恐怖城 他5編 |
春陽文庫、春陽堂書店 |
1995(平成7)年8月10日 |
1995(平成7)年8月10日初版 |
1995(平成7)年8月10日初版 |
東京は靄の濃い晩秋だった。街は靄から明けて靄の中に暮れていった。――冷えびえと蠢いているこの羅の陰には何事かがある? 本当に、何事かが起こっているに相違ない?――彼は東京の靄が濃くなるごとに、この抽象的な観念に捉えられるのだった。猟奇的な気持ちでありながら、また一種の恐怖観念なのであった。 彼はある朝早く、濃い靄に包まれている街の中を工場地帯に向けて歩いていた。どこか遠くの遠くから夜明けの足音が静かに近づいてくる。――ぎりりゅう、と骨を擦り合わせるように電車が軋る。犬が底の底から空腹を告げる。自動車の警笛が眠い頭を揺り醒ましていく。気忙しくドアの開かれる音。――靄の中に錯綜する微かな雑音が、身辺の危険区域まで近づいてきては遠ざかり、遠ざかってはまた脅かすように羅のすぐ裏まで忍び寄ってくるのだった。 敷石道を蹴立てる靴音のその音波で、靄はうらうらと溶けていった。その裂け目からバラックの建物が浮き出してくる。道は間もなく橋にかかった。黒い木橋は夢の国への通路のように、幽かに幽かに、その尾を羅の帳の奥の奥に引いている。そして空の上には、高層建築が蜃気楼のように茫と浮かんでいた。 「あなた! まあ! あなた! わたしを迎えに戻ってきてくだすったの?」 彼は驚きの目で振り返りながら立ち止まった。白い着物を着て橋の袂に佇んでいたその女は、叫びながら彼に跳びついてきた。 「ほんとによく戻ってきてくださったわね。それで、坊やをどうしましょうね?」 彼女は皓い歯を見せて語りかけながら、彼の腕に掴まった。 「人違いじゃないですか?」 彼は自分の腕を掴んだ彼女の手を、静かに引き放しながら言った。 「わたしになにもそんな、立派な言葉を使わないでもいいのよ」 「はは……どうかしてやしませんか?」 「そりゃ、するはずだわ。何もかも、因を言えばあなたが悪いからよ」 「ぼくが悪いんですって?」 「いちばん悪いのはそりゃあなたじゃないけれど、やはりあなただって悪いわ。いったい、どうしてあんなに逃げ回ったんですの?」 「はは……困ったな。ぼくはちっとも逃げ回りなんかしやしませんよ。ぼくはこれから工場へ行くところなんです」 「工場へ? 工場へだけはおよしなさいよ。あなたはまだ工場へなど行くつもりですの?」 彼女は目を輝かせながら、また両手で彼の腕に縋りついた。 「大丈夫ですよ。逃げはしないから、大丈夫ですよ」 「ほんとに行かない? どんなことがあっても、工場へだけは行っちゃ駄目よ」 彼女はそう言って、静かに彼の手を放した。 「行きたくなくたって、行かなければこっちが干乾しになるじゃないですか?」 「まあ! あなたはまだそんな気持ちでいるの? 困るわね。あなたが逃げ回っている間にわたしたちがどんな目に遭ったか、あなたは知らないんですか? あなたは何もかも知っているくせに、よくもそんな馬鹿なことが言えるのね?」 「あなたは人違いをしているんでしょう」 「どうしてあなた、なんて言うの? どうして前のように、おまえ! って言わないの? わたし、前のように、おまえ! って言ってもらいたいわ」 「はは……困った人だな、もういい加減にしてください。工場のほうが遅くなるから……」 「あなたは呆れた人ね。まだ工場のことを言っているの? あなたは自分が逃げ回っている間にどんなことがあったか、本当になんにも知らないの? ごまかしてまた逃げようたって駄目よ。本当にあの工場へだけは、どんなことがあっても行っちゃいけないわ。どんなことがあっても駄目よ」 彼女はまた固く彼の手を掴んだ。 「困るな。はは……困った人だな」 「あなたは本当に、なにも知らないの? 本当に知らないなら話してあげるわ。まあ、わたしの話を聞いていらっしゃい! ね」 彼女はそう言いながら、彼を引っ張った。彼は引っ張られるままに橋の袂へ行った。そこには、これから架橋工事が始まるらしく四角に截った御影石が幾つもごろごろと置いてあった。彼女は彼の手を掴んだままその一つに腰を下ろした。彼もその傍らに腰を据えた。 「そら、あなた、あの泣き声が聞こえない? 聞こえるでしょう? 坊やの泣いているのが……ね?」 