(七)結語
大師入唐の事蹟は略述べ盡したから、最早この講演を終らうと思ふ。私の講演は事實の羅列が多くて、無味乾燥なるに加へて、肝心の辯舌が不達者なる爲、定めて聽衆諸君に多大の迷惑をかけたことと、この點に就いては、衷心より陳謝申上げる。講演を終るに際して、その結論として、左の二項を申添へて置きたい。それが多少なりとも諸君に裨益を與へ、發憤を促がすことあれば、それだけでも私の講演が無意味でなかつた筈と、自身滿足いたす次第である。 ()當時の入唐留學は、想像以上に危險困難であつた。身命を擲つ大覺悟がなくては、支那に出掛けることが出來ぬ。かかる危險困難を物ともせず、陸續入唐した當時の僧侶の勇氣の大なる、信念の篤き、千歳の下猶ほ後人を感憤せしむるに十分である。私は今囘の講演を機會に、大師は申す迄もなく、大師の前後に入唐した我が國の僧侶の傳記をも、一應調査したが、此等の人々が、求法の爲に千辛萬苦を嘗められた當時を追憶する毎に、幾度となく不覺の涙を禁ずることが出來なかつた。此等の人々の入唐は、名譽の爲でもなく、利慾の爲でもなく、全く純粹なる信仰の爲である。 大師の後ち五十年許りを經て、清和天皇の御世に、總持院の濟詮といふ當時相當高名の僧侶が、入唐の志を懷き、智證大師に面謁して、彼國の風俗を問ひ、併せて支那語の教授を請はんとしたが、智證大師は相手にせぬ。默然一無レ所レ對といふ程の冷遇を示したから、濟詮は不平滿々として辭し去つた。智證大師はその弟子に向ひ、濟詮は才辯はあるが信念が薄い。彼は信仰の爲に入唐するのでなく、名聞の爲に入唐するのである。名聞の爲に入唐せんなどは、以ての外の心違ひであると訓戒されたといふ。誠に當時入唐求法の僧侶の大多數は、智證大師の申された如く、名聞利慾を超脱した、燃ゆるが如き信仰をもつて居つた。僧侶にかかる信仰あつたればこそ、佛法も興隆した譯である。 支那に於ける佛教の歴史を見渡しても、佛法の興隆と、僧侶の入竺求法とは、略一致して居る。數多き入竺求法の僧侶の中には、法顯や玄奘がある。法顯・玄奘の紀行や傳記は、七八十年も以前から西洋に翻譯されて居るが、此等の傳記を讀んだ彼地の一學者は、非常に感動して、次の如き告白をして居る。我々西洋人が東洋人を異端として排斥し、宗教的信仰心なきが如く輕侮するが、こは確に間違ひといはねばならぬ。法顯や玄奘の傳記を讀めば、誰人も彼等の燃るが如き信仰心に感動されない者はなからう。東洋人にもかかる美はしい信仰心存する以上、我々は決して彼等を輕侮すべきでないと告白して居る。我が入唐求法の僧侶の傳記も、法顯・玄奘のそれと同樣、一つの教訓書と認めても何等差支がない。今日宗教界の人々が、よく此等の傳記を反復翫味して、宗祖高僧の心を心とせられたならば、我が佛教の前途洋々たるべきこと疑を容れぬと思ふ。 ()當時入唐した我が國の僧侶は、一般に支那の僧侶から好遇を受けた。大師が長安に於て、惠果阿闍梨や般若三藏から、甘露を仰いだ次第は、已に申述べて置いた。慈覺大師でも、智證大師でも、その他の入唐僧侶でも、或は長安に於て、或は北支那の五台山に於て、或は南支那の天台山等に於て、支那の大徳から多大の利益を受けて居る。此等支那の大徳は、そのあらゆる蘊蓄を傾けて、海外の求法者を啓沃した。我が入唐僧侶の天分の卓越せることを認むると同時に、支那僧侶の好意をも忘るべきでない。ただに宗界に限らず、俗界の官民ともに、我が入唐僧侶に對して、手厚い保護世話を加へて居る。 一體我が國は過去千幾百年に亙つて、久しい間、學問といはず、藝術といはず、宗教といはず、一切の文化を支那より承け繼いだ。就中佛教方面に於て、尤も大なる裨益を受けて居る。學問や藝術の爲よりも、宗教の爲に入唐入宋した人數の多いのを見ても、容易にこの事情が理會される。この長年月に亙つて受けた恩徳は、何日かは必ず返報せなければならぬ。 日清戰役以後、流石に因循姑息な支那國民の間にも、變法自強の聲が高まり、一切の革新は日本を手本とすることとなつた。制度・文物・學問・教育等、皆日本のそれを模倣する。たとひ歐米の文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用する方が、歐米から直接輸入するより、危險が少くて便宜が多いといふので、夥多の留學生を我が國に送り、又我が國から幾多の教習を迎へた。一時我が國へ來た支那留學生の數は萬を越え、彼國に招聘された日本教習の數は五百以上にも及んだ。光緒三十一年(明治三十八)六月に、署兩江總督周馥から外務省への上申書に、
