十二月二十一日、到二上郡長樂驛一宿。二十三日内使趙忠、將二飛龍家細馬二十三匹一迎來。兼持二酒脯一宜慰。駕即入二京城一。
とある。長樂驛とは、『長安志』卷十一に、長樂驛在二{萬年}縣東十五里、長樂坡下一といへる如く、この長樂坡に在つた。我が一行は長樂驛で二日間休憩いたし、唐の宮廷より出迎に派遣さるる使者を待ち合せ、その案内にて、行列を正して長安城に入つたのである。『高野大師御廣傳』上に、當時の有樣を記して、
給二大使一以二七珍鞍一。次使等給二粧鞍一。十二月二十三日、到二上都長安城一。(中略)入二京華一之儀、不レ可二記盡一。見者滿二遐邇一。
とあるを併せて參考すべきである。長安の東面には、北・中央・南の三城門が開けてあるが、大師は當然中央の春明門から入城された。かくて延暦二十三年即ち唐の徳宗の貞元二十年十二月の二十三日に、大師は年來渇仰されて居つた長安に到着されたのである。その滿足の程、推察に餘りありと思ふ。
(五)唐代の長安
唐時代の長安の位置を研究すべき材料は、唐宋以來その書に乏しくない。但し多くは舊記を羅列したのみで、實地の踏査や測量を忽にして居るから、參考の價値が甚だ少ない。中に就いて清の嘉慶年間編纂の『咸寧縣志』『長安縣志』に載する所の、唐代の京城の考證は尤も出色で、記録と實地を併せ考へ、古今の對照やや眞を得たるに庶幾い。故に私はこの二縣志を土臺とし、これに私自身の實驗を加へて、長安の位置を紹介せようと思ふ。 唐代の長安の位置は、大體に於て、今の陝西省關中道の長安縣である。今の長安縣は唐の長安の北寄りの一部に過ぎぬ。唐の長安の大内裏と申すべき場所が、今の長安縣に當る。唐の長安は今の長安縣の東・西・南の三方面に、廣く擴がつて居つた。唐の長安の廣さは、東西十八里百十五歩、南北十五里百七十五歩の長方形をした城壁内に在つた。之を日本の里數に換算すると、ざつと東西二里十七町弱、南北約二里三町に相當するかと思ふ。長安はまた京城ともいふ。京城の中央より北の一區域を皇城といひ、ここが諸官衙の所在地で、我が大内裏に相當する。皇城の北部に宮城がある。この宮城は我が内裏に當つて、實に皇居である。要するに長安は、京城・皇城・宮城の三部から成立して居る。この宮城の正南門の承天門から、皇城の正南門の朱雀門を經て、京城の正南門の明徳門に至るまで、南北を一貫せる大通りがある。之を朱雀大街といふ。その廣さ一百歩といふから、約八十間道路に當り中々廣い。この朱雀大街によつて、長安は左街(東)と右街(西)とに兩分される。左街は即ち我が左京で、右街は即ち右京に當る。左右兩街ともに、五十五坊と一市を有するから、京城内にすべて百十坊と二市を有する譯である。この坊數に就いては異説もあるが、茲にはしばらく『唐六典』に據つて置く。 大師の時代には、左街に興慶宮――或は南内ともいふ――が出來た爲、坊數は多少減少した。一體に左街には宮殿や苑囿が多く、又勳貴官吏らの邸宅多くて淋しい。之に反して右街は商賣の住居が多くして繁華であつた。坊と坊との間には、何れも我が四五十間幅の道路があつた。四辻の場所には、我が交番所に比すべき武候鋪といふのが設置され、そこに派遣されて居る邏卒が、城内の警察を掌つた。誠に規模堂々たるもので、この時代に於ける世界の尤も立派な大都會であつたと思ふ。我が平城・平安の二京の整然たる設計は、長安のそれを模倣したこと申す迄もない。 