「すぐだから……」 朝田は自動車を降りて受付へ行った。そして、ふた言三言の立ち話をして戻ってきた。 「ちょっと、降りていらっしゃい。すぐなそうだけれど、ここに待っていてもつまんないから、お茶でも飲んで……」 「いいえ。わたしはここで失礼させていただきます」 「いや、同じことだから、みっともないから」 彼女は仕方なく自動車を降りた。そして、駆り立てられるようにしてホテルの階段を上った。 彼女が泥のように疲労し切った眠りから頭を擡げたとき、彼女の夫はいつの間にかそこにはいなかった。彼女はたった一人で、ダブル・ベッドの上に犬のように丸くなって寝ていたのだった。彼女は驚いて辺りを見回した。 しかし、さきほどの出来事は決して夢ではなかったのだ。彼女は何もかもはっきりと記憶している。――最初、朝田が彼女をこの部屋に待たしておいたまま、いつまで経っても戻ってこなかった。彼女は一時間ぐらいは我慢して椅子にじっと腰を下ろしていた。しかし、熱を出している赤ん坊のことを考えると、全身がぞくぞくしてきた。彼女は動物園の熊のように、部屋の中をぐるぐると歩き回った。彼女はもうたまらなくなってきた。彼女はドアというドアに突き当たってみた。いずれも固く閉まっていた。彼女はどうしても出ようと考え、必死にドアと闘った。そうしているうちに、彼女は北側の窓の上部には金網の張ってないのを見つけた。彼女はテーブルに乗って、そのガラスを一枚叩き割った。しかしそこからは首しか出なかった。首を出して街上を見おろすと、偶然にも彼女の夫が通っていた。彼女は夫を大声に何度も呼んだ。夫は上を見上げて手を振った。彼女は夫が助けに来るのを信じて部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。間もなくノックの音がして、夫が入ってきた。彼女は感激のあまり言葉が出なかった。夫も黙っていた。二人は抱擁したままベッドに打ち倒れてしまったのだった。――夢ではない。彼女ははっきりと記憶している。 彼女はもう一度部屋の中を見回した。紫の笠をしたスタンド・ランプが目を醒ましていて、薄紫の淡い光が泳ぎ回っているだけだった。彼女の夫はやっぱりいなかった。彼女はベッドの上から飛び降りた。そして、部屋の中を檻の中の獣のように駆け回った。 彼女はまたテーブルに乗って、破れたガラス窓から首を出した。街は夜更けらしく、静かになっていた。その時、彼女の背後でノックの音がした。ドアが開いて男の顔が出た。それが真っ白い洋服を着た彼女の夫だった。 「まあっ! あなた! どこへ行っていたの! どこへ行ったの?」 彼女は飛びついた。が、その瞬間に、彼女の夫は敏捷にドアの陰に身体を隠した。 「どうしたえ? え? どうしたえ?」 こう言って、代わりに出てきたのは朝田だった。 「あなた! 行っちゃいけません」 彼女はドアの陰に隠れた夫を追って、飛び出していこうとした。 「どうしたというんだ? え?」 朝田は彼女を掴まえて、無理にもベッドのほうへ連れていこうとした。 「放してください。放してください」 彼女は朝田を曳き摺るようにして荒れ狂った。 「どうしたというんだ? え? きみはそれじゃ、さっきの築港の技師にもそうしたのかい? 困るじゃないか?」 「放してくださいったら!」 彼女は暴れ回った。彼女は朝田の手を引っ掻いた。彼女は朝田を突き飛ばしておいて、廊下に駆け出した。しかし、夫の姿は見えなかった。彼女は白い足袋裸足のまま、すぐに夜の街上へと駆け出していった。
