四
うまく危険をのがれたのである。 薩摩屋敷の塀に沿って、まっすぐ上岡崎へぬけると、この刺客たちが黒谷の巣と称していた光安院は、ほんのもう目と鼻だった。万一のことがあっても、あの寺の住職ならばと大楽源太郎の添書を貰って、根じろにしていた寺だった。 何のために上洛したのか、うすうすその住職は気がついているらしかったが、なにを言うにも今斬って、今逃げて来たばかりなのである。血のついたこの姿をまのあたりみられてはと、三人は盗むように境内を奥へ廻って、ねぐらに借りていた位牌堂の隣りの裏部屋へ、こっそり吸われていった。 「骨を折らしやがった。ここまで来ればもうこっちの城だ。丸公。まだいくらか残っているだろう。徳利をこっちへ貸してくれ」 たぐりよせるように抱えこむと、立てつづけに小次郎は、ぐびぐびあおった。 「どうです。先生は?」 「…………」 「おやりになりませんか、まだたっぷり二合位はありますよ」 しかし直人は、見向きもせずに、ぐったりと壁によりかかって、物憂げに両膝をだきかかえ乍ら、じっと目をとじたままだった。その顔は、なにかを思いこんでいるというよりも、あらゆることに疲れ切っているという顔だった。 「どうしたんです。一体。――足の傷が痛むんですか」 「…………」 「傷が、その傷がお痛みになるんですか」 「決ってらあ」 「弱りましたね。手当をしたくも膏薬はなし、住職を起せば怪しまれるし、――酒があるんです。これで傷口を洗いましょうか」 「…………」 「よろしければ洗いますよ。もし膿を持つと厄介だからね。丸公、手伝え」 おもちゃをでも、いじくり廻すように足を引き出して、こびりついている血と泥を、ごしごしとむしりとった。 ぐいと、穴がのぞいた。 その穴へ、ふたりは、代る代る酒をぶっかけた。――身を切るほども、しみ痛い筈なのに、しかし直人は、痛そうな顔もせずに、ぼんやりと壁へ身をもたせたままだった。 なにかに、心をとられているらしいのである。――小次郎が、ひしゃげた鼻に、にやりと皺をよせて言った。 「あれだね。――この忙しい最中に、先生も飛んだものを嗅いだもんさ。今の女のあの匂いを思い出したんでしょう」 「…………」 「旦那よりほかに寝かしもしないふとんの中へ入れたんだ。紙ひと重の違いだが、因縁のつけようじゃ浮気をしたも同然なんだからね。そこを一本、おどしたら、あの女、物になるかも知れんです。酒のしみるのが分らないほど、思いに凝っていらっしゃるなら、ことのついでだ。今からひと押し、押しこんでいったらどうでごわすかよ」 「バカッ」 「違いましたか!」 「…………」 「どうもそのお顔では、ちっときな臭いんですがね。あのときの女の立膝が、ちらついているんじゃごわせんか」 耳にも入れずに、直人は、目をつむっていたが、卒然として身を起すと、にったりとし乍ら、あざけるように言った。 「どうやらおれも、少々タガがゆるんだかな」 「なんのタガです」 「料簡のタガさ。――大村益次郎、きっと死ななかったぞ」 ギクリとなったように、小次郎たちも目を光らした。実はふたりも、それを気づかっていたのである。 「八人狙って八人ともに只の一刀で仕止めたおれじゃ。――のう、そうだろう」 直人の顔が、描き直したように青ざめた。 「しかし、九人目の大村にはふた太刀かかったんだ。そのふた太刀も、急所をはずれて膝へいったんだからな。問題ははずれた最初のあのひと太刀じゃ。八人斬って、八人ともに狂ったことのないおれの一刀斬りが、なぜあのとき空へ流れたか、おまえらはどう思うかよ」 「…………」 「心のしこりというものはそら恐ろしい位だ。頼まれてばかり斬って歩いて、馬鹿々々しい、と押し入る前にふいっと思ったのが、手元の狂ったもとさ。――神代直人も、もう落ち目だ。タガがゆるんだと言ったのはそのことなんだよ」 「ならば、そんなろくでもないことを思わずにお斬りなすったらいいでがしょう」 「いいでがしょうと言うたとて、思えるものなら仕方がないじゃないか。おまえらもとっくり考えてみい。――長州で三人、山県の狂介めに頼まれて、守旧派の奴等を斬っちょるんじゃ。その山県狂介は今、なんになっておると思うかよ。陸軍の閣下様でハイシイドウドウと馬の尻を叩いているじゃないかよ。伊藤俊輔にも頼まれてふたり、――その伊藤は、追っつけどこかの知事様に出世するとか、しないとか、大した鼻息じゃ。桂小五郎にもそそのかされて三人、――その小五郎は、誰だと思っちょるんじゃ。木戸孝允で御座候の、参与で侯のと、御新政をひとりでこしらえたような顔をしちょるじゃないか。――斬ってやって、奴等を出世させたこのおれは、相変らず毛虫同然の人斬り稼業さ」 「いいえ! 違います! 隊長! 隊長は馬鹿々々しい馬鹿々々しいと仰有いますが、斬った八人はみんな、天下国家のために斬ったんでがしょう!」 「がしょう、がしょう、と思うて、おれも八人斬ったが、天下国家とやら、このおれには、とんと夢で踏んだ屁のようなもんじゃ、匂いもせん、音もせん、スウともピイともこかんわい。――ウフフ……馬鹿なこっちゃ。只のいっぺんでいい! 頼まれずに、憎いと思って、おれが怒って、心底このおれが憎いと思って、いっぺん人を斬ってみたい!」 「斬ったらいいでがしょう!」 青い顔が、ギロリと光って、目が吊った。 「きっといいか!」 「いいですとも! 人斬りの名を取った先生がお斬りなさるんだから、誰を斬ろうと不思議はごわせんよ!」 「…………」 けわしくにらみつけ乍ら、まじまじとふたりの顔を見つめていたが、ごろり横になると、吐き出すように言った。 「お時勢が変っておらあ! 憎くもないのに、斬った昔は斬ったと言うてほめられたが、憎くて斬っても、これからは斬ったおれが天下のお尋ね者になるんだからのう。――勝手にしろだ。おれは寝る。おまえらも勝手にしろ」 「だめです! 先生! 手当もせずに寝たら傷が腐るんです! せめてなにか巻いておきましょう。そんな寝方をしたら駄目ですよ!」 「うるさい! 障るな! ――腐ったら腐ったときだ……」 はじき飛ばして、横になると、遠いところをでも見つめるように、まじまじと大きく目を見ひらいたまま、身じろぎもしなかった。
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