長安はただにその外形に於て世界の大都會たるに止らず、その内容に於ても亦實に世界有數の大都會であつた。支那の文化は唐を絶頂といたし、唐の文化は長安を中心とする。大師の入唐は、唐の文化の最盛期ともいふべき、玄宗の天寶時代を距ること五十餘年で、唐の國運こそ漸く傾いたけれど、その文化と豪華とは、未だ少しも衰へて居らぬ。しばらく文藝方面を見渡すと、李白や杜甫(子美)は既に世を謝しても、韓愈(退之)・柳宗元・白居易(樂天)・劉禹錫・元らは、何れも大師と略同年配の人で、當代に活躍して居つた。畫には李思訓・王維(摩詰)・呉道玄(道子)の如き大家こそなけれ、張・周・邊鸞らの名匠が、大師入唐前後に輩出して居る。書には顏眞卿は大師の入唐に先だつこと約二十年に卒去したが、之に代つて大師時代の柳公權が在る。大師に筆道を傳へた韓方明も、當時錚々たる書家であつた。 長安の邸宅の壯麗となつたのは、玄宗の末期から徳宗の初年にかけてのことである。この間大臣貴族は邸舍の華麗を競爭した。建築熱の昌熾なること、前後無比と稱せられ、時人は之を木妖と稱して、その非常を警戒した程である。一本の玉釵に七十萬錢を擲つ者もあれば(『小學』卷六)、一株の牡丹に數萬錢を惜まぬ者――唐の柳渾の詩に近時無レ奈二牡丹何一、數十千錢買二一顆一一[#「顆一一」は底本では「顆一」](石印『全唐詩』卷七)とある――もあつた。當時米一斗は五拾錢位を通例として、豐年の時には五錢、甚しき時は參錢位の時すらあつた。之から推すと、長安士女の奢侈知るべしである。此の如きは天寶以後のことで、大師入唐前後の有樣である。 長安は又當時東洋に於ける國際關係の中心であつた。唐の天子は單に支那人の皇帝たるのみでなく、併せて塞外諸族及び西域諸國共同の大君主と仰がれて、天可汗といふ稱號をもつて居る。此等の諸酋長又は諸國王は、何れも唐の天子の官職を受け、その子弟を質として、唐の天子の許に差出した。當時これを侍官といふ。唐の天子から特別の御思召を以て、李姓を賜はり、又は公主を賜はることあれば、彼等は之を無上の光榮として、他部又は隣國に誇つた。唐から蕃部へ下嫁する公主を、當時和蕃公主と稱した。『唐詩選』にも載せられて居る、かの孫逖の詩に、
邊地鶯花少。年來未レ覺レ新。美人天上落。龍塞始應レ春。
とあるのは、玄宗の開元二十五年(西暦七三七)に、契丹に下嫁した永樂公主を詠じたものである。 此等の羈縻藩屬の諸部・諸國の外に、唐の國威と文化とを慕つて、通交した國々の數が中々多い。從つて殆ど世界各國の國使が長安に來集した。徳宗の貞元三年(西暦七八七)の頃、長安に滯在した諸國の使者だけでも、その從者を合せて四千人以上に及んだといふ。之に北塞・東邊及び南洋方面の使者を加へば、非常の多數に上る筈と思ふ。唐の宮廷に於ける此等諸外國の使者の席次が、非常に重大視せられ、時々之に關する爭論が起つた。玄宗の天寶十二載(西暦七五三)――我が孝謙天皇の天平勝寶五年――の正月元旦に、長安の大明宮(蓬莱宮)の正殿に當る含元殿に拜賀式の行はれた時、諸國使者の着席順序が左圖の如くであつたのを、我が遣唐副使の大伴古麻呂が抗議して、日本と新羅との位置を取り換へたことが、國史(『續日本紀』卷十九)に載せられてあるが、かかる事件は當時必ずしも稀有ではなかつた。大食と囘と、突厥と突騎施との間にも、國使の謁見順序について爭を起こし、唐廷はその處置に當惑のあまり、東西二門を開き、兩國使を同時に謁見せしめて、爭議を解決したことがある。かかる事件の起るのも、畢竟當時諸外國の間に、長安を世界の外交の本舞臺と認めてをつたからであらう。
