坂口安吾全集 02 |
筑摩書房 |
1999(平成11)年4月20日 |
1999(平成11)年4月20日初版第1刷 |
1999(平成11)年4月20日初版第1刷 |
文学界 第三巻第一号~第三巻第三号 |
1936(昭和11)年1月1日~3月1日 |
その一 冷血漢
温い心とは何物だらう? それからまごころといふことは? 愛といふことは? 私の父は悪者ではない。それから叔父も、妹も、三人の特別の関係のある女達も。そのうへ此等の人々は私に対して危害を加へないばかりか、私の幸福を祈つたり、私が俗物ではないことを私以上に確信したり、私が私自身に対してさへ労はることを絶対に許さない苦悩に対して労はりの情をさしむけやうとしてみたり、私の愛情に依頼したり、それに裏切られた寂寥に打ち悄れたりする。やりきれないことだ。 この人達が私に向つて答へを求める権利があるといふことを、私は一応承認しやう。私は屡々形式的な返事さへ出し惜しみをする傾きがある。自分乍ら毒々しいと思ふほど、苦りきつた顔もしがちだ。按ずるに答への義務があると思へばこその話で、路傍の人に対してなら、厭な顔もみせない代りに、返事もしないで通りすぎてしまへばいいのだ。いや、それどころか、路傍の人に対しては時々ひどく親切だ。聞手の頭が痺れるほどの綿密さで、間違ひのない道順を教へるために数分の労力を費したり、右と左に別れる時には厭な思ひをさせないためにわざわざ微笑を泛べることも、その程度の無駄な厚意は齲歯が疼く時でさへ気分によつてはやりかねないのだ。私のこんな親切が自分の場合にかけられた覚えのない妹は、驚いたり疑ぐつたり自分一人の断定を下すために急いだりする。あらはに不満を表はして、私が常々肉親に対して誠実な答へと信頼が欠けてゐると難じたこともあつたのだが、陰へまはると、たとへば叔父や友人に向つて、うはべの冷酷と微笑を忘れた堅い顔はもはや性格化されたペッシミズムの結び目に当る宿命の瘤で、裹まれた心の温かさは人にも稀れであるといふ。この種類の、又この深さの解釈は屡々女性が行ひがちだ。彼女等の現実的な眼光は甚だ辛辣に扮装の下を射抜いてくるが、ある限度の深さへくると、この冷酷なまで現実的な眼光が俄かに徹底的な浪曼主義者に豹変しがちなものである。そのうへ偏見と知りつつ固執することの真剣さが、女性にあつては当然の反省すら超躍しがちだ。妹は私の秘められた思ひが人にも増して温かであると言ひふらす。生憎なことに、その解釈の感動的な快さが妹の心を虜にして、信条に近い確信にすら変つてゐるのだ。気の毒な妹よ。然しお前の考へは明らかに不遜な誤魔化しを犯してゐる。根柢的に間違ひだ。私の秘められた心は、残念乍ら温かなものではないのだ。私ですら私の心に幾度となく温かなものを誤診した、誤診しやうと努めすらした、誤診と知りつつ信じることの快さに浸り得た幼稚な然し幸福な忘れられない華やかな(ああ! 皮肉なことに、これが皮肉な用語ではない)追憶すら今も歴然と胸にあるのだ。お前の場合と事違ひ、私の場合は、呑気であつても必死であつた。肉親や人情のつながりに休む気安さはなく、あらゆる関係と存在自体の真相を摸索しつづけたつもりでさへ、誤診することの快さを逃げきることのできない時があつたのだ。私は再びそれを幸福な時代と称ばう。さて、私はこれを卒直に言ふよりほかに仕方がないが、私の心は常にただ冷酷である。ただ狡猾である。(私はしかく言ひたくない。今となつても未練がましくやがて時々は訂正もしたい。) 私は自分の行動を他によつて律せられることが厭だ。一応かういふ解釈を与へておかう。