私達を追ひかけて、画室の中から一人の女のけたたましい笑ひ声が沸き走つた。私は心に「しまつた!」と叫んだことを記憶してゐる。その笑ひが豪傑の荒々しい心を呼び覚ますことを私は怖れはしなかつた。私はただこの出来事が秋子の胸を突き荒すことを悲しんだのだ。笑ひ声をきいた時、私の身体は可愛い女の苦悶の呻きをきいたやうに冷めたくなつた。然し笑ひは秋子が発したものではなく、あぐりの声であることが分つたとき、私の最大の憎しみがあぐりに向けて閃いたことも忘れられない。その笑ひをきつかけにして、秋子は一直線にアトリヱの中央を横切ると、私のうしろから応接室へ這入つてきた。芹沢東洋は一番おくれて現れた。彼はむしろ茫然とした様子だつた。なぜといつて、秋子にこんな隠れた男のあることを知らないために、始めのうちは何のことやら皆目事情を呑み込むことができなかつたであらうから。 「あたしに恥をかかすなら、一思ひに殺しなさい!」と、低い声だが力一杯の怒気を含めて秋子は言ひ放つた。泪のこみあげる気配が肩にも背にも表れてゐた。 「人前で恥をかくぐらゐなら、あたしは死ぬ方がましです!」と、秋子は泪をおさへながら怒りにふるへて言ひつづけた。 私はむしろ茫然とした。こんな時、女は一途にこんな考へを持ち、こんなことを言ふものだらうか? 私は先づかやうな疑問に打たれたことを打ち開けやう。根本的に男と違ふ生物を私は始めて見出したやうに吃驚した。秋子に惹かれる一つの理由が分つたやうな思ひもした。一つの美と一つの尊厳を感じたことも事実であるが、その反動に、秋子の怒りが悲しみが直ちに私の心となつて言ひやうもなく遥かな奥に切々と悲痛なうねりが流れたことも否定はできない。 「なんの用できたのです! このうへあたしに恥をかかすつもりなら、あたしを殺してからにして下さい!」と秋子は殆んどききとれぬ声で叱咤した。 「家内は姙娠五ヶ月で、ちよつとヒステリイ気味のやうですな」と峠は秋子にとりあはずに、煙草をゆつくり点け終つて叔父に言つた。 「秋子は僕の家内です。勿論御存じのことでしたね。いや、僕はこのうへ何も言ひたくありませんな。言ふ必要はないでせう。言ふべきことがありますかな。秋子は僕の家内です。それで、さて、それから何か言ふ必要がありましたかな?」 「君はいくら欲しいのですか?」と芹沢東洋は思ひきつた顔付で言つた。 「けだもの!」秋子は殆んど掠れた響きで呟いた。 「五千円。それくらゐのところでどうでせう? 僕は北支那方面に野心と抱負があるのですよ」 斯様な愚劣な情景に多くの頁を費すことを私は止めやう。私の目配せがなかつたら、たとひ値切りはしたところで叔父は若干の金銭を即座に渡しかねないところであつた。万事私が今後の相談にあづかる約束を結んだうへで、この豪傑は落付払つて帰つていつた。 寸劇の最後に、私の決して忘れ得ない一印象を書き洩してはならない。 豪傑を送りだして応接室へ戻つてきた私は、泥細工の達磨よろしく固まりついた叔父の姿と、壁に倚り壁に顔を押し当てて、その壁面のある一ヶ所に空しい眼と五本の指をぼんやり遊ばせてゐる秋子の姿を認めたのだ。私の戻つた気配を知ると、秋子は突然喋りだした。やつぱり壁面の薄暗らがりを凝視しながら、私達には横顔を向けて、物憂げに、然し一つの金属的な硬鋭なものを閃めかして言ひだしたのだ。 「あたしのお父さんたら、赤んぼのあたしに鬼のやうな怖い顔でおどかすことが好きだつたわ。あたし泣き叫んでいやがつたけど。……お芝居じみた荒々しい出来事なんて、ほんとは悲しくも可笑しくもありやしないわ。あたしもう子供ぢやないんだもの……」 私の胸は突然化石したやうだつた。私は今にも叫びをあげやうとしながら、怪しむやうに秋子を凝視めた。もしも叔父がゐなかつたら――然し所詮日本人の私には思ひもよらぬ表現であるが――秋子をひしと抱きしめて何事か絶叫したい思ひであつた。 私は秋子の横顔をみつめ、そのみづみづしい襟脚をむさぼるやうに眺めつづけた。その襟脚は冷めたい小さな花びらのやうに私に見えた。腐つた肉。どうして女の肉体は時々救はれたやうに見えるのだらう? 私は心に呟いた。