六
しっとり暮れて、九月の秋の京の夕ぐれは、しみじみとしてわびしかった。 かわたれどきのその夕闇を縫い乍ら、落人たちは、シャン、シャンと鈴の音を忍ばせてすべり出るように京の町へ出ていった。 直人はひとことも口を利かなかった。意志がないばかりか、まるでそれは、僅かに息が通っているというだけの、荷物のようなものだった。 腹が減ったでしょう、食べますか、と言えば、黙って食べるのである。お疲れでしょう、泊りますか、と言えば、黙って泊るのである。 しかし、そんなでいても不思議だった。馬が歩けば、馬上の荷物も自然と歩くとみえて、京を落ちてから四日目の夕方、水口から関ヶ原を廻ってかくれ街道を忍んで来た落人たち三人は、ようやく名古屋の旧お城下へ辿りついた。 蕭条とした秋雨が降ったり止んだりしている夕ぐれだった。 「しみったれた宿では気が滅入っていかん。景気のよさそうな奴を探せ」 「あの三軒目はどうじゃ」 「なるほど、あれなら相当なもんじゃ。めんどうだからこの辺で馬もかえせ。あすからは駕籠にしよう。乗物もちょいちょいと手を替えんと、じき足がつくからのう。――あの宿です。先生。泊りますぞ。おうい、宿の奴等、お病人じゃ。手を貸せ」 万事、おまえらまかせの直人は、ふたりが決めたその宿へ、ふたりの言うままに、黙々とだかれていった。 「どうします。先生。すぐに夕食を摂りますか」 「それとも、傷さえ浸けねばいいんだから、久方ぶりにひと風呂浴びますか」 道中、痛そうな顔さえもしなかったが、今宵ばかりは、よくよくこらえかねたのである。 「痛い。寝たい……」 言うまもずきずきするとみえて、ぐったりと横になり乍ら、痛そうに眉を寄せた。 すぐに、ふっくらとした夜の物が運ばれた。 しかし、臥せったかと思うとまもなくだった。――ゆくりなくも、思い忘れていた匂いを嗅ぎあてでもしたように、じっと目をすえ乍ら、ふんふんと鼻をうごかしていたが、突然力なく落ち窪んでいた直人の両眼が、ギラギラと怪しく光り出した。 匂って来たのだ。あの匂いが、女の匂いが、あの夜追われて、かくれて、はからずも嗅いだ肌の匂いが、髪の匂いが、女の移り香が、枕からか、夜着の襟からか、かすかに匂って来たのである。 「小次!」 「へい……」 むくりと起きあがると、直人が、青く笑って不意に言った。 「芸者を買おうか」 「え? ……芸者! ……突然またどうしたんでごわす」 「どうもせん。買いたくなったから買うのよ」 「その御病体で、隊長、妓を物しようというんですか」 「物にはせん、物したくもおれは物されんから、おまえらに買わせて、この枕元で騒がせて、おれも買うたつもりになろうというんじゃ、いやか」 「てへっ。こういうことになるから、おらが隊長は、気むずかしくて怕いときもあるが、なかなか見すてられんです。――きいたか。丸公。事が騒動になって来たぞ。仰せ畏し御意の変らぬうちじゃ、呼べっ、呼べっ」 「こころえた。いくたり招くんじゃ」 「おれは物されんと仰有るからには、おれたちふたりの分でよかろう。――亭主! 亭主!」 忽ち座が浮き立った。 酒が来る。灯がふえる。 台物が運ばれる。――色までが変ったようにあかるく浮き立ったところへ、白い顔がふたり、音もなくすべりこんだ。 「よう。美形々々」 「名古屋にしてはこれまた相当なもんじゃ」 「あちらのふとんの上に、えんこ遊ばしていらっしゃるのがおらがのお殿様でのう。殿様、病中のつれづれに、妓を呼んで、おまえら、枕元で馬鹿騒ぎせい、との御声がかりじゃ。遠慮はいらんぞ。さあ呑め、さあ唄え」 「…………」 「どうです。先生。景色がよくなりましたな。呑みますぞ」 「うんうん……」 「少しはお気が晴れましたか」 「うんうん……」 「申しわけごわせんな。女、酒、口どき上手、人後におちる隊長じゃごわせんが、その御病体では、身体がききますまいからな。