自律的な行為の限りは豚に笑顔を見せることも平気であるし(私は突然思ひ出したが、昨日の話だ、散歩の路で行き会つた山羊のメイメイの一々に、この山羊は私にひどく厚意を寄せたが、一々振向いて微笑を返さずにゐられなかつた。そればかりか、戻るに当つて、予定してゐた綺麗な路を犠牲にして、同じ野道を選ばずにゐられなくなつた。これは一つの笑ひ話にすぎないが、生憎これが年中のことだ)鴉と握手を交すことにも一向苦痛は感じないし、自尊心の傷けられた記憶もない。私は寧ろ軽い意味で愉快なのだ。かういふ私の行動が温い心の表れであるといふのなら、そして多くの人々がこの卓説に賛意を表してくれるなら、私は早速有頂天に叫んでやらう。俺こそ世界一の温い心の持ち主だぞと。呵々。私は路傍の何人とも(況んや豚に於ておや)交りを結ぶに垣根を構える卑屈な要心は用ひないが、心に染がうつるほどの交りの深さに達すると、私は突然背中を向ける習慣である。以上の話から判る通り、私は常にむらだつざわめきの中に住み、小鬼に似た孤独の眼を光らしてゐるが、私はかかる寂寥に怖れはしないと叫んでおかう。若しも人が、又父が、妹が、当然の権利のやうに私の答へを求めるなら、私は忽ち顔を顰め、心の底では癇癪に浪立ちながら叫ぶだらう。俺は孤独だ。俺のほかの誰であつても、俺の心にきいてくれるな。ほつといてくれ! 私は路傍の冷めたい人に、浮気女のそれのやうに、温い言葉を恵んでやらう。親しい人の愛の籠つた言葉には、冷めたい眼差を伏せるばかりだ。私の心は石のやうに冷めたく、さうして、ひらかないのだ。そのうへ冷静な計測器でもある。 私は路傍の豚に対して背中を向けることもできやう。親しい友達に対しても背中を向けることができやう。肉親に対しても、亦恋人に対しても背中を向けることができやう。然し同時にあらゆる人に背中を向けることができるか? 全ての甘さに頼る余地のない世界に、絶体絶命の孤独の心を横たへることができるだらうか? その予想は余りにも怖ろしい! それはこの現実に決して有り得ないばかりか、ただ予想として、可想の世界としてのみ実在もし、同時にその言語に絶した恐怖をかざして私の心に挑みかかりもするのである。悲しい哉、私の心臓はこんな架空な果の知れない恐怖に対して堪えきれるほどの強大な魔力が授けられてゐない。怖ろしい想像を弄ぶこと、それに怯えて立ちすくむことを私は避けたい。私はこの物語の中に於て、私の心を解説するのが主要な目的ではなかつたのだ。私はむしろ書きたい多くの人物と、出来事と、それの雑多な関係の中に投げ入れられた様々な物の様々な姿を見直す必要があつたのだ。私はまづ私の一人の叔父に就いて語りださう。 私の叔父(父の弟)、芹沢東洋は、日本画家として相当の盛名を博したこともある男である。このところ数年間は執拗な神経衰弱に祟られて全く絵筆を執らないが、神経衰弱の原因は御多分に洩れぬ情事問題を別として、絵画そのものに対しての本質的な疑惑、不安におちこんだことが、原因に非ず或ひは結果であるにしても、とにかく懊悩の一つの根幹をなしてゐる。懊悩の根柢をなすものの第三が私――然しこのことは改めて語り直さう。私は先づ、齢不惑を越えること七歳の中老人が、年甲斐もなく恋にやつれて、飄然と行方定めぬ一人旅に出立したといふところから、この物語りを始めやう。 考へてもみたまへ。私は中年の恋を嗤ひはしないが、青白い夢を忘れていい筈の男が、恋に狂はず、恋のもつ感傷に狂ふといふのは滑稽な話だ。正面からの体当りはどんな愚かしい場合でも嗤ふ余地はないものだが、この老書生は悲恋の古風な詩人的哀愁に酔ひ歎いて、行方定めぬ一人旅に出やうといふのだ。