「鞠ちゃんは、先刻姉や(下婢)と一緒に懐古園へ遊びに行って来ました」 とお島は夫に話して、復た乳呑児の顔を眺めた。その児は乳房を押えて飲むほどに成人していた。 「俺にもおくれやれ」と鞠子は母が口をモガモガさせるのに目をつけた。 「オンになんて言っちゃ不可の。ね。私に頂戴ッて」 お島はなぐさみに鯣を噛んでいた。乳呑児の乳を放させ、姉娘に言って聞かせて、炉辺の戸棚の方へ立って行った。 「さあ、パン上げるから、お出」と彼女は娘を呼んだ。 「ううん、鞠ちゃんパンいや――鯣」 と鞠子は首を振ったが、間もなく母の傍へ行って、親子でパンを食った。 「鞠ちゃんにくれるくれるッて言って、皆な母ちゃんが食って了う」と鞠子は甘えた。 この光景を笑って眺めていた高瀬は自分の方へ来た鞠子に言った。 「これ、悪戯しちゃ不可よ」 「馬鹿、やい」と鞠子はあべこべに父を嘲った。――これが極く尋常なような調子で。 高瀬は歎息して奥へ行った。お島が茶を入れて夫の側へ来た時は、彼は独り勉強部屋に坐っていた――何事もせずに唯、坐っていた。 「なんだか俺は心細く成って来た。仕方が無いから、こうして坐って見てるんだ」 と高瀬は妻に話した。 その日の夕方のことであった、南の戸袋を打つ小石の音がした。誰か屋外から投げ込んでよこした。 「誰だ」 と高瀬は障子のところへ走って行って、濡縁の外へ出て見た。 「人の家へ石など放り込みやがって――誰だ――悪戯も好い加減にしろ――真実に――」 忌々しそうに言いながら、落葉松の垣から屋外を覗いた。悪戯盛りの近所の小娘が、親でも泣かせそうな激しい眼付をして――そのくせ、飛んだ器量好しだが――横手の土塀の方へ隠れて行った。 「どうしてこの辺の娘は、こう荒いんだろう。男だか女だか解りゃしない」 こう高瀬は濡縁のところから、垣根越しに屋外に立っているお島に言った。 「大工さんの家の娘とはもう遊ばせないッて、先刻誘いに来た時に断りましたら、今度は鞠ちゃんの方から出掛けて行きました……必と喧嘩でもしたんでしょう……石などを放って……女中でも子守でもこの辺の女は、そりゃ気が荒いんですよ……」 お島はどうすることも出来ないような調子で言って、夕方の空を眺めながら立っていた。暮色が迫って来た。 「鞠ちゃん、吾家へお入り」と彼女はそこいらに出て遊んでいる子供を呼んだ。 「オバケ来るから、サ吾家にお出」と井戸の方から水を汲んで来た下女も言葉を掛けて通った。 山家の娘らしく成って行く鞠子は、とは言え親達を泣かせるばかりでも無かった。夕飯後に、鞠子は人形を抱いて来て親達に見せた。そして、「お一つ、笑って御覧」などと言って、その人形をアヤして見せた。 「かァさん、かさん――やくらか、やくや――ほうちさ、やくやくう――おんこしゃこ――もこしゃこ――」 何処で教わるともなく、鞠子はこんなことを覚えて来て、眠る前に家中踊って歩いた。 五月の町裏らしい夜は次第に更けて行った。お島の許へ手習に通って来る近所の娘達も、提灯をつけて帰って行った。四辺には早く戸を閉めて寝る家も多い。沈まり返った屋外の方で、高瀬の家のものは誰の声とは一寸見当のつかない呼声を聞きつけた。 「高瀬君――」 「高瀬、居るか――」 声は垣根の外まで近づいて来た。 「ア」 と高瀬は聞耳を立てて、そこにマゴマゴして震えている妻の方へ行った。お島が庭口へ下りて戸を開けた時は、広岡学士と体操教師の二人が暗い屋外から舞い込むようにやって来た。 高瀬は洋燈を上り端のところへ運んだ。馬場裏を一つ驚かしてくれようと言ったような学士等の紅い磊落な顔がその灯に映った。二人とも脚絆に草履掛という服装だ。 「これ、水でも進げナ」 と、高瀬が妻に吟附けた。 お島はやや安心して、勝手口のほうから水を持って来た。学士は身体の置き処も無いほど酔っていたが、でも平素の心を失うまいとする風で、朦朧とした眼をって、そこに居る夫婦の顔や、洋燈に映るコップの水などをよく見ようとした。 学士のコップを取ろうとする手は震えた。お島はそれを学士の方へ押しすすめた。 「どうも失礼……今日は二人で山遊びに出掛けて……酩酊……奥さん、申訳がありません……」 学士は上り框のところへ手をついて、正直な、心の好さそうな調子で、詫びるように言った。 体操の教師は磊落に笑出した。学士の肩へ手を掛けて、助けて行こうという心づかいを見せたが、その人も大分上機嫌で居た。 よろよろした足許で、復た二人は舞うように出て行った。高瀬は屋外まで洋燈を持出して、暗い道を照らして見せたが、やがて家の中へ入って見ると、余計にシーンとした夜の寂寥が残った。 何となく荒れて行くような屋根の下で、その晩遅く高瀬は枕に就いた。時々眼を開いて見ると、部屋の中まで入って来る饑えた鼠の朦朧と、しかも黒い影が枕頭に隠れたり顕れたりする。時には、自分の身体にまで上って来るような物凄い恐怖に襲われて、眼が覚めることが有った。深夜に、高瀬は妻を呼起して、二人で台所をゴトゴト言わせて、捕鼠器を仕掛けた。
その年の夏から秋へかけて、塾に取っては種々な不慮の出来事があった。広岡学士は荒町裏の家で三月あまりも大患いをした。誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸は士族地に葬られた。子供衆に遺して行った多くの和漢の書籍は、親戚の立会の上で、後仕末のために糴売に附せられた。 桜井先生の長い立派な鬚は目立って白くなった。毎日、高瀬は塾の方で、深い雪の積って行くような先生の鬚を眺めては、また家へ帰って来た。生命拾いをした広岡学士がよくよく酒に懲りて、夏中奥さん任せにしてあった朝顔棚の鉢も片附け、種の仕分をする時分に成ると、高瀬の家の屋根へも、裏の畠へも、最早激しい霜が来た。凩も来た。土も、岩も、人の皮膚の色までも、灰色に見えて来た。日光そのものまで灰色に見える日があった。そのうちに思いがけない程の大雪がやって来た。戸を埋めた。北側の屋根には一尺ほども消えない雪が残った。鶏の声まで遠く聞えて、何となくすべてが引被らせられたように成った。灰色の空を通じて日が南の障子へ来ると、雪は光を含んでギラギラ輝く。軒から垂れる雫の音は、日がな一日単調な、侘しい響を伝えて来た。 冬籠りする高瀬は火鉢にかじりつき、お島は炬燵へ行って、そこで凍える子供の手足を暖めさせた。家の外に溶けた雪が復た積り、顕われた土が復た隠れ、日の光も遠く薄く射すように成れば、二人は子供等と一緒に半ば凍りつめた世界に居た。雲ともつかぬ水蒸気の群は細線の群合のごとく寒い空に懸った。剣のように北側の軒から垂下る長い光った氷柱を眺めて、漸の思で夫婦は復た年を越した。
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