彼女は街角で夫に突き当たった。いつの間にか和服に姿を変え、ソフトを目深に冠っていた。彼女はその袂に掴まった。と、彼女の夫は何をするんだ? というような目をして、邪険に彼女の手を振り切って走りだした。彼女は追いかけた。次の四辻街まで走っていくと、横から自動車が疾走してきた。その中に、彼女の夫が外套の襟に顔をうずめるようにして葉巻を燻らしていた。彼女は大声に夫を呼んで自動車に走り寄った。しかし、彼女の夫はちょっと彼女のほうに目をくれただけで、自動車は疾走し去った。彼女は大声に夫を呼びながら自動車を追いかけた。そして、彼女は間もなく自動車を見失った。今度は彼女の夫は、鳥打帽に印半纏を着て暗い路地から出てきた。彼女は力の限りその腕に縋りついた。が、彼女の夫は彼女の隙を見て、彼女を地面に投げだした。そして駆けだした。彼女はすぐに起き上がって、またも夫を追いかけていった。 彼女の夫はいろいろに姿を変えては、至るところから出てきたのだった。彼女はそれを追って掴まえた。掴まえては放すまいとした。がしかし、彼女の夫はなにかと言っては、至るところで彼女の手から逃げ出した。彼女は追った。夜の明けるまで、彼女は夫を追い回した。 「小母さん! 小母さん!」 隣の少女が赤ん坊を抱いて彼女を呼び呼び、泣きながら追いかけてきた。 「小母さん! 赤ちゃんが、赤ちゃんが……」 少女は彼女に追いついても泣いていた。しかし、哀しいがためではない。あんなにひどい熱を出していた赤ん坊が、無事に熱が引いたからだった。少女はつまり、嬉しさのあまりに泣いていたのだった。 「坊や! 坊や! 病気が治ったの? 治ったの? 坊や! よかったわね」 彼女はぐったりとしている赤ん坊の頬をぶるんぶるんさせてあやしたけれども、赤ん坊は気持ちよさそうにぐったりと眠りつづけていて、決して笑いだしもしなければ目さえも動かさなかった。 「坊や! どうして笑わないの?」 「小母さん! 赤ちゃんはね、赤ちゃんはね……」 少女は啜り泣きながら、何か言おうとしていた。そこへ鳥打帽が覗き込んだ。彼女の夫だ。赤ん坊の父親なのだ。彼女の手からは逃げつづけていても、自分の子供の顔は見たいのだろう。あれほど忙しく逃げていたのがいつの間にか戻ってきて、赤ん坊の顔を覗き込んでいるのだ。 「あなた! まあ、あなたという人はなんて方でしょう? さあ、逃げ回ってばかりいないで、少し坊やを抱っこしてやってちょうだい」 彼女は夫に赤ん坊を突きつけた。夫は怪訝そうな目で彼女を見た。土佐犬のような顔! が、その犬のように尖った口を急に侮蔑の笑いに歪めて彼女の夫は駆けだした。 「あなた! 逃げちゃ駄目よ! どこへ行くの? あなた! あなた! あなた」 彼女は夫を追いかけた。眠り人形のように眠りつづけている赤ん坊を抱いて、彼女は駆けられるだけ駆けた。 敷石道は地球儀の腹のように碁盤縞を膨れ上がらせていた。街の高層建築はその両側からいまにも倒れそうな鋭角の傾斜を見せて、円形・三角・楕円形・四角、さまざまな帽子の陳列のように頭を並べていた。 列から乱れている一つの小さな楕円形の頭の建物の前で、彼女は黒い服を着た男に捕まった。 「何をするんです? 放してください! 放してください!」 しかし、黒い服の男は彼女を放さなかった。彼女は犬に咥えられた鳥のように暴れ回った。黒い服の仲間は銀色に光る長い棒をがちゃがちゃさせながら、幾人も寄ってきた。彼女はそれが朝田の手足であることを悟って、いまのうちにどうかして逃げようと焦った。 「放してください! 何をするの? 放してちょうだい?」 彼女は黒い服の仲間から逃れようとしてさんざん暴れた。その手を滅茶苦茶に引っ掻いてやった。が、黒い服の仲間はどうしても彼女を放さなかった。そればかりでなく、黒い服の仲間は彼女から赤ん坊まで奪った。完全に奪っていった。そして、彼らは朝田の命令で、朝田の待っているホテルへ彼女を連れていこうとするのだった。――しかし、黒い服の仲間は彼女があまりひどく暴れたため、朝田の待っている江東ホテルヘは連れていけなかった。その代わり、彼女を近くの他のホテルへ連れていった。 そこのホテルは牢獄のように頑丈だった。女中はみんな白い服を着ていた。