この男が出立に際して私に残した却々の名科白は次のやうなふるつたものだが、私は放浪にでやうと思ふと口をきるその前から、今にも涙を流しさうな悲愴な面持をしてゐたものだ。私は放浪にでやうと思ふ、と、選りに選つて臆面もなく大きな文句を言ひだしたのも話のほかだが、その次に、旅にでた一二ヶ月は便りを書く気持にもなるまいと思ふが必ず安否を気づかつてくれるなときた時には、グイと笑ひを噛み殺さずにゐられなかつた。正直のところ、若しも私がとめさへすれば、叔父は旅行を中止したかも知れなかつた。私がとめることを予期した上で、流れる感傷の快さにつひふらふらと旅にでるなぞと言ひだした、勿論私はそこまで残酷に言ひ切れないが、心に起つた実際を振返つてみると、あの場の前後の行掛り上私は一応留めねばならない義理に駆られた事実がある。然し私は、叔父の不在が私のある種の計画に願つてもない好条件を生むことになるので、いささか嘉すべき道義的な想念の萌芽を文句なしにもみつぶしてしまつたのだ。予期に違はず、早くも出発して三月目に、旅の第一信が私の机上にとどいた。叔父は上州万座といふ月並な温泉にゐたのである。 叔父の第一信を手にしてから一時間とたたないうちに、私は蕗子の訪問を受けた。まさしく玩具の人形のやうな、然し立派な肉体をもつた二十八歳のこの女は、芹沢東洋にかこはれた日陰に咲く花であつた。 叔父はその旅先から綿々たる感傷を連ねた長文の消息を蕗子へ宛てて送つたのだ。それを蕗子は叔父の書置きと誤読した。それらしい明確な文句は一つないにも拘らず。然し蕗子は叔父が旅立つ直前から、彼女と私の関係を叔父に気付かれてゐるのだと疑ぐりだしてゐたために、叔父の取り乱した焦燥や、あはただしい旅立ちが、この問題を原因にした懊悩から由来してゐると信じかけてゐたもので、年甲斐もない東洋の一様ならぬ哀調を流した告白的文章にぶつかると、超躍的な戸惑ひをしたのであつた。勿論叔父の文章も正気の沙汰ではないのである。私は笑ひたくなるよりも、腹が立つてきたのだつた。もとより正直に立腹もしてゐられない。この女の莫迦さ加減を黙過してゐなかつたら、この女の短所をおだててゐなかつたら、己れの短所に甘える余地を剥奪したら、妹をあざむくことは容易であつても、肉体を許した女を欺くことはできないのだ。 私はここで余計なことだが一言附け加へたい蛇足がある。女のちよつとした感じによつて、物腰によつて、或ひはわづかにある瞬間の表情の美に惹かれたばかりで、私は女に夢中になることができるのだ。ヤ行の稚拙な発音に不思議な魅力を覚えただけで、何の取柄もない愚劣な女に暫く惚れてゐたことがあつた。然し私は唯一の女に惚れることができないのだ。一生は愚かなこと、わづかに瞬間が二つ移動するあひだには、恐らく二人の女のために心を奪はれてゐるだらう。そのこと自体は不幸でもなく特に幸福でも有り得まいが、一人の女に惚れきれないといふことが、余りにも明確に冷血な淫慾を知ることが、時々私を不安にするといふことを諸君は信じて呉れるだらうか? 私は蕗子と別れることに古着を棄ると同じ程度の感慨すら覚えぬことを知りすぎるほど承知してゐる。一週間の、一夕の、一時間の傷心が、別れの哀れが、なんの多足になるだらうか! その容貌に、その肉体に、その魂に、全く特別の用はないばかりか、蕗子が叔父の思ひものである点からも、別れることがむしろ私に有利の事情を生むばかりだ。それから新らしい恋のためにも。しかも私がそれを敢てしないのは、そこに私の淫慾をはなれた未練と恐怖があるからである。