「まあ! それが松島の死んだ証拠だというんですか? どうして死体をひと目見せてはくれないのでしょうね」 「それはさきほども申しましたように、とてもひどかったものですから、お目にかけたらいつまでもいつまでも目に残ってお困りだろうと存じまして、いっそのことお骨にしてからお目にかけたほうがよかろうということに……、みなの意見だったものですから」 「でも、わたしは見なければ信じられませんわ」 「わたしのほうでは実を申しますと、最初に少しばかり怪我をして、それが原因でだんだん悪くなって亡くなったようにお知らせしたかったのです。なるべく、びっくりさせ申したくないと存じまして」 「どうして本当のことをおっしゃってはくださらないんでしょうかね? あなたのほうでは他の職工さんたちに知れるのが怖くて、表門から出さずに裏門から運んだり、瀕死の怪我人なのに、ちょっと怪我をして病院へ行ったけれども心配はいらないとか、死んでいるのにまだ治る見込みがあるような顔をするんでしょ? それはあなたのほうには都合のいいことでしょうけれど、こちらではそのために、一生涯というものまるで中途半端な感情を持たせられますわ。わたし、ほんとに信じ切れませんわ。どうしても、松島が死んでしまったとは思われないんです。いまにその辺から帰ってくるような気がして」 「わたしのほうでは、かえってそんな風に思っていただいて、一度に気を落とされないようにと思ったものですから」 「いいえ! あなたのほうでは、他の職工さんたちに知られるのを恐れているんです。それくらいのことは、わたしにだって分かります」 「もっとも、それもあります。しかし、そのことはあなたにまで隠そうとは思ってはおりませんのです。こうして何もかも有体に報告いたしましたうえで、国家のためと思って黙っていていただきたいと、口止料というようなものを持ってまいっているのです。社長のほうからわずかばかりですが、こうして包んで寄越しました。……国家のためと思って、どうぞ他の職工たちに知れないようにしていただきたいって……」 監督はそう言って、また一つの封筒を取り出した。 「国家のためですって? ずいぶんおかしいんですのね。松島の死んだのを隠していて国家のためになるのなら、それは黙っておりますとも」 「なにしろ、それを聴きますと他の職工たちが嫌がるもんですから、まあ、士気が鈍るというようなわけで、それで、なるべくはあなたに、どこかここから遠いところへ引っ越していただきたいとも思うんです。ここにあなたが一人でいれば、松島くんの死んだことが長い間にはしぜんと分かってきますから」 「それは困ります! それは困りますわ。わたしはこれから手袋編みだけで食べていかねばならないんですから、引っ越すわけにはいきません。引っ越せば職を失ってしまうのですから」 「もし越してくださるなら、その分も会社から金が出るはずになっていますがね」 「松島は、本当に死んだんですか?」 彼女はやはり、松島はどこかへ行っているのではないかと思った。どこかへ行っている間に自分に引っ越させて、何もかも掻き消そうとしているのではないかと考えたのだった。 「それは本当ですとも。まあ、その証拠に、明日か明後日までにお骨を届けますから」 「灰を見ても、わたし、やっぱり信じられないだろうと、なんか、そんな気がしてなりませんのよ」 「とにかく、これは慰藉料、これは口止料というわけで、それから、これは給料の残り分です」 監督は三つの封筒を彼女の前に押し出して帰っていった。
松島の骨を彼の郷里に埋めて、彼女はまた東京に出た。葬式を済ませて帰ってみると、あのとき貰った金はもはやいくらも残ってはいなかった。彼女は毎日毎日、朝早くから夜更けまで手袋編みを続けた。そして、彼女の生活はだんだんと苦しくなっていった。 彼女はときどき松島のことを思い出して啜り泣きをした。死んだ夫を哀しむという気持ちからではなかった。彼女は夫の骨を埋めてきていながら、それでもまだ夫がどこかに生きているように思われて、それを待ちつづける寂しい気持ちに泣かされるのだった。――あの時、工場から届けてくれた夫の骨を、疑えば彼女はいくらでも疑えるのだった。 彼女のそういう生活の中へある日、この前の工場監督が訪ねてきた。社長のところへ産まれた赤ん坊の乳母になってくれないかというのだった。 「なにしろ社長が、相当の教養があって、身体も健康で、そのうえに美貌でなければいかんというものですから、いくら探してもいなくて困ってたんですよ。ちょうどそこへあなたを思い出したものですから……」 「まるで、お嫁さんを探すような条件ですのね。そんなむずかしいところへ、わたしのような者でいいんですか?」 「あなたなら、文句なし! です。実は、あなたのところへ来ます前に、ちょっと社長へ話してみたんですがね。ところが、社長はあなたを気の毒に思っているものですから、ぜひあなたを頼もうということになりましてね」 「では、まいりますわ。ほんとにわたしのような者でいいんでしたら?」 彼女は謙遜の気持ちに、謝意をさえ含めて答えた。監督の、乳母を職業としている者にでも対するような挨拶には、彼女はもちろん愉快ではなかったが、しかしそれをすら押し除けて、彼女は特に自分を引き抜いてくれたという社長の情義に飛びついていった。 「じゃひとつ、相互扶助というわけでぜひともお頼みします。