気の毒千万、蜂の巣わんわん、――久方ぶりの酒だから、金丸は酔うたです、こら女! なにか唄え」 「…………」 「唄わんな。ではジャカジャカジャンジャンとなにか弾け」 「…………」 「よう。素的々々、音がきこえ出したぞ。――さあさ、浮いた、浮いた、ジャカジャカジャンじゃ。代りに呑んで、代りに騒いで、殿様、芸者を買うたようなこころもちになろうというんだからのう。おまえらもその気で、もっとジャカジャカやらんといかん! ――そうそう。そこそこ、てけれつてってじゃ。
ここは名古屋の真中で。 ないものづくしを言うたなら。 隊長、病気で女がない。 金丸、ろれつが廻らない。 てけれつてっての、てってって」
興至って、そろそろとはめがはずれ出したのである。 「どうです。隊長! 金丸、いかい酩酊いたしました。踊りますぞ」 ふらふらと金丸が、突然立ちあがったかと思うと、あちらへひょろひょろ、こちらへひょろひょろとよろめいて、踊りとも剣舞ともつかぬ怪しい舞いを初めた。
「ヒュウヒュウ、ピイピイピイ。 当節流行の暗殺節じゃ。 ころも、腕に至り、毛脛が濡れる。 濡れる袂になんじゃらほい。 あれは紀の国、本能寺。 堀の探さは何尺なるぞ。 君を斬らずばわが身が立たん。
立たんか、斬らんか、――えいっ。スパリ。アハハ……。もういかん。隊長。一曲、この妓と物しとうなりました。いいでがしょう。来い。女。あっちの部屋へ参ろう!」 くずれるようにしなだれかかって、その首へ手を巻きつけると、ぐいぐいと引っ張った。 小次郎も廻って来たのである。 「よし来た。そのこと、そのこと、怒っちゃいけませんぞ。隊長。――いけっ、いけっ、丸公、別室があろう。来い! 女!」 立ちあがって、よろよろとし乍ら歩き出そうとしたのを、じっと見守っていた直人のこめかみがぴくぴくと青く動いた。 とみるまに、目がすわった。 同時に、じりっと膝横のわざ物に手がかかった。 腹が立って来たのだ。憎悪がこみあげて来たのだ。 理窟もなかった。理性もなかった。歩行も出来ない身をいいことにして、これみよがしに歓楽を追おうとしているふたりの傍若な振舞に、カッと憎みがわきあがったのである。 「まてっ」 「な、な、なんです! どうしたんです!」 おどろき怪しんでふり向いたふたりの顔へ、けわしい目が飛んでいった。 「たわけたちめがっ。おれをどうする! 見せつけるのかっ。羨やましがらせをするのかっ。それへ出い!」 「ば、ば、馬鹿なっ。目の前で、枕元で芸者買いせい、と言うたじゃごわせんか! お言いつけ通りにしたのが、なぜわるいんです!」 「ぬかすなっ。それにしたとて程があるわい! ずらりと並べっ」 「き、き、斬るんですか! 同志を、仲間を、苦労を分けた手下を斬るんですか!」 「同志もへちまもあるかっ。腹が立てば誰とて斬るんじゃっ。憎ければどやつとて斬るんじゃっ――一緒に行けいっ。たわけたちめがっ」 さっと横へ、青い光りが伸びたかと思うと一緒に、ざあっと、小次郎たちふたりの背から血がふきあがった。 その血刀をさげたまま、直人は、そぼふる雨の表へ、ふらふらと出ていった。待ちうけるようにして、バラバラと影がとびかかった。 「神代直人! 縛につけいっ」 しかし、直人は、もう逃げなかった。心底腹を立てて斬ったよろこびを楽しむように、死の待っているその黒いむれの中へ、ふらふらと這入っていった。 ――秋もふけた十一月の五日、大村益次郎は、直人の与えた傷がもとで、あえなく死んだ。 捕われた直人もまた、大西郷たちの心からなる助命運動があったが、皮肉なことにも、山県狂介たちの極刑派に禍いされて、まもなく銃殺台にのぼった。
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