唯一の女に惚れきれないこと、それが特に私の不幸とも思はないが、斯様に牢固たる一生の予知を持つことが、私には並々ならぬ負担の思ひが強いのである。一言にして言へば、私は、一人の女に惚れきれないと信ずるがために、あらゆる女を手離すことが怖ろしいのだ。私が蕗子を手離さぬことも全く如上の理由の通りで、ただ一人の絶対の女を求めることが絶望の限り、蕗子は蕗子としての、雌鴉は雌鴉としての他に代えられぬ一つの絶対性を持つではないか。これは至純の愛から見れば全く論議の外である。蒐集狂の一スタンプ一切手一レッテルの存在価値がどの理由から一人の蕗子に劣るであらう! 然し斯んな大まかな独断的な放言は、心の底の微細な襞を誤魔化すために振り下した切れ味の悪い斧のやうにも見えるだらう。誰の心を探つてみても、袋小路や抜道のやうな恐れや策略があるものだ、と。然し私は、とりとめもない心の話に生憎こだはつてゐられない。解説に費す百万の語も心のまことの姿から遠距かるためにしか用ひられないものである。恐らく行為が、まことに近い解釈を与へる唯一の手掛りとなるだけだらうから。私はそれを言訳にして、話を先へ進めやう。 遊ぶためにしか存在しない女、しかも決して羞しめられてはゐない女、然し又人並以上の誇りも持ち合せてはゐない女、蕗子の場合がさうであるが、こんな女は莫迦のやうにたわいはなくとも、トラムプの女王のやうなゆとりと重さはあるものだ。この女が私の住居へ華美な姿態を現はすたびに、近所の眼には、私の形がジャックに見えたに違ひない。美麗な衣裳に包まれた空虚な頭脳とぼんやり対座してゐる時に、屡々私自身すら自分が一枚のジャックにすぎないもののやうな奇妙な想念に襲はれて苦笑を洩したものであつた。 その日私は、ひとつの貴重な約束の時間を、あと二時間の後にひかえてゐた。約束の場所へ出向く時間、多少の準備、それらの空費を差引くと、残る時間は多いものではないのであつた。冷静な又狡猾な頭脳の動きも、華麗な空虚をただ追払ふことだけで、勢一杯になつたのだ。 「叔父が自殺をするだらうなんて、考へられないことだ。第一、これはハッキリ断言できることだが、私と君の問題は叔父に気付かれてはゐないのだ。然し叔父を哀れな一人旅におつぽりだしておくのが気の毒だといふ理由で、君が万座へ叔父を迎へに出向く必要があるかも知れない」と、私は一語づつ噛みわけるやうな要心をもつて言ひだした。 私は話の途中から、もはや焦燥のために坐つてゐることもできなかつた。立ち上つて壁にもたれ、衝撃のために表情を忘れた空虚な女王を見下しながら、全身の注意をあつめて力の籠つた言葉をついだ。言葉の落付きにも拘らず、私の心は動揺のために、全くうはの空であつた。 「明朝万座へ出発しなさい。女中を連れて。さうすることが必要だ。、そして、数日山の湯宿に泊るのがいい。それから叔父を同道して戻つて来たまへ。出発は朝の一番上野発。仕度を急ぐ必要がある。地図や、それから旅に必要な品物を私がこれから買ひ求めて、夜の八時に君の家で会ふことにしやう。そのとき、ゆつくり話をしやうよ」 心に衝撃を受けたことと、愛人に会へたことと、その意見をはつきり聞くことができたために、一層の疲れが蕗子の失はれた表情の中に浮きたつてゐた。それ以上の私の言葉はもはや必要ではなかつたのだ。なぜといつて、それを咀嚼する根気もなく、何よりも全く理知の必要でない状態だつた。そしてただ本能によつて、私の強い抱擁だけを求めたい熾烈な希ひを、茫漠としたその蒼ざめた表情の中に、幽かながら根かぎりの努力をもつて表はした。私は蕗子を抱擁した。それから直ちに自動車に乗ると、蕗子をその家に送りとどけ、ついで私は重要な約束を果すために踵を返して横浜へ向つた。――