黒い服を着た下男が幾人もいた。彼女は大勢の手で、ある一室に投げ込まれた。――どこからか夫の声がしてきた。赤ちゃんの泣く声もする。眠っていたのが、あんなに乱暴されたので目を醒ましてしまったのだ。――彼女は朝田が来ないうちに、どうかして逃げ出さねばならないと思った。 そのうちに、黒い服の下男と白い服の女中とが、どかどかと入ってきた。――彼女を朝田の部屋へ連れていくのに相違ないのだ。彼女は抵抗した。暴れ狂った。――しかし、相手は多勢だ。彼女を他の部屋へ運び出すと、裸にしてそこの真っ白いベッドの上に革紐で固く縛りつけた。彼女はもはや、そのまま朝田の蹂躪に任すよりほかに仕方がなかった。 ところが、思いがけもなく入ってきたのは朝田ではなかった。白い服を着た背の高い、細い身体の男だった。しかし、その男は意外にも彼女に口を開かせてその舌を見たり、胸や腹を撫でたきりだった。――その男は何度来ても、同じことを繰り返すきりだった。ときには黒いゴム管を持ってきて、その先を彼女の腹や胸に押し当てたりすることもあったが、しかし、ただそれだけのことだった。――いったい、このホテルは何を目的に自分をこうして監禁しているのか、彼女には分からない。しかし、彼女の夫も赤ん坊も、同じようにこのホテルのどこかに監禁されているのだ。夫の叫ぶ声が聞こえてくる。赤ん坊の泣き声が心臓を抉りにかかる。彼女は絶えず禍々しい暗示をかけられた。――自分たちをどこかへ売ろうとしているのに相違ない。築港の人柱! このホテルは確かにそういうことを職業としているのだ。――とそのうちに、彼女の夫は突然ホテルから逃げ出してしまった。それを夫の叫び声で知った彼女は、夫と協力して赤ん坊を取り戻すべく逃げ出してきたのだった。 「――あの窓の辺りなのよ。そらね、聞こえるでしょ。そら、あの雲の上から聞こえるの、坊やの泣き声でしょ」 彼女は手を上げて、晴れかけた靄の上へ蜃気楼のように浮かんでいる高層建築を指した。その指先は白い一本の絹のように小刻みに、敏速に、神経的でしかも恐怖的な顫えを顫えつづけていた。 「そらね。あの泣き声、坊やでしょ?――あらっ! とてもかわいそうね。そら、とてもひどく泣いているわ。聞こえるでしょ?」 彼女はじっと耳を澄ました。彼も眉を寄せるようにして耳を立てた。が、冷えびえと顫えている帳のかなたからしてくる雑音を、彼ははっきりと聴き分けることができなかった。 「あらっ! 来たわ! 来たわ! 助けてください! 助けてください! わたしをまた引っ張りに来たのだわ! そら来たわ! 来たわ!」 彼女は突然叫びだして、彼の腕に縋りついた。そこへ、白服の看護婦と黒い半纏の看護人とが五、六人ばたばたと駆けつけてきた。 「今度は、この方を自分の夫だと思っているのだわ」 看護婦の一人は彼女に歩み寄りながら言った。 「男さえ見ると、だれでも自分の夫だと思うんだからな、始末が悪いや」 看護人が笑いながら言った。そして、彼女を引き立てようとした。 「坊やを返してください。坊やと松島を返してください」 「この人は死んだ赤ちゃんを、まだ生きていると思っているのだわ」 看護婦は気の毒そうに微笑みながら言った。 「で、この人の言う、その松島という人はいったいどうしたんだい? 生きているのかい? 死んだのかい?」 看護人が真面目な顔で訊いた。 「それがはっきり分れば、この病人は治せるって院長先生はおっしゃっているのよ」 「はっきり分かれば治るんですって? よし! おれが行って話してやる。はっきりと、何もかも話してやる。洗い浚い話してやる」 彼は叫ぶように言いながら、ひどく昂奮した。彼は顔を赤くして、投げ出すような歩調で看護婦たちのほうへ歩み寄っていった。
●表記について
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