筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集 |
筑摩書房 |
1978(昭和53)年1月15日 |
1984(昭和59)年10月1日初版第3刷 |
千鍾の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし啄が機に違へば、何も彼もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚ぶわけでは無いが、嚢を括れば咎無しといふのは古からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏でも吐出した方が洒落てゐるらしい。何かの因果で、宿債未だ了せずとやらでもある、か毛武総常の水の上に度遊んだ篷底の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔猶残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人の勝手で、刀根の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題。 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武天皇の後胤に鎮守府将軍良将が子、相馬の小次郎将門なれ、承平天慶のむかしの恨み、利根の川水日夜に流れて滔汨千古経れども未だ一念の痕を洗はねば、に欝懐の委曲を語りて、修羅の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者に扱はれてゐるが、ほんとに悪むべき窺の心をいだいたものであらうか。それとも勢に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰つて天を拍つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢てしないで、いきなり幸島の偽闕、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀つて、隠然として其の所謂天位の覬覦者たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑何に胚胎してゐるのであらうか、又抑何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇慓悍をしのぶためのみならば、然程にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。 心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造し出すに至つては、愈以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠ると、将門が在京の日に比叡の山頂に藤原純友と共に立つて皇居を俯瞰して、我は王族なり、当に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚の項羽や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫応に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原在衡を侍読として始めて読まれ、前帝醍醐天皇様は三善清行を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博く采ることはこれ有り、精しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田鷹洲などは頭から叡山上の談を受取らない。清宮秀堅も受取らない。秀堅は鷹洲のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟之性を以て、豕蛇の勢に乗じ、肆然として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄ほとんど桓玄司馬倫の為に類す、宜なるかな踵を回さずして誅に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐たらんことを求めて得ず、憤を懐いて郷に帰り、遂に禍を首むるのみ、後に興世を得て始めて僣称す。猶源頼朝の蛭が島に在りしや、僅に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘みしが如き也、正統記大鏡等、蓋し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採らず」と云つてゐる。此言は心裏を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦中ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双鵬を貫いてゐる。宮本仲笏は、扶桑略記に「純友遙に将門謀反之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾国香や前常陸大掾源護一族と闘つたことから引つゞいて、終に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随つて叡山瞰京の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙に覬覦の心を懐いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。 将門が検非違使の佐たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離れて居て、提燈と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気勃たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。 将門謀反の初発心の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫に薨ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声をあげたのである。抑醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上に貴冑の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣を纏ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗い衣を纏ひい詞を使ひ、面白くなく、鄙しく、行詰つた、凄じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子や鬼同丸のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警めしめられ、其三年には上野に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守伴忠行は盗の為に殺され、其前後博奕大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守の藤原辰忠を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前の武蔵の権介源任が府舎を焼き官物を掠め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆一揆や騒擾の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶巫覡で、扶桑略記だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程厭はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡の本宮の徒と山科の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做してゐる者も多いことであるが、少し料簡のある者から睨んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓して一挙して太宰府を陥れた。苟も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時崛強の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯して生白い公卿の下に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
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