腐つた肉が腐らない肉よりも純潔に見え高貴に見えるのはどういふわけだ! さういふ事実にでつくはすたびに俺の心はひやひやする。その魔力が俺に苦手だ! 泥沼の中にだけ宝石は隠されてゐるといふ事実ほど俺の心を易々ひきづりこむ魔力はほかにない。それでいいのかと思ふたびに、俺はひつくりかへるほど吃驚してぞッとするのだ。女の頭に薔薇の花をかざすことが俺はきらひだ。俺は女に鞭をふりあげ、血みどろの身体をひきづる方が好きなのだ。そのくせ薔薇の花を見るたびに、一時に冷え、竦む心を痛烈に感じてしまふのはどういふ理由だ?―― 私は秋子の襟脚を茫然と凝視めるうちに、劣情が地獄のやうな紅に燃えひらめいてゐることに気付きながら我に返つた。狂ひたつ劣情の下積みの部分に、もはや私には判別のつかない様々の考へが意志が流れどよめき、こんぐらがつてゐるやうすだ。痺れるやうな重さだけが分るのであつた。私はほッと息をして叔父を探した。そして叔父を食ひ入るやうにみつめながら私は突然口走りはじめた。 「あんな愚劣なよた者に今後絶対に喙を容れさせない解決法が一つあります――」私は言葉の途中から自分の喋つてゐることが殆んど分らない状態だつた。「僕と秋子さんと結婚することにするのです。フィアンセだ。あいつが横から喙を容れる権利はもはや絶対にありやしない……」 叔父は化石して私をみつめた。 「フィアンセといふ体裁にするだけの話ですよ」私は苦笑した。「あいつが引込んだらフィアンセの方も解消さ。そんな余興でもしなかつたら、貴方の代理で、一々あんな奴と莫迦真面目に取引してゐられますか!」 言葉の調子と一緒に、なぜか不思議な莫迦々々しさが全身の張力を抜きとるやうにこみあげてきた。突然私の喉をつきあげて、莫迦笑ひがこみあげてきた。 「みんな余興だ。ワハヽヽヽヽ」 私はバタンと扉をしめて、庭の芝生を横切ると、武蔵野の森をめざして散歩のために走りでた。
その夜であつた。叔父は再びアトリヱを訪れ、そして放浪に旅立つことを言ひだしたのだ。 ここで私は、私の心に起つた不可解な変化に就いて一言しなければならない。私は武蔵野を散歩しながら、もはや人々の立ち去つたアトリヱへ戻つて、物憂い白昼をすごしながら、静かな夜をむかへながら、私の決意は然し激浪の荒々しさで秋子と私との結婚の事を追ひまはしてゐた。その一事のみを熱のこもつた痺れる頭で追ひつづけてゐたのであつた。その時の心事を一言にして言へば、私はもはや秋子なしには生きられない思ひがしたのだ。然るに叔父の訪問を受け、対談の時をすごすうちに、話が愈々秋子のことに移つた頃には、私は秋子を一途に憎み蔑んでゐる自分の心を明確に意識した。この激変には一切の理由づけが無役に見える。私に分つた唯一のことは、理性では如何とも制しきれない根強い感情の波が、ひたむきに秋子を卑しみ蔑んでゐたこと、それのみであつたのだ。結婚の意志が失はれたのは愚かなこと、秋子の肉体があの時間から淫売婦の肉体に思はれたといへば、その蔑みの激しさは他言を費す要もあるまい。試みにあの夜の出来事を思ひだしながら書いてみやう。 叔父は私の顔を見ると、いきなり放浪に旅立つことを喚きはじめた。その話の内容から一々の効果まであまりに計算し心に期しすぎたがために、さながら喚くといふ慌ただしい感じによつて語りだしたが、実際の態度はむしろ幾分粛然と気取りすぎた感さへある静かさであつた。その話に対しては、私に返答の余地さへ見当らないかの宛然独壇場の有様であつた。つづいて、私にそれと分る沈黙の瞬間をおいて、秋子のことを語りだした。 「私はお前とあの人の恋に気付かないわけではなかつたのだ」 と、叔父は私がむしろ反感を催すほど、空々しい何気なさで言ひだしたのだ。私は叔父のその態度に突然硬直するほどの立腹を覚えたことも忘れられない。私は侮辱を受けたかの飛びあがるやうな衝動すら覚えた。 「気付かないどころではなく、長らく嫉妬に悩まされてゐたほどだつた――」 と叔父はつづけた。その告白的な態度を見ると、私の苛立ちは忽ちその絶頂に達し、私の唇は顫え、拳を握りしめずにゐられなかつた。叔父は然し私の亢奮には全く気付かず、言葉をつづけた。 