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大師の入唐(だいしのにっとう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:01:50 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

海中多有抄賊、遇輙無全。大海彌漫無邊、不東西、唯望日月星宿而進。若陰雨時、爲逐風去、亦無准。至天晴已、乃知東西、還望正而進。若値伏石(暗礁)、則無活路(『法顯傳』)。

と申して居る。法顯その人も廣州へ入港する豫定が、難風に遇ひ方向を誤つて、今の山東の膠州灣附近へ漂着したのである。唐時代の航海の状態もほぼそれと同樣であつた。
 唐時代でも、南洋方面から來る貿易船は鴿はとを養ひ、之を陸上との交通にも、又は陸地の搜索にも、使用いたして居たが――最近の世界大戰以來持て囃された傳書鴿の使用は、東洋が本場で、十字軍の頃に、東洋から歐洲に傳つたものである――日支間の航海には之を使用せなかつた。從つて我が入唐船が本國を離るるが最後、陸上との交通全く絶えて、一切の消息が通ぜぬので、その心細さは想像以上と申さねばならぬ。
 之に加へて當時我が國の造船術も操船術も倶に幼稚で、支那は勿論、或は朝鮮よりも劣つて居つた。齊明天皇の御世に、百濟援助の目的で戰艦を造つたが、折角出來上ると間もなく「トモカヘル」といふ有樣で、實用に適せなかつたといふ(『日本書紀』卷廿六)。ついで我が海軍と唐の海軍と、今の朝鮮の忠清南道にある、百濟の白村江(白江口)で會戰して、我が海軍が失敗したが、それも畢竟我が國の戰艦の不完全と操船の不熟練の結果と認むべきであらう。仁明天皇の承和六年(西暦八三九)八月に唐から歸朝した大使藤原常嗣つねつぐの一行は、往路は日本船で出掛けたが、その歸路には日本船の不完全を嫌ひ、江蘇の楚州(今の淮揚道淮安縣)で新羅船を倩うて之に搭乘[#「搭乘」は底本では「塔乘」]した。同じ年に新羅船の方が能く風波に堪へるといふので、太宰府で新羅風の船を製造した。これらの事實は何れも當時日本に於ける造船の不完全なりし證據と認むべきである。そののち元・明時代に至つても、日本船は一體に支那船より製造法が劣つて居つたやうである。
 上述の如き事情であるから、當時の航海の例として、出發の時にも歸朝の時にも、三四艘を一組となし、互に連絡をとつて航行するが、大抵中途で離散する。二三の著しい難船の實例を示すと、
(a)聖武天皇の御世に、遣唐大使多治比眞人廣成の一行は、天平六年(西暦七三四)十月に四艘の船に分乘して、蘇州(今の呉縣)から歸朝の途に就いたが、大使の搭乘した第一船が比較的無事なりしを除くの外、その他の三艘は皆難船した。中にも判官平群朝臣廣成の一行百十五人の搭乘した第三船は、南海の崑崙國(林邑國今の佛領安南の一部)に漂着し、或は殺害せられ、或は病死して、僅に四人だけ生存し、唐の保護を受けて、十年(西暦七三八)三月に、山東の登州(今の膠東道蓬莱縣)より渤海國に送られ、渤海國使の我が國に入貢するに同行して、龍原府(今の朝鮮の國境の圖們江口附近)より歸朝せんとしたが、又逆風の爲に、出羽國に漂着して、翌十一年(西暦七三九)の十一月に、六年目でやつと平城の京に到着した。
(b)その後約二十年にして孝謙天皇の天平勝寶五年(西暦七五三)の十一月に、遣唐大使藤原清河らの一行も亦四艘の船に分乘して、蘇州から解纜したが、間もなく離散し、中にも清河や阿倍仲麿の搭乘した第一船は、安南の驩州方面に漂着して、安南から更に長安に歸つた。清河も仲麿も之が爲に、遂に再び故國を見ることを得ずに唐で逝去した。十月や十一月に支那を發船すると、東北風を受けて、安南や林邑方面へ吹き附けらるるのが當然であらう。
(c)更にその後二十五年を經て、光仁天皇の寶龜九年(西暦七七八)に遣唐副使小野朝臣石根いはね――この時大使佐伯宿禰今毛人イマエミシは病に罹つて、遂に入唐せなかつた故、石根は名は副使にして實は大使であつた――の一行は、例の如く四艘に分乘して、九月から十一月の間にかけて、揚子江口を發船したが、何れも難船した。中にも石根の搭乘した第一船が、一番の遭難で、石根以下約六十人が溺死した。生存した約百人の者も、やがて乘船が中斷した爲、心ならずも離れ離れになり、艫部に乘つた五十六人は薩摩國こしき島郡に、舳部に乘つた四十一人は、肥後國天草郡に漂着して、不思議に生命を全くしたことがある。
 此の如き状態であるから、當時支那へ渡航するのは、殆ど命掛けと申しても決して誇張でない。學問の爲とか信仰の爲とか、專心精進の人は格別、御役目で唐へ派遣される人々は、先づ難有迷惑の方であつた。遣唐使出發の際には、例として朝廷で送別の宴を御開きになるが、隨分濕りぽいものであつた。大師の同伴された、遣唐大使の藤原葛野麻呂の爲に開かれた、送別の宴の有樣も、葛野麻呂涕涙如雨、侍宴群臣無流涕と傳へられてゐる(『日本紀略』前篇十三)。遣唐大使の佐伯今毛人や、遣唐副使の小野篁などは、渡航を忌避したと推せらるる形迹がある。暦學や天文を研究すべく、唐に派遣された留學生の中にも、愈※(二の字点、1-2-22)本國發船の際に亡命して身を隱した者がある(『續日本紀』卷八)。宇多天皇の寛平七年(西暦八九五)に遂に遣唐使を廢止したが、これには唐の衰亂といふ原因もあらうが、遣唐使廢止の發議者たる菅原道眞の主張に、