芹沢東洋に三つの住所があつた。余談にわたるやうであるが、話を運ぶ都合上暫く脇道へそれて、芹沢東洋の為人に就いて若干の言葉を費す時間を与へていただきたい。 私の生家、栗谷川家は、越後平野の変哲もない水田によつて囲まれた五泉とよぶ小さな機業町に、代々機業を営んでゐた。景気不景気が同業を営む町全体に同じ浮沈を与へがちなこの町でも、栗谷川家はその代々の血管を流れる一様ならぬ投機癖のために、同じ浮沈を三倍にも五倍にも引受けるのが通例であつた。私の生家はもはや数代の昔から「ほらふきの家」と称ばれ、「山師の筋」とも称ばれ、時々は負けぎらひな「羽をむしられても喚きつづける鴉」のやうな精悍な気性を誇り得たことはあつても、むしろ概ね投機の打撃に打ちひしがれて尾羽打ちからした鴉のやうな乞食暮しをすることが多く、町民達の生きた「見せしめ」に引用されたり、笑ひ話の種になるのが普通であつた。さういふ一家の歴史の中でも芹沢東洋は特別ひどい逆境のさなかに生れた。二人兄弟の次男であつた。 十一歳の春、芹沢東洋は小学校も卒らぬうちに、縁故によつて京都のとある染物店へ丁稚奉公に送られた。 十六歳の時、主家の縁戚に当る富裕な一未亡人にその画才を認められた。爾来この婦人をパトロンヌとして専心絵の修業に没頭することとなつたのだが、今に残る噂によつても、果してその画才を認められたものか、その容貌を認められたものか、判然としないと言はれる。それからの芹沢東洋は、名声のあがるところに必ずパトロンヌと金にめぐまれ、女と金と名声は恰も三位一体のやうに彼の身辺を離れることがなかつたといふ。血気壮んな年齢に盛運を満喫したこの男は、調子に乗りながらもザジッグ的な厭世感をどうすることもできなかつた。彼はその年頃にシヨペンハウエルを最も熟読したと語つてゐる。不惑に近い齢を迎へて、最後のパトロンヌと入婿の形式をもつて結婚した。彼が芹沢姓を名乗るのは、この故にほかならない。女には先夫の子供が三人あつた。牝牛のやうに精力的で、悦楽のためにしか生きることを知らうとしない女の本能の迫力の前に、傷められ竦められた半生の姿をまざまざとかへりみながら、焦燥や怒りや悲しみを始めて痛切に感じたのだつた。女に愛された数々の記憶はあつても、心底から女を愛した覚えのない寂寥なぞも、いはば贅沢な感傷であるが、胸を流れた。それと同時に、又同様に、数々の絵を描き残しはしたが、ここに我ありと絶叫して悔ひない底の作品を嘗て物した覚えのない寂寥が、恰も女と表裏の関係をなすが如くに感傷の底につきまとひ、その焦燥や怒り寂寥悲しさを鋭いものにさせてゐた。 扨て、蕗子は芹沢東洋が自分から働きかけた始めての女であつた。蕗子の愛をかちえた時、様々の難儀の後に、たとへば蕗子の家族との錯雑を極めた折衝なぞを乗り越えて、漸く蕗子を囲ふことができたときには、それが単に一女性の愛をかちえたことではなく、絵に就いても言ふまでもなく生活の全面に於て新らたな光りと出発を獲得したのだと熱狂して人にも語り、自らも固く心に信じたのは、一時の亢奮ではあつたにしても、贋物ではないのであつた。言ふまでもなく当時の彼の一方ならぬ寂寥や怒りや焦燥や悲しさから無我夢中に飛びついた一獲物ではあつたにしても、彼の心は偽りなしに、むしろ狂的なひたむきをもつて、全面の生活が、生命力が、ここに新らたに始まるのだと意気込んだのは無理に強めた空虚なかけ声ではなかつたのだ。勿論その正体は枯草のやうなものでもあつた。