比年以來、學堂諸生、願レ師二日本一。游學諸生、願レ留二日本一。兵操則思レ改二日本一、語言則樂レ效二日本一。
とある通り、官民ともに日本でなければ、夜も晝も開けぬといふ状態であつた。 漢字すら日本から逆輸入した熟字が歡迎される。團體・運動・目的・代表・犧牲・社會・舞臺・組織・機關等の文字は、今日支那の新聞雜誌上に散見して居るが、此等の熟字は何れも日清戰役後に、日本から輸入されたものである。それはまだよい。支那人の中には、更に進んで株式・手形・組合・手續・取締・黒幕等の恐れ入つた熟字までも、歡迎使用するのである。 變つた方面では、日本から大和魂までも、支那に輸出して居る。往古日本が盛に支那の文化を輸入した時代でも、和魂漢才と申して、國魂だけは決して支那の厄介にならなかつたが、支那ではその國魂までも、日本から輸入して居る。支那の先覺者の中には、日本の國運の振興したのは、大和魂の御蔭である。支那の國勢不振は、中國魂なきによる。支那の急務は中國魂を製造するに在りと絶叫した者もある。國魂とか國粹とかいふ熟字も、皆日本から輸入した新熟字たること申す迄もない。 要するに六朝・隋・唐以來、千五百年に亙つて、我が國は絶えず支那の文化を借り受けたが、日清戰役後二十年の間に、國魂の如き立派な利子まで添へて、その借債を返還した。唯一の未拂として殘つて居るのが、宗教だけである。我が國の佛教が、過去に於て支那から大なる借債を負ひながら、今日まで借金をその儘に、支拂はずに棄て置くのは、何としても不都合と申す外ない。是非日本より佛教を支那に逆輸入して、往時の負債を辨償せなければならぬ。日本の佛教を支那に傳播することは、單に消極的に、過去の返禮を果たすといふに止らず、積極的に兩國の親睦を圖り、世界の平和を進める爲にも必要と思ふ。日支兩國はいはゆる輔車唇齒の關係に在りながら、最近の如く兩國民の感情離し、意思干格すること多いのは、甚だ遺憾に堪へぬ。若し佛教といふ連鎖によつて、兩國民の融合を圖れば、幾分この禍根を緩和し得る筈である。 成る程支那に於ける、日本の布教權が未だ確立して居らぬから、多少の不便ないでもない。されど之は早晩解決されようし、また解決せなければならぬ問題で、さほど懸念するに足らぬ。懸念すべきはむしろ日本僧侶の決心いかんに在る。日本の僧侶に、三億の支那國民を感化するだけの、勇氣と眞心とをもつて居るや否やが、第一の懸念であらねばならぬ。明治九年に小栗栖香頂師が、上海に布教に出掛けた時、當時の東本願寺の巖如上人は、
日の本の光と共に我が法の教へ隈なくかがやかせかし。
といふ歌一首を詠まれたといふが、その後五十年になんなんとする今日の現状は如何であるか。日本の佛教徒は、支那に對して何等いふに足る程の事をして居らぬではないか。私はこの點に於て我が佛教界の奮起一番を切望せなければならぬ。若し我が僧侶の努力により、衰へ切つた支那佛教界に、新しい生命を與へ、佛日再び中華の空に光り輝くことになつたらば、それこそ宗祖に對する何よりの大供養と信ずるのである。(大正十年六月十五日開催弘法大師降誕記念會講演)
●表記について
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「豈+風」 |
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352-14 |
「てへん+樗のつくり」、読みは「ちょ」 |
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374-14 |
「くさかんむり/捕」、読みは「ほ」 |
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374-14 |
「走+尓」、読みは「ちん」 |
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