右の如き状態故、一旦唐の宮廷又は政府に吉凶があると、世界各國から慶賀もすれば又弔慰もする。高宗の崩御の際、諸蕃酋の親しく來弔する者六十一人もあつた。その記念に石を以て彼等の肖像六十一を作り、高宗の陵前に列した。高宗の陵は乾陵といひ、長安の乾(西北)の方向、三日程の距離の乾州(今の關中道乾縣)附近に在る。千二百餘年後の今日に至つても、乾陵の諸蕃酋の石像は依然として存在して居る。私の調査した時には、東側の蕃酋二十四、西側二十九を算した。玄宗の末年に、所謂天寶の亂が起つた時、西は遠く大食を始め、中央アジアの諸國、北の囘等皆兵を出して唐を助けて内亂を鎭定した。我が國も唐の請求に應じて、兵器を供給すべく努力したことがある(『續日本紀』卷廿三)。これは凶事の場合の例だが、吉事の場合にも同樣であつた。 長安の國子監は、今日で申せば帝國大學に當るが、その國子監へ高麗・新羅・百濟・高昌・吐蕃・渤海・日本の諸國から、留學生が來集した。支那人は世間普通に想像されて居る程、しかく外國人を毛嫌せぬ。否、公平に觀て、支那人は世界の中で、尤も異種族排斥の偏見を脱却した國民ともいへる。支那人の理想によると、支那の皇帝は天の代理者として四海に君臨すべき筈である。支那の皇帝は、あらゆる種族を一視同仁に取扱ふべき責任をもつて居る。從つて遠人を懷柔し、四夷を咸賓せしむることは、支那皇帝たる者の一の必要な資格とさへ認められた位である。故に歴代の支那政府は、外國の留學生を觀迎して、彼等に種々なる便宜と補助とを與へた。しかのみならず多くの場合、外國人をも自國人同樣、何等の差別なく官吏に任用して居る。 支那人は古代から楚材晉用――外國の人材を自國の爲に登庸して利用する――主義を實行した。西域人や塞外人で、支那に仕へて大臣・顯官に登つた者は、唐以前にもその實例が尠くない。殊に唐時代には、尤も自由に、尤も多數に、外國人を任用した。我が阿倍仲麻呂(仲滿)や、藤原清河(河清)が、唐の玄宗や肅宗に寵用されたことは、我が國史に喧傳されて居るが、唐の歴史を通覽すると、かかる事例は寧ろ普通であつた。 『新唐書』の囘鶻(囘)傳に據ると、唐の武宗は宰相の李徳裕に詔して、秦・漢以來外國人で支那に支へて、功績顯著なる者三十人を選んで、その傳記を作り、『異域歸忠傳』二卷を編ましめたことがある。この『異域歸忠傳』は元以後に佚亡して、今日に傳らぬから、如何なる標準で三十人と限つたことか、又その三十人は如何なる人々を指すことか、一切不明であるが、その中に唐に仕へた外國人の多かつたことだけは想像に難くない。唐時代に新羅・高麗・百濟・渤海・契丹・突厥・鐵勒・囘・吐蕃を始め、遠くは中央アジア・印度・ペルシア等の國人で、支那の朝廷に奉仕した者が頗る多い。現に我が大師と特別の關係ある、般若三藏の表兄の羅好心の如き印度人が、徳宗に仕へて近衞の將軍となつて居る。その約百年前に、高宗に仕へて近衞の將軍になつたペルシア人の阿羅憾がある。外國人の中には、支那人同樣に支那の詩文・經學を修め、支那人同樣に受驗し、正途を踏んで、支那の官吏となつた者もある。北宋の初期に出た錢易の『南部新書』丙に、
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