寒い日が来た。北側の屋根や庭に降った雪は凍って、連日溶くべき気色もない。氷柱は二尺、三尺に及ぶ。お島が炉辺へ行って子供に牛乳をくれようとすると、時にはそれが淡い緑色に凍って、子供に飲ませることも出来ない。台処の流許に流れる水は皆な凍りついた。貯えた野菜までも多く凍った。水汲に行く下女なぞは頭巾を冠り、手袋をはめ、寒そうに手桶を提げて出て行くが、それが帰って来て見ると、手の皮膚は裂けて、ところどころ紅い血が流れた。こうなると、お島は外聞なぞは関っていられなく成った。どうかして子供を凍えさせまいとした。部屋部屋の柱が凍み割れる音を聞きながら高瀬が読書でもする晩には、寒さが彼の骨までも滲み徹った。お島はその側で、肌にあてて、子供を暖めた。 この長い長い寒い季節を縮こまって、あだかも土の中同様に住み暮すということは、一冬でも容易でなかった。高瀬は妻と共に春を待ち侘びた。 絶頂に達した山の上の寒さもいくらかゆるんで来た頃には、高瀬も漸く虫のような眠から匍出して、復た周囲を見廻すようになった。その年の寒さには、塾でも生徒の中に一人の落伍者を出した。 遽かに復活るように暖い雨の降る日、泉は亡くなった青年の死を弔おうとして、わざわざ小県の方から汽車でやって来た。その青年は、高瀬も四年手掛けた生徒だ。泉と連立って、高瀬はその生徒の家の方へ歩いて行った。 赤坂という坂の町を下りようとする途中で、広岡学士も一緒に成った。 「なにしろ、十年来の寒さだった。我輩なぞはよく凍え死ななかったようなものだ。若い者だってこの寒さじゃ堪りませんナ」 と学士は言って、汚れた雪の上に降りそそぐ雨を眺め眺め歩いた。 漸く顕れかけた暗い土、黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李、その他三人の眼にある木立の幹も枝も皆な雨に濡れて、黒々と穢い寝恍顔をしていない者は無かった。 大きな洋傘をさしかけて、坂の下の方から話し話しやって来たのは、子安、日下部の二人だった。塾の仲間は雨の中で一緒に成った。 有望な塾の生徒を、しかも十八歳で失ったということは、そこへ皆なの心を集めた。暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立会で心臓の水を取った時は四合も出た。四十日ほど病んで死んだ。こう学士が立話をすると、土地から出て植物学を専攻した日下部は亡くなった生徒の幼少い時のことなどを知っていて、十歳の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き母の髪まで結って置いて、それから小学校へ行った……病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と話した。 式は生徒の自宅であった。そこには桜井先生を始め、先生の奥さんも見えた。正木未亡人も部屋の片隅に坐って、頭を垂れていた。塾の同窓の生徒は狭い庭に傘をさしかけ、縁側に腰掛けなどしていた。 亡くなった青年が耶蘇信者であったということを、高瀬はその日初めて知った。黒い布を掛け、青い十字架をつけ、牡丹の造花を載せた棺の側には、桜井先生が司会者として立っていた。讃美歌が信徒側の人々によって歌われた。正木未亡人は宗教に心を寄せるように成って、先生の奥さんと一緒に讃美歌の本を開けていた。先生は哥林多後書の第五章の一節を読んだ。亡くなった生徒の為に先生が弔いの言葉を述べた時は、年をとった母親が聖書を手にして泣いた。 士族地の墓地まで、しとしとと降る雨の中を高瀬は他の同僚と一諸に見送りに行った。松の多い静かな小山の上に遺骸が埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立んで、この光景を眺めていた。
ある日、薄い色の洋傘を手にしたような都会風の婦人が馬場裏の高瀬の家を訪ねて来た。この流行の風俗をした婦人は東京から来たお島の友達だった。最早山の上でもすっかり雪が溶けて、春らしい温暖な日の光が青い苔の生えた草屋根や、毎年大根を掛けて干す土壁のところに映っていた。 丁度、お島は手拭で髪を包んで、入口の庭の日あたりの好いところで余念なく張物をしていた。彼女の友達がそこへ来た時は、「これがお島さんか」という顔付をして、暫く彼女を眺めたままで立っていた。 お島は急いで張物板を片附け、冠っていた手拭を取って、六年ばかりも逢えなかった旧の友達を迎えた。 「まあ、岡本さん――」 とその友達は、お島がまだ娘でいた頃の姓を可懐しそうに呼んだ。 一汽車待つ間、話して、お島の友達は長野の方へ乗って行った。その日は日曜だった。高瀬は浅黄の股引に、尻端を折り、腰には手拭をぶらさげ、憂鬱な顔の中に眼ばかり光らせて、他から帰って来た。お島は勝手口の方へ自慢の漬物を出しに行って来て、炉辺で夫に茶を進めながら、訪ねてくれた友達の話をして笑った。 「私が面白い風俗をして張物をしていたもんですから、吃驚したような顔してましたよ……」 「そんなに皆な田舎者に成っちゃったかナア」 と高瀬も笑って、周囲を見廻した。煤けた壁のところには、歳暮の景物に町の商家で出す暦附の板絵が去年のやその前の年のまで、子供の眼を悦ばせるために貼附けて置いてある。 「でも、貴方だって、小諸言葉が知らずに口から出るようですよ。人と話をして被入っしゃるところを側から聞いてますと――『ようごわす』――だの――『めためた』だの――」 「お前もナカナカ隅へは置けなく成ったよ」 二人とも鼻へ皺を寄せて笑った。 「お前のお友達は、それで何て言ったネ」と高瀬は聞いた。 「旦那さんが今洋行してますから、ちと高瀬さんにも遊びに被入しって下さいって」 「俺にか。旦那さんが居るから遊びに来いッてんなら解ってるが、旦那さんが留守だから遊びに来いは可笑しいじゃないか」 復た二人は笑った。 鞠子は大工さんの家の娘にも劣らないほど、いたずらに成った。北風が来れば、槲の葉が直ぐ鳴るような調子で、 「畜生ッ。打つぞ」 髪を振って、娘は遊び友達の方へ走って行った。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] 尾页
|