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平将門(たいらのまさかど)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:59:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 此の仕掛花火しかけはなびは唯[#「唯」はママ]が製造したか知らぬが、蓋し興世玄明のやからだらう。理屈はもあれ景気の好い面白い花火があがれば群衆は喝采かつさいするものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗てんぐの所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥むくどりだのからすだのにしんだのの如きものの好んで為すところで、群衆につて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者けふしやは同行する、創作者は独自で模倣者もはうしやは群集、智者は※(二の字点、1-2-22)れう/\、愚者は多※(二の字点、1-2-22)であつて、群衆して居るといへばすでにそれは弱小蠢愚しゆんぐの者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理はすなはち衆愚心理なのであるから、皆自から主たるあたはざるほどの者共が、相率あひひきゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動をあへてしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野内匠頭たくみのかみの家はつぶされ城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者はつひに何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処どこかへ行つてしまふのがかへつて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄かんゆう煽動家せんどうかである。八幡大菩薩はちまんだいぼさつの御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶によろこんだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)ゑんたうに持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。
 道真公が此処こゝ陪賓ばいひんとして引張り出されたのも面白い。公の貶謫へんたくと死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威をりたなどは一寸ちよつとをかしい。たゞ将門が菅公薨去こうきよの年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡ふげきの徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふきことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷きたうをした叡山えいざん明達めいたつ阿闍梨あじやりの如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記ふさうりやくきに見えてゐるが、これなぞは随分変挺へんてこな御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だかつて無い大動揺が火の如くに起つて、またゝく間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲せきけんしたのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様かやうなことを口走つたかとも思はれる。しからずば、一時の賞賜しやうしを得ようとして、斯様なことを妄言まうげんするに至つたのかも知れない。
 田原藤太が将門を訪ふたはなしは、此の前後の事であらう。秀郷ひでさと下野掾しもつけのじようで、六位に過ぎぬ。左大臣魚名うをなの後で、地方に蟠踞ばんきよして威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流はいるされたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有かねあり高郷たかさと興貞おきさだ等十八人とあるから、何か可なりの事件にもとづいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力をあはせてた事だらう。何にしても前科者だ、一筋ひとすぢで行く男では無い。将門を訪ふたはなしは、時代ちがひの吾妻鏡あづまかゞみの治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、いつはりて門客に列すきのよしを称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、くしけづるところの髪ををはらず、即ち烏帽子に引入れて之にえつす。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰ちゆうばつきのおもむきを存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※(二の字点、1-2-22)」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひてかくといふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分しからぬ料簡方れうけんかたの男で、興世王の事をさずして終つたが、興世王の心をいだいてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡をれば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へればにくむべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云※(二の字点、1-2-22)」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営にいたりて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門のいきほひ浩大かうだいで、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖せきくわくの一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門のもとふたといふのであるから、とがむべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴ちはるは、安和年中、たちばなの繁延しげのぶ連茂れんもと廃立をはかるに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、はゞかるべきことだ、田原藤太をひて、何方どちらけようかと考へた博奕ばくちうちにするには当らない。
 将門にひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりはくしの歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕きやうがくと憂慮と、応変の処置の手配てくばりとに沸立わきたつた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。
 将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔まんかう欝気うつきべ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲ゐきよくを尽してゐる中に手強いところがあつて中※(二の字点、1-2-22)面白い。

将門つゝしまをす。貴誨きくわいかうむらずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次ざうじいかでかまをさん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、※(「公/心」、第3水準1-84-41)しようぜんとして道に上り、祗候しこうするの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢にうるほひぬ。つて早く返しる者なりとなれば、旧堵きうとに帰着し、兵事を忘却し、弓弦をゆるくして安居しぬ。」然る間にさきの下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐあたはざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠さつそんだつりやくせらるゝのよしは、つぶさに下総国の解文げもんに注し、官に言上ごんじやうしぬ、こゝに朝家諸国にせいを合して良兼等を追捕す可きの官符を下されをはんぬ。しかるに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由をして言上し了んぬ。未だ報裁をかうむらず、欝包うつはうの際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国にいたりぬ。つて国内しきりに将門に牒述てふじゆつす。くだんの貞盛は、追捕を免れて跼蹐きよくせきとして道に上れる者也、公家はすべからく捕へて其の由をたゞさるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾けうしよくせらるゝ也。」又右少弁うせうべん源相職朝臣みなもとすけときのあそん仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つのころほひ、常陸介ひたちのすけ藤原維幾朝臣あそんの息男為憲、ひとへに公威を仮りて、ただ寃枉ゑんわうを好む。こゝに将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、ほしいまゝに兵庫の器仗戎具きぢやうじゆうぐ並びにたて等を出して戦をいどむ。こゝに於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数幾許いくばくなるを知らず、いはんや存命の黎庶れいしよは、こと/″\く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしのよしは、伏して過状を弁じをはんぬ。将門本意にあらずといへども、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議をうかゞふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠りよりやくし了んぬ。」伏して昭穆せうぼくを案ずるに、将門は已に栢原かしはばら帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、あに非運とはんや。昔兵威をふるひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところすでに武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門におよばんや。而るに公家褒賞の由く、しば/″\譴責けんせきの符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以てさいはひなり。」そも/\将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政しやうこくせつしようの世におもはざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふにからず。将門傾国のはかりごときざすといへども、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万をつらぬく。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
      謹※(二の字点、1-2-22)上 太政大殿少将閣賀恩下