お礼はいくらでも出すと言っているんですから……」 彼女はその翌日から朝・昼・晩の三回ずつ、二十町(二キロ強)あまりの道を歩いて乳房を運んでいった。 彼女の授乳の合間を母親の貧弱な乳房に縋りついている赤ん坊は、乳首が痛くなるほどたちまち彼女の乳を呑み干した。それから二十町あまりの道を歩いて帰るのに、彼女は四十分から五十分、どうかすると一時間近くもかかるのだったが、それだけの時間で彼女の乳は原状に復り切れなかった。そして、また三、四時間もするとすぐに豊富な乳房を持っていかなければならなかったので、彼女は自分の赤ん坊にはミルクをもって補ってやらねばならなかった。しかし、彼女はそれをあまり哀しいことに思わなかった。それで自分たちの生活が完全に保証され、子供のうえにも明るい太陽の招来されることが思われるからだった。 彼女は自分と同じ棟の長屋に住む近所の少女を雇って留守を任せ、自分の赤ん坊をその少女に預けては毎日毎日、高台の豪壮な邸宅と貧民窟街の襤褸長屋との間を往復した。 彼女がそうして朝田社長の邸に通いだしてから五日目の朝、彼女の赤ん坊は急に母乳を離れてミルクについたためか、熱を出したのだった。 しかし、彼女は気にはしながらも少女に赤ん坊を任して、朝田の邸へ奉公に出かけた。朝はまだそうでもなかったのが、昼に出かけるときにはもはやひどい高熱だった。けれども、彼女はやっぱり出かけなければならなかった。 彼女は三時の音を聞いて、急いで朝田邸の門を出た。門を出たばかりのとき、背後で自動車の音がした。自動車が急停車をしたのだった。それには主人の朝田が乗っていた。 「松島さん、あんたの家は工場へ行く途中じゃったね。どうせ通りがかりじゃから、さあここへ乗っていきなさい」 朝田は窓から首を出して言った。 「…………」 彼女は微笑みながらお辞儀をしただけで躊躇した。 「なにも遠慮はいらんのだ。どうせ通りがかりじゃから、さあ遠慮することはないんだから」 「…………」 彼女はまたお辞儀をした。 「さあ、構わんからここへ乗んなさい」 「では、失礼でございますけど……」 彼女はまず自分の赤ん坊のために喜んだ。かつて自分の夫が、彼らは血も涙も持たない資財の傀儡だ! と罵倒した言葉はまったく反対な作用で彼女に働きかけていた。彼女は血も涙もある人間の前に、小さな感謝の塊になっていた。 「松島さん、あなたは、失礼な言い分かもしれないが、ひどく困っていやしないかね?」 「…………」 彼女は頷くようにお辞儀をした。 自動車は白い土埃を上げ、乾燥し切った秋の空気を切って日照りの街中を走った。 「困っているんだったら、だれかの世話になってもいい気はないかね?」 「…………」 「あんたはそれほどの美貌で、相当の教養もあって……しかし、女の人が自分一人でやっていくということはなかなか大変なことだろうからな。……あんたが再婚をしてもいい気持ちがあるのなら。それよりむしろ……」 「なにしろ、子供があったりするものですから」 彼女は、いくらか顔も赤くしていた。 「子供があったって、それは構わん。子供があるにつけても、再婚をするより、まあちゃんと一家を持たしてもらって、世話になったほうがどれほどいいかしれん」 「…………」 彼女は朝田の話を横道に逸らし得る自信を持てなかった。失礼な! 失礼な! と心の中で叫びつづけながら、彼女は黙りつづけた。 「運転手! ちょっと、江東ホテルへ回ってくれ」 「あら! そちらへお回りでございましたら、わたし、ここで失礼させていただきますわ」 彼女は驚きの目で見上げた。そこから彼女の家までは、自動車が江東ホテルまで走る時間で充分歩いていけるからだった。 「回ったってすぐだ。ちょうど北海道のある築港から、急行セメントの検査に来た技師が江東ホテルに泊まっているものだから、ちょっと寄って、一緒に行ってもらうだけのことなんで……」 「でも、わたし急いでいるのでございますから」 しかし、自動車は彼女の言葉には耳も傾けずに、人通りの少ない河岸の大道路を折れて疾走しつづけた。彼女は気が気でなくなった。熱を出している赤ん坊のことが心配で心配でたまらないのだ。しかし、それは秘密を要することだと彼女は考えた。熱を出している子供の傍から通うことが、彼らの衛生観念の許すべきところでないと思ったからだった。 「その築港の技師のことで思い出したのだが、松島さん、あんたはその人と結婚をする気はないかね? あんたがそれを承知してくれりゃ、それでセメントの調査のほうはもう問題なしじゃがなあ! 無検査で採用されるんだが!」 彼女はまた、夫が彼らを罵倒していた言葉を思い出した。恥も人情も知らない資財の傀儡! そのとおりだと彼女は思った。自分の取引きのために、他人を人身御供にするようなものではないか? そんなことを思って彼女は無理にも自動車を降りようかと考えた。 「とにかく、どうだね? その男に会って話してみる気はないかね? ついでだから」 「せっかくでございますけど、今日は急いでおりますからこのまま失礼させていただきます」 「結婚をする段になりゃ費用はむろん、全部わしのほうで出してあげるがね。……もっとも、近ごろの新しい女は堅苦しい女房よりも気楽な妾宅暮らしのほうを望んでいるそうだが……」 自動車は江東ホテルの玄関へ横に着いた。
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