彼女はそう言って、靄の上に蜃気楼のように浮かんでいる高層建築のほうを指さしながら、聞き耳を立てるようにした。 「ぼくには、そんな泣き声なんか聞こえませんがね。あなたは頭がどうかなってるのじゃないですか?」 「わたしの頭がどうかなったっていうの? そりゃ、頭もどうにかなりそうだったわ。気がおかしくなりそうだったわ。でもわたし、あなたを捜し当てるまでは、捜し当てるまではと思って、おかしくならないでいたのよ。おかしくならないでいて、あなたに何もかも話してあげなければいけないと思っていたのよ」 彼女は真面目だった。言われてみると、やはり彼女は正気らしかった。だいいち、彼女は身奇麗にしていた。常人には見られないほどみずみずしく輝く目で、彼女は睨むようにして相手を見詰めるのであるが、それは彼女の真面目さからというべきだった。青白く窶れた頬も異常からというよりは、生活上の苦しさを告げているようだった。そして、黒い頭髪にはよく櫛が通っていた。 「ねえ、何もかも話してあげるわ。黙って聞いてらっしゃい。本当にあの工場だけは、もうどんなことがあっても駄目よ」 彼女はじっと彼の顔を見守りながら、そう話を進めていった。
彼女は共同井戸から水を汲んでいた。そこへ工場から少年工が駆け込んできた。 「ねえ、今夜は夜業で帰れねえんですと」 少年工は息を弾ませながら言った。そして、ずるずるっと青黒い洟汁を啜り上げた。 「松島がですか?」 「うん」 少年工は機械の油に汚れた草履を重そうに、ばたりばたりと曳き摺って帰っていった。 彼女は不機嫌な気持ちで家の中に入った。夜業をするなんてでたらめだと思ったからだった。そんなことでだれが騙されるものかと彼女は思った。これまで、工場のほうから夜業をするから帰れないという通知を受けたことは一度だってなかった。きっとまた、自分に隠れて会合へ出ていったのに相違はないと彼女は思った。なぜ妻にまで秘密にする必要があるのだろう? と思うと、彼女はなにかしら掻き毟りたいような気持ちになっていた。 彼女の不機嫌は翌朝まで続いた。彼女は赤ん坊が小便をしたといっては胯を抓った。乳の呑み方が悪いといっては平手で頭を撲った。それからすべての器物にも手荒く当たった。――翌朝になっても彼女の夫は帰ってこないからだった。 翌朝そこへ、工場からまた使いが来た。今度は少年工でなく、年寄りの雑役夫だった。 「お! こちらの松島さんはよ、昨夜、夜業をして怪我をしてな。うんで病院のほうへ行ったからよ、そのつもりで心配しねえでいてくれ」 「怪我をしたんですって? ひどく怪我をしたんですか?」 「おれは見なかったんでな、どの程度だかよく知らねえが、大したことじゃあるめえて。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……」 「で、その病院って、どこの病院なんでしょうね?」 「さあ? おれには分かんねえがな。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……」 雑役夫の親父はそれだけ言って、帰っていった。彼女は雑役夫の伝えてきた夫の行動を信じなかった。自宅にも帰れないほどの怪我をしているのなら、病院の名を知らせないはずはないと思ったからだった。 彼女はその日一日じゅう、内職の手袋編みが少しも手につかなかった。そして、彼女は夫を憎んだ。結婚をしてから幾度となく繰り返された経験だった。しかし、彼女は苦しい生活のことを考えてくれずに仕事を休んでいる夫を憎んでいるのではなかった。会合のことといえば秘密にして、そういうことは女などには分からぬものと決めている夫を憎んでいるのだった。 その日の夕方、また雑役夫の親父さんが工場の帰りに寄ってくれた。 「今朝はな、おれは工場からの使いだったので本当のことを話せなかったんだどもな。松島さんのことをよ」 「今朝だって、工場から来たんじゃないんでしょう? 松島はどこかへまた、みんなを集めるんでしょう」 「うんにゃ! 人の話だども、それがひでえんだよ。うん、ひでえんだという話だよ」 「本当に、では、怪我をしたんですね」 彼女は意外だというようにして訊き返した。 「それが、怪我ぐれえのとこならいいのだがよ、こちらの松島さんは機械に食われてさ、胴がまるで味噌のようになったんでねえか! 人の話だがよ。