「この年になつて漸く私にはつきり呑みこめたことが何だと思ふ? 愛慾だ。女だ。さうさ、この年齢で醜悪な執着と思ふだらうが、私は始めて恋情が私の生活の全てであることが分つたのだ。私はただ恋によつて生きてゐる。そのことを疑ふことは出来ないのだ。そのほかにも何かがある、仕事がある、義務がある、なにか悠久な感動がある。然し女が第一だ。私は理窟なしに断言する。私の心をもみくちやに踏みにじる恋情に縋りついてゐなかつたら、私は到底生き永らへてゐられないのだ。然し私はあの人を諦らめやうと思つた。諦らめることも、私のいはゆる恋情のうちの一つなのだ。私を生き永らへしめる恋は、恋をかちえることその一つではない。恋を失ふことも、私を生かす恋情の一つなのだ」 私はもはや我慢がならなかつた。 「生憎僕はあの人が嫌ひです!」 と、突然私は確信に満ちて言葉をはさんだ。私は実際のところ、自分のこの咄嗟の牢固たる確信には驚きもしたし、尚甚しきに至つては、頼もしくも思つたほどの状態だつた。 「余興だと言つた言葉は伊達の科白ぢやないのです。考へてごらんなさい。どこの馬の骨だか分らない醜怪な男の腹の下で散々玩具になつた女を、世界に一人の女のやうに女房にできますか! 僕は口程もない弱虫なんです。僕一人のことだけでさへ大変な重荷だ! まして連れ添ふ女の重荷まで背負ひこむなんて――」 丁度画室のマントルピースに載せてあつた置時計、それはアトラスが時計を支へる恰好に出来てゐたが、私はその置時計を指して急にゲタゲタ笑ひはじめた。痺れるやうな笑ひのほかには全く言葉がでなかつた。諸君はこんな幻覚に興味を持てないに相違ない。然し私はゲタゲタ笑ひながら、時計を背負つたアトラスがうんとこどつこい肩を入れ換へた動作を認めた。まるで皺のやうなクチャクチャな笑ひの中にたたみ込まれた動作であつたが、私はそれを確かに認めたのであつた。 ――あいつ、足を蚊にくはれたな! 私はかう解釈すると、笑ひながら、なほゲタゲタと大笑した。全ては有り得べからざる出来事であつたが、この哄笑の瞬間にはこのことのみがパノラマのやうに有り得たのである。私は古くから、この置時計のアトラスに刻まれた放心したもののやうなグロテスクに固まりついた疲労の表情が嫌ひであつた。 「あれです! あれです! 私が一番きらひな醜怪な形は!」 と、私は程経て漸く叫んだ。 「私はお前のポーズをきいてゐないのだ。私は打開けて語るべきではないことを、ひとりその悲しさに堪えなければならないことを、さらけだして見せてゐるのだ」 叔父の顔は蒼白だつた。なじりながら叔父の頬は顫えたが、私は然し冷然と見流してゐた。 「私は極めて卑近な、実際的な憎悪に就いて、偽りのない感想を述べてゐるのです。結果に於て肉体には理窟のあつた例しがないにも拘らず、我々の過去が単に後悔するために如何に架空な、然し高遠らしく見えるところの理窟をもてあそんだか、といふことを、私の若い経験ですら知つてゐるからです」 「いいや、お前はもつと純粋な魂をもつてゐる筈だ! 少年の叡智をまだ失つてはゐない筈だ! 私は知つてゐる! お前は墓をあばいて屍肉を姦すことはあつても、一本の野花を手折ることでも怖れと悲しみを感じる時がある筈だ!」 熱狂して喚く叔父の様子は、その動作表情を一途に圧し殺してゐた殆んどアラーを祈る回教徒の激しい身振りを見ることと同じ印象を私に与へた。すると彼は突然ワーと泣きだした。急に四囲が静まりかへつて、彼の破れさうな泣き音が、私には異様な怪獣の咆哮としか思へなかつたが、いや増しにガンガン室内にふくれあがつてきたのである。エエ畜生め! と私は思はず心に怒鳴つた。この年老いた怪獣は到頭涙にまで偽られてゐるのだな、と。 芹沢東洋は最も急がしい動作で、泣きぢやくりながら、室内をうろつきはじめた。帽子をとるために、包みを探すために。それから扉の外へころがるやうに走りでた。私は扉の外へ追つかけて出たが、彼はあはただしく下駄を突つかけ、一度今にも転びさうな間違ひをしたが、杖を拾つて闇の奥へ消え去つた。私は見送りながら舌打ちをした。