半年一年とたつうちには、始めの意気込みが過重な負担に変り、やがては形を変えてのつぴきならぬ絶望にさへ変つても、然も芹沢東洋は蕗子への愛と新らたな出発への光明をあくまで信じつづけてゐたほどであつた。 芹沢東洋の囲ひ者となる時まで、蕗子は女子大学の学生であつた。生家も決して貧しくはなく、当然良家へ嫁して然るべき娘が、甘んじて不惑の書生の二号におさまるといふ異数の出来事を回想しても、私は当時の異常な情熱に燃え、熱狂に自失して最前線を疾走する傷ついた兵士のやうな猪突的な力強さで、蕗子の家族と折衝し、蕗子を励まし、又自らの妻子への自責の念と正面から戦ひぬいた叔父の姿は直ちに思ひだすことが出来るにしても、その表情と血の気の失はれた、なにやら一途に思ひつめた白痴的な、単に考へてゐる人形としか思はれない蕗子の冷めたい額付のほかには、叔父の情熱に比較しうる何等の激越な出来事も動作も蕗子に就いて思ひだすことが出来ないほどだ。この決して平凡ならぬ境遇の変化に直面しながら、蕗子の心にどのやうな思案の数々が去来したか、私の見るところをもつてすれば、私自身に手掛りの掴みやうがないばかりでなく、恐らく蕗子を除く何人にも想像の余地がないのだと言はざるを得ない。然しながら蕗子は蕗子なみの考へ方によつて、むしろ或ひは決然たる断案の示すところにもとづいて、甘んじて芹沢東洋の二号たることを選びだしたのであらう事実も、亦私はこれを否定することができないのだ。 この非凡なる凡庸婦人を相手にして全霊を傾けた愛情を捧げ、新らたなる出発の光明に向つて飛び立たうとすることは、雲峯を押し煙幕に飛びかかると同じやうに手応へがなかつたに違ひない。出来合ひの聖母マリヤか架空の佳人を守護天使にして窃かに溜息をまぎらす方が、むしろ絶望の息苦しさを多少ともまぬかれたに相違ないのだ。古風な詩的情操を多分に持ちすぎた不惑の画家は、蕗子にひそむ聖霊を信じ、それにからまる自らの新らたな光りを、然しあくまで信じつづけてゐたのだつた。地に足のない信念が知らないうちにどんな大きな心の重荷に変つてゐたか、どんな深い絶望に変つてゐたか、そしてそれがだういふ形で現れたか?――即ち芹沢東洋は突然生れて第二回目の恋をした。生憎のことには、再び私の恋人に。…… 私は先程芹沢東洋に三つの住所のあることを一言述べておいた筈だ。即ちその一つは言ふまでもなく妻子の住む本邸であり、他の一つが蕗子の住居であることも断るまでもない話として、最後の一つが特に静かな郊外に建てられたアトリヱであつた。このアトリヱには留守番の形で、私と私の妹が住んでゐたのだ。 当然本邸に附属して建てらるべきアトリヱをだうしてわざわざ遠い郊外へ運びだしたか? これには芹沢東洋の深謀遠慮と、充分の必要があるのだつた。このアトリヱは愈々蕗子が彼のものに定まつたとき、倉惶として工を急がせアラヂンの城の如くに建てられたものだ。かう言へば直ちにそれと気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのは聊か笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。芹沢東洋が第二回目の狂乱的な愛慕を寄せた伊吹山秋子は、それらの娘の一人であつた。従而、いはばアトリヱの主ともいふべき私が、伊吹山秋子と特殊な関係を生じることになつたのも、決して偶然ではなかつたのだ。 叔父が秋子にひそかな思ひを寄せはじめたことは、その時々の偽りきれない表現から、相弟子達は無論のこと、私にも分つた。