高瀬は酒が欲しくないと言って唯話相手に成っていた。彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草を燻し燻し学士の話に耳を傾けた。 「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしました伜の奴は。あれで弟と違って、性質は温順な方なんですがネ。あれは小学校に居る時代から図画が得意でして、その方では何時でも甲を貰って来ましたよ。私が伜に、お前は何に成るつもりだッて聞きましたら、僕は大きく成ったら、泉先生のように成るんだなんて……あれで物に成りましょうか……」 学士はチビリチビリやりながら、言葉を継いだ。 「妙なもので、家内はまた莫迦に弟の方を可愛がるんです。弟の言うことなら何でも閲く。私がそれじゃ不可と言うと、そこで何時でも言合でサ……家内が、父さんは繁の贔負ばかりしている、一体父さんは甘いから不可、だから皆な言うことを聞かなくなっちまうんだ、なんて……兄の方は弱いでしょう、つい私は弱い方の肩を持つ……」 学士は頬と言わず額と言わず顔中手拭で拭き廻した。 「しかし、高瀬君、どうしてこんなに御懇意にするように成ったかと思うようですネ……貴方のところでも、今、お子さんはお二人か……実際、子供は骨が折れますよ。お二人位の時はまだそれでも宜う御座んす。私共を御覧なさい、あの通りウジャウジャ居るんですからネ……加に、大飯食いばかり揃っていて」と言いかけて、学士は思い出したように笑って、「まさか、子供に向って、そんなに食うな、三杯位にして控えて置けなんて、親の身としては言えませんからナ……」 包み隠しの無い話は高瀬を笑わせた。学士は更に、 「ホラ、勇の下に女の児が居ましょう。上田で生れた児です……真実に親の言うことなどは聞かない……苦しい時代に出来た児はああいうものかと思いますネ……ウッチャリ放しに育った児ですからネ……子などに関ってはおられなかったんです……しかし、考えて見ると、私の家内もよくやって来ましたよ。貧苦に堪える力は家内の方が反って私より強い……」 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちに微かに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立って斑白に見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡坐にやったり、坐り直したりしながら、高瀬の方を見た。そして話の調子を変えて、 「そう言えば、仏蘭西の言葉というものは妙なところに洒落を含んでますネ」 と言って、二三の連がった言葉を巧みに発音して聞かせた。 「私も一つ、先生のお弟子入をしましょうかネ」と高瀬が言った。 「え、すこし御遣りなさらないか」 「今私が読んでる小説の中などには、時々仏蘭西語が出て来て困ります」 「ほんとに、御一緒に一つ遣ろうじゃありませんか」 仏蘭西語の話をする時ほど、学士の眼は華やかに輝くことはなかった。 やがて高瀬はこの家に学士を独り残して置いて、相生町の通りへ出た。彼が自分の家まで歩いて行く間には、幾人となく田舎風な挨拶をする人に行き逢った。長い鬚を生した人はそこにもここにも居た。
休みの日が来た。 高瀬が馬場裏の家を借りていることは、最早仮の住居とも言えないほど長くなった。彼は自分のものとして自由にその日を送ろうとした。 南の障子へ行って見た。濡縁の外は落葉松の垣だ。風雪の為に、垣も大分破損んだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎の幹が高瀬の眼に映った。短い不恰好な枝は、その年も若葉を着けた。微かな甘い香がプンと彼の鼻へ来た。彼は縁側に凭れて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上せた眼付をしていた。 「なんだか、俺は――気でも狂いそうだ」 と串談らしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、 「髪でも刈って被入っしたら」 と軽い返事をした。 急に大きな蜜蜂がブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。 「鞠ちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。 「屋外で遊んでます」 「また大工さんの家の娘と遊んでいるじゃないか。あの娘は実に驚いちゃった。あんな荒い子供と遊ばせちゃ困るナア」 「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」 「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家へ入れないようにしろ――真実に、串談じゃ無いぜ」 夫婦は互に子供のことを心配して話した。 血気壮んなものには静止していられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚を訪うよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼に展けた。五度熟した麦の穂は復た白く光った。土塀、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。 最早青年とも言えなかった。若い細君を迎えて竈を持った人だ。しばらく高瀬は畠側の石に腰掛けて、その知人の畠を打つのを見ていた。 その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土の塊を掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。 「桜井先生や、広岡先生には、せめて御住宅ぐらいを造って上げたいのが、私共の希望なんですけれど……町のために御苦労願って……」 とその人は畠に居て言った。 別れを告げて、高瀬が戻りかける頃には、壮んな蛙の声が起った。大きな深い千曲川の谷間はその鳴声で満ち溢れて来た。飛騨境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処に長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞は蛙の鳴く谷底の方から匍い上って来た。恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。
「父さん」 と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子と一緒に成った。 「鞠ちゃん、吾家へ行こう」 と慰撫めるように言いながら、高瀬は子供を連れて入口の庭へ入った。そこには畠をする鍬などが隅の方に置いてある。お島は上り框のところに腰掛けて、二番目の女の児に乳を呑ませていた。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] 下一页 尾页
|