私はいはれなく泣き喚く一人の子供に立ち去られたあとのあの謹厳なる憎悪のみを懐いたのである。 妹がとびだしてきた。私に食ひつきさうな顔付で。――然しこの話はもう止さう。こんな時、ほかの親しい人達の顔を見ることは、思ひだすことすら、いはれなく苦痛だ。私はやがてアトリヱへ戻つてきて、一人になつた。私は大切な考へごとがあつたのだ。 私は言ひ洩らしたが、叔父は私に二千円の金を渡していつたのだ。午前訪れた豪傑に支払ふための金であつた。生憎豪傑には悪党の凄味も新鮮味もなかつた。私は豪傑を見くびつてゐたし、幸か不幸か昨今の精神状態が何事よりもむしろ人殺しに適当な荒つぽさであつたので、一文の金も支払はずに見ん事豪傑を撃退する確信があつた。一文の金も要る筈がないと私は一応断言したが、金銭よりも煩らはしさに厭気がさしたに相違なく、種々な理由で白熱的な棄鉢気味にむしろ快く溺れたらしい叔父は、その意味では豪傑も恐喝も眼中にない様子で、二千円には鼻もひつかけない冷然たる挨拶だつた。 そこで二千円の札束を私の懐に収めた瞬間からのことである。私の頭に突然思ひがけない想念の塊りが飛びこんできたのだ。それから叔父と対座した長丁場の二六時中、怪獣が泣き喚いた賑やかな時間でさへ、この黒々とした想念の雲は、私の脳漿にからみついて離れない。私が放心しても生きてゐる、さういふねぢくれた状態であつた。 その想念とは?――夢の中では時々こうした思ひがけない想念を糞真面目に思ひついたり追求したり実行したりしてゐるものだが、現実では殆んど経験しないことだ。例へば諸君も記憶があらうが、かりに我々が十年一日の如く海を渡る船乗りであるとして、山のことには一向に不案内であるばかりか、山に対して微塵の野心も希望も持てない人間とする。ところが我々の夢の中では、我々が嘗て夢想だに及ばなかつたダムの設計技師と変つて、希望と勇気の全てのものを山岳と科学に打ちこんでゐたりする。夢の中の設計技師は自分の職業を疑ぐりもしないし、自分の仕事と希望に対して絶対の信念を懐いてゐたりするものだ。――私の想念が、現実に於て、この場合を再現したのだ。その想念とは二千円の使途に関することであつた。二千円を受けとることになつたのが思ひがけない出来事にしても、突然沸き起つた想念は、これは又決して他の如何なる正常な又異常な状態に於ても、単に奇妙な、気まぐれな思ひつきとして以外には再び有り得ないことに見えた。私は全く吃驚した。あまりのことに、ひやりとした。しかもこの唐突極まる想念が、決して一時の気まぐれな思ひつきで終りさうな様子がなく、私の頭に黒雲のやうな次第にふくれる広がりを持ちはじめていつかな離れる模様も見えないことを知つては、手をつかねて茫然と呆れるほかに仕方がなかつた。 叔父の後姿を見送り、食つてかかる妹をふりはなして一人アトリヱに閉ぢこもつてみると、全てはハッキリしたやうに見えた。なぜといつて、私はもはやこの想念に抵抗できない状態であつた。この想念は已にしつかりした決意の形に変つて、単にその実行を残すばかりの牢固たるものにかたまる一方であつたから、私はもはや引きずられるほかに方法のない形であつた。 ――してみると……私は思つた。 ――ああ、夢を見る少年のやうな気持がするぞ。してみると、私のひとつの本心が、こんなところにも在つたのか! それにしても、どの奥深い襞の中に今まで隠れてゐたのだらう! どうにも遠い夢のやうな気持がするが…… 私は実際この想念がさては私の本心だつたかと一時改めて考へてみたりしたのだつた。さう思ふほかに、あの時としては恰好のつかない状態でもあつた。私は夜もすがらまんぢりともせず、この想念の実行に頭をめぐらしはじめたのだ。 そこでこの思ひがけない想念とは?……私は暫くそれを言ふまい。私に対してそれが唐突であつたやうに、敢て読者にも唐突たらしめやうとするわけではないが、実は私の全く一片の気まぐれな悪戯心から、愈々私が二千円を投げだす時まで、この説明を一時あづかることとする。幸ひに諒されよ。
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