 此状で見ると将門が申訳まをしわけの為に京に上つた後、郷にかへつておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦をゆるくして安居す」といふ語に明らかにあらはれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれてひどい目につたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。しかるに将門はおほやけの手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦ふくしゆうせんを試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事がんだのを見て、勘忍かんにんならずと常陸ひたちへ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山つくばさんへ籠つたのは、丁度将門が前に良兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛はらたちまぎれに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文げぶんを上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾ふんきうして分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴ぢきそして頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これできはめてあざやかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、おほやけに於て取押へて糺問きうもんさるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとはしからぬ矯飾けうしよくであると突撥つつぱねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものをとらへんとするものを、寃枉ゑんわうを好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、けだし事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨※(「りっしんべん+非」、第4水準2-12-50)こんひと自暴の気味とがあるが、然し天位を何様どうしようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつてもいではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛すきである。
 将門はいやな浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのをいさめて、帝王の業は智慧ちゑ力量の致すべきでは無い、蒼天さうてんもしみせずんば智力また何をかさん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様かういふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡ゆげのだうきやうの一類には玄賓僧都げんぴんそうづがあり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様どうも戯曲には真の歴史は無いが、歴史にはかへつて好い戯曲がある。将門の家隷けらい伊和員経いわのかずつねといふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕うたんだといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭せうとうらんとうあるのみだ。「とゞの詰りは真白まつしろな灰」になつて何も浮世のらちが明くのである。「上戸じやうこも死ねば下戸も死ぬ風邪かぜ」で、毒酒のうまさに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓たいすゐりんり島広山しまひろやまに打倒れゝば、「番茶にんで世を軽う視る」といつた調子の洒落しやれた将平も何様どうなつたか分らない。四角なかに、円い蟹、「生きて居る間のおの/\のなり」を果敢はかなく浪の来ぬ間のすなあとつけたまでだ。
 将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出していさめ、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目ぢもくが行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈※(二の字点、1-2-22)はづんで来た。下総の亭南ていなみ、今の岡田の国生くにふ村あたりが都になる訳で、今の葛飾かつしかの柳橋か否か疑はしいが※(「木+義」、第3水準1-86-23)ふなばしといふところを京の山崎になぞらへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことはおびたゞしい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿らくはくくげ、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁汲安くみやすなどと威張り出す、出入の大工が木工頭もくのかみ、お針の亭主が縫殿頭ぬひのかみ山井庸仙やまゐようせん老が典薬頭、売卜の岩洲友当いはずともあて陰陽おんやう博士はかせになるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童きやうわらべが云つたらしい珍談が残つてゐる。
 上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄※(二の字点、1-2-22)かつ/\大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者のはなしも残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服えつぷくして居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様どんな新政が頭上づじやうに輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様どうだらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落おひおとされ、新軍はいきほひを得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷うすひ、相模は箱根足柄あしがらが自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州秦野はたのあたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原れうげんいきほひ、八ヶ国は瞬間にして馬蹄ばていの下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯華奢くわしや風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二単衣ひとへでぞべら/\した女どもと、恋歌こひかや遊芸に身のあぶらを燃して居た雲雀骨ひばりぼね弱公卿よわくげ共との天下であつて、日本各時代の中でも余りよろしく無く、美なること冠玉の如くにして中むなしきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにももろく西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然クビライが少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨へいげいしてウムとこらへたものは公卿どもには無くつて、かへつて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒つとに蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝があごで六十余州を指揮しきする種子たねがもうかれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれないはるかに前に、気運のすで京畿けいきに衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面涅歯でつしの公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時いつの間にか、「だんまり虫が壁をとほす」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公ほとゝぎす待つ」其間におとなしくどし/\と鋤鍬すきくはを動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱苟安こうあんで下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた/\となつて、京では七斛余こくよ芥子けしを調伏祈祷の護摩ごまいて、将門の頓死屯滅とんしとんめつを祈らせたと云伝いひつたへられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七こくの芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐のゆるみ加減も随分太甚はなはだしい。

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