将門
謹み
言す。
貴誨を
蒙らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、
造次に
何でか
言さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源
ノ護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、
然として道に上り、
祗候するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に
霑ひぬ。
仍つて早く返し
遣る者なりとなれば、
旧堵に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を
綬くして安居しぬ。」然る間に
前下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ
能はざるの間、良兼の為に人物を
殺損奪掠せらるゝの
由は、
具さに下総国の
解文に注し、官に
言上しぬ、
爰に朝家諸国に
勢を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され
了んぬ。
而るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を
具して言上し了んぬ。未だ報裁を
蒙らず、
欝包の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に
到りぬ。
仍つて国内
頻りに将門に
牒述す。
件の貞盛は、追捕を免れて
跼蹐として道に上れる者也、公家は
須らく捕へて其の由を
糺さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も
矯飾せらるゝ也。」又
右少弁源相職朝臣仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの
比ほひ、
常陸介藤原維幾
朝臣の息男為憲、
偏に公威を仮りて、ただ
寃枉を好む。
爰に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、
恣に兵庫の
器仗戎具並びに
楯等を出して戦を
挑む。
是に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数
幾許なるを知らず、
況んや存命の
黎庶は、
尽く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの
由は、伏して過状を弁じ
了んぬ。将門本意にあらずと
雖も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を
候ふの間、しばらく坂東の諸国を
虜掠し了んぬ。」伏して
昭穆を案ずるに、将門は已に
栢原帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、
豈非運と
謂はんや。昔兵威を
振ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ
既に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に
比ばんや。而るに公家褒賞の由
无く、
屡譴責の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て
幸なり。」
抑将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。
相国摂政の世に
意はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに
勝ゆ
可からず。将門傾国の
謀を
萌すと
雖、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を
貫く。将門謹言。
天慶二年十二月十五
謹
上 太政大殿少将閣賀恩下