おれは見ねんだどもな」 「そのこと、ほんとなんですの?」 彼女は胸がどきっとした。考えてみるとこの瞬間、彼女の全身の血が夫に対する愛情と生活上の問題との間を、最大急行列車のピストン・ロットのように急速度の往復運動をしたのに相違なかった。 「人の話で、おれは見ねえんだどもよ」 「そんなことを言って驚かさないでください。松島はいままで本にばかり齧りついていて、工場には慣れていない人ですから、そんなことを言われると本当にしてしまいますわ」 彼女は雑役夫の言葉を否定した。それほどのことがあったのなら、工場から知らせてくれないはずはないと思ったからだった。 「だがよ、人の話だども、嘘じゃねえようだでな。なんでも、胴が味噌のようになっても、病院へ持っていくまではひくらひくらと動いていて、熊か何かのように唸っていたそうだで。そして、医者が腹から着物を剥がすべと思ったらよ、ひと唸りうんと唸って、それっきりだったという話なんだがな」 「おじさん! 本当のことなんですの? 本当のことなんですの?」 彼女はそう言いながら、赤ん坊を背負って雑役夫の返事を待たずに家を飛び出した。そして彼女は工場まで、背中の子供を揺すり上げ揺すり上げほとんど駆けつづけたのだった。 工場の門の前まで来たとき、彼女はどっちが本当なのかしら? と、もう一度疑いを持って考え直してみた。が、大きな三本の煙突から煙の上がっていないことや、機械の絡み合う騒音の聞こえてこないことが、彼女に対して夫の死の宣告を矢のように射込んだ。 「松島の死体を見せていただきたいんですけど」 彼女はいきなり門衛に言った。 「松島さんの、何を、ですと?」 「あの、昨夜は夜業をしたんでしょうか?」 「ここは他の工場と違って、夜業をやらないです」 「まあ! 変ですわ。では、松島の死体はどうなっているんでしょう?」 彼女は門の前で経験した気持ちをもう一度繰り返しながら、叫ぶような調子で訊いた。 「松島さんの死体とね? 松島、重三郎さんですかね?」 「松島重三郎の死体、どうなってるんですの?」 「松島さんが死んだというんですね? 瀕死の怪我人とか死骸ですと、夜中でない限り裏門から出ませんでな。門衛のほうの名簿ですと、松島さんは昨日限り退職されたことになっておりますがね」 門衛は落ち着いて帳簿を繰るのだった。 「では、どなたに訊ねたら分かるんですの?」 「明日にしてください。明日もう一度来て、監督さんに会ってください。工場にはもうだれもいませんから」 頑丈な鉄格子の門の奥には、黒い大きな建物が鯨のように横たわっているだけだった。 もし死んだのが本当なら、殺られたのだ! 殺られたのだ?――彼女はだんだんとそんな風に思い詰めてきていた。 工場に慣れていないからとて、そんなへまなことをする人ではない! 殺られたのだ!――と彼女は信じた。しかし、不思議に彼女は涙も出なかったし、悲しいとも思わなかった。底の底では判然とそれを信じ切っていないのだった。むしろ、いまに帰ってくるに相違ないとさえ思っていたのだった。 その晩遅くなってから、十一時過ぎに、工場の監督が彼女を訪ねてきた。それが工場の監督と分かると、彼女は先手を打った。 「松島の死体は、いったいどうなっているんでしょうね?」 「…………」 監督は黙ってお辞儀をした。 「怪我をしたのなら、どうしてその時すぐに知らせていただけなかったのか、それがわたしにはどうしても分かりませんわ」 「実は、すぐお知らせするはずだったのですが、あまりひどかったものですから、かえってお目にかけないほうがよかろうということになりまして、すぐそのまま病院のほうへ……」 「まるで品物ですのね。あんまりじゃないでしょうか? あんまりですわ! それで、死んだのは本当なんでございますか?」 「まったく、お気の毒ともなんとも……」 「本当のことをおっしゃってください。本当はあなたが、松島にいられたんでは具合が悪いので、どこかへ行ってもらったんでしょう」 「いいや! 本当に亡くなられたんです。これはわずかばかりですが、工場のほうからの遺族慰藉料というわけで、お香典なのですが、まあ、これを何よりの証拠と思っていただきたいんです」 監督はそう言って、彼女の前に封筒を出した。
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