臣等伏檢舊記、度度使等、或有渡海不命者。或有賊遂亡身者。唯未唐、有難阻飢寒之悲(『菅家文章』卷九)。

とあるに據ると、渡海の危險といふことも、その一大原因と認めねばならぬ。要するに大師時代の入唐は非常に危險多く、今日の歐米留學などと同一視すべきものでない。
 さて話が本題に立ち歸つて、わが大師の渡海の有樣を申述べよう。最初肥前の田浦出發の時は、當時の慣例として四艘一組となり、同時に帆を揚げたが、間もなく離散した。中にも大師の乘船は、最も困難なる航海を續けたことは、大師の作られた「爲大使福州觀察使書」(『性靈集』卷五)に、

身衝命、冒死入海。既辭本涯、比中途、暴風穿帆、※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)風折柁。高波沃ソラニ、短舟裔々。※風ミナミカゼ[#「豈+風」、352-14]朝扇、摧肝耽羅之狼心。北氣日發、失膽留求之虎性。頻蹙猛風、待葬鼈口。攅眉驚汰、占宅鯨腹。隨浪昇沈、任風南北。但見天水之碧色、豈視山谷之白霧。掣掣波上、二月有餘。水盡人疲、海長陸遠。飛虚脱翼、泳水殺鰭、何足喩哉。

とあるにて、その大體を察知することが出來る。耽羅とは今の濟州島のことで、南風の爲に、ここに漂着すると、掠奪に遭はねばならぬ。留求とは今の臺灣のことで、北風の爲に、ここに漂着すると、人喰種族に殺されねばならぬ。この敍述には幾分文章上の修飾誇張があるかも知れぬが、『日本後紀』卷十二の遣唐大使藤原葛野麻呂の復命にも、この時の航海の有樣を述べて、

入死生之間、掣曳波濤之上スベテ卅四箇日。

とあるのを併せ考へると、當時の困難を略想像することが出來ると思ふ。海上に漂蕩した日數は、一つは卅四箇日といひ、一つは二月有餘とあつて、所傳一致を缺くが、七月六日わが田浦を發し、八月十日に唐の赤岸鎭に着したから、航海日數は正しく卅四日で、二月有餘とあるは、或は一月有餘の誤かも知れぬ。

     (三)福建着港

 大使の一行は他の友船と離れて、海上に在ること卅四日にして、八月十日に、唐の福州長溪縣赤岸鎭の海口に到着した。長溪縣は大體に於て今の福建省※(「門<虫」、第3水準1-93-49)海道霞浦縣の地に當る。赤岸鎭とは今の霞浦縣の西郊に近く赤岸溪といふ河がある。その河畔に在つたものと想はれる。その附近の海口を赤岸港といふ。赤岸とはこの附近一帶赤土にて樹木少なき故に、かく名付けたのであらう。この方面は福建地方でも尤も海中に突出して居り、從つて明の嘉靖時代にも、倭冦が頻繁に出沒した所である。
 一體唐時代に、日本船は多く揚子江沿岸に出入した。江蘇の揚州(今の淮揚道江都縣)とか、蘇州(今の蘇常道呉縣)とかが、日本船出入の要津であつた。大師の作られた、「爲大使福州觀察使書」の中に、

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