その頃から叔父の生活様式が変化して、授業が終ると早速引上げる習慣の叔父が、弟子を相手にいつまでも無駄話をするやうになり、娘子軍の一隊を引率れて、散歩や映画を見廻ることが連日のことになつてきた。勿論叔父の目的が一人の秋子にあることは誰の眼にも明らかで、娘子軍の話題にもそれが公然のことになると、一大隊の連日の散歩も自然芹沢東洋と伊吹山秋子の二人をとりまくやうな形にもなり、二人の噂は東洋を知る全ての人に伝はるほどになつてゐた。私はなぜか心穏かではなかつた。 さういふ一日、その日は授業のない日であつたが、秋子がふらりとアトリヱへ現れて、昨日忘れ物をしたんだけどと言ひながら暫くアトリヱにブラブラしてゐたが、やがて私をつかまへて、丁度切符があるんだけど音楽をききに行かないかと誘ふのであつた。それが全ての始まりであつた。私の見るところをもつてすれば、彼女に寄せた私の曖昧な思慕の情をいち早く看破した秋子は、却つて私を誘惑する気持になつたものとしか思はれないのだ。いはば私は受動的な形であつたが、ひとたび秋子との恋愛に希望を持ちはじめた私は、心中顛倒する歓喜の絶頂におしあげられたことを告白しなければならない。狡智に富んだ冷血漢であることを自認する私も、その時々の恋情には忘我の狂暴な状態をもつて、喜びもし悲しみもすることがあるのであつた。秋子は然し冷静であつた。私を様々な様式で待ちくたびれさせた。私はその頃絶望に沈んだ。 私達は月に二度以上の会合を持つことが殆んど無かつた。すくなくとも秋子はそれ以上の機会を私に与へやうとしなかつた。さうして私がそれに馴れ、その上の無理を決して強要しないことを知ると、却つて驚いたほどであつた。月に二度の会合に、私達は音楽をきき、スポーツを見、展覧会をのぞいた。そんな月並な散歩のほかには、全く何事も起らなかつた。私はその頃全くそれだけの逢ふ瀬でさへ満足しきつてゐたのだ。ただ秋子に会へることだけで。話ができることだけが。肩を並べて歩けるだけで。私のそんなまるで騎士的な又子供めく思慕の至情が、そのころまでは淫婦的な気持もあつた秋子の態度を逆に改まらせることになつた。私の思ひあがつた観察であることを怖れるが、けれども私はそれを固く信じてゐるのだ。秋子は叔父との関係をひそかに反省しはじめた。その内省に苦しみはじめた。そして内省の苦しさを私に気付かせまいとするために、一層懊悩の深まることが私に分るのであつた。私に会ひたい気持が次第につのる一方には、会ふ機会を却つておくらすやうに努めた。会ふたびに次第に口数がすくなくなり、常に考へる表情になり、陽のあるうちにいつも別れを急がうとして、音楽をきいた日は音楽をきいただけで、散歩の日は散歩だけで、決してそれ以上は求める筈のない私の態度を、逆に彼女がそれを私に強ひるかのやうなきびしさを見せて、秋子はやがて私の前では高潔な娘のやうに振舞ひはじめてゐたのであつた。私の自惚れた言ひ方によれば、秋子は私の前に現れて高潔な処女に再生したのだ。 芹沢東洋の塾生の一人に、秋子とは少女の頃から友達の日下部あぐりといふ女があつた。女の友は屡々裏切るために存在するといふ一例を示すためであるかのやうに、あぐりは私と一座する機会を屡々つくつては、それとない話し方で秋子の秘密を伝へやうとするのであつた。秋子には、叔父のほかに、俳優くづれの横浜に住む峠勇といふ情人があつた。峠に関する秘話の仔細は全てあぐりの口によつて、極めて婉曲な様式で然し仔細に伝へられたもので、その話を更らに裏書きするために、あぐりは巧妙な機会を掴んで秋子の古い友達を私に紹介もしたのであつた。秋子には峠のほかに、別れた男が数名あつた。そのうへ秋子はやがて姙娠したのである。この事実を私にいちはやく伝へた者もあぐりであつたが、悲しむべきこの事実を悲しい哉やがて私も認めぬわけにいかなかつた。私は落胆もしたし、絶望もした。眠られぬ夜がその頃つづいた。私は発狂するのではないかと、おののく一夜があつたほどだ。なぜといつて、考へてみたまへ、秋子が峠の子供をみごもつた頃、已に彼女は私に対して並々ならぬ厚意を示してゐたではないか! 高潔な娘の姿を示しはじめた後ではないか! 苦しみのために、私は泣いた。 私が絶望のために四囲の正確な姿を見失つてゐるころ、秋子は然し異常な決断をもつて行動を起しはじめてゐたのであつた。みごもりながら秋子は峠と絶交した。絶交しやうと努力した。つづいて叔父に対しても冷めたく振舞ひはじめたのだ。叔父に混乱が起つたのはその時からのことだつた。さうして、混乱の中ではただ一つ研ぎ澄まされた疑心によつて、薄々は気付いてゐた私と秋子の交遊に最悪の断定を空想すると、全くもつれた紐のやうに苦しみはじめたのであつた。然し叔父の混乱に対して、意外なところからエピロオグ的な思はぬ鉄槌が落ちてきた。峠勇が突然アトリヱへ現れるといふ興味ある劇的一場景があつて、叔父の混乱に荘厳な結末――あの目当のない放浪に旅立つといふ契機を与へたのであつた。 その日は丁度授業の時で、アトリヱには娘子軍が勢揃ひもしてをり、勿論秋子も居合はした。取次に現れたのは私であつた。受取つた名刺の中の名前を読むと、私は危ふく叫びをあげるところであつた。それから改めて奇妙な来訪者を見直した私は、彼の両肩が壁のやうに岩乗に張り鼻血が流れても呻き声をたてさうにもない冷酷な敵意を感じると、ふとむらむらと顔の中央に物も言はず一撃を加へてやりたい衝動を覚えた。然しそれは余談である。私は叔父に取次いだ。ある女の一身上のことで、といふ峠の言葉を伝へることが、むしろ冷汗の流れでるほど言ひにくく、叔父に対してただ気の毒に覚えたのはどういふ理由であつたらうか? 一瞬叔父は顔色を変えたが、直ちに落付きをとりもどした。 さて、ここに一つの珍妙な寸劇を書き加へて、我々のメロドラマが実は甚だ間抜けなものであることを読者共々笑ひながら慶賀したい。この建物はホールの右側に応接室があり、左側に画室があつた。私は再び現れて応接室の扉をあけ「どうぞこちらへ」と言つた筈だが、素朴な訪客は私の言葉に一向かまはず突然私の思ひもよらない方角へ落付払つて歩いていつた。彼は画室の扉を開けた。最も陳腐な悪役の気取りを思ひ泛べていただきたい。彼は開け放した矩形の上へ立ちはだかつて画室の内部をじろじろと見廻しながら、豪放な笑皺を口べりに刻みながら、大きな声で呟いた。「フフム。これがアトリヱか。却々綺麗な女がゐるぞ……」と。 私は咄嗟にむらむらすると、背面からやにはに足払ひで蹴倒してしまふ気持になつた。然しいざその瞬間になつたところで、蹴倒した後の大袈裟な騒ぎがたまらなく惨めな自分に思はれたのだ。二三の戯画的な不快な映像が流れるうちに、はづみをつけた左足で私は自然に力一杯豪傑の片足を踏みつけてゐた。顔を歪めた豪傑に「失礼」と私は言つた。「君の行く部屋はあちらです」 豪傑は怒りのために飛びかかる力を盛りおこさうとしかけたが、弱気の男が行動的に走つた場合のひたむきな殺気を私の構えに読みとると、急にぐらりと態度を変えて、悠々と肩をゆすつて応接室へ歩いていつた。小犬にかまはない猛犬のやうに。
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