筑摩現代文学大系 38 小林多喜二 黒島傳治 徳永直集 |
筑摩書房 |
1978(昭和53)年12月20日 |
一
五六台の一輪車が追手に帆をあげた。 そして、貧民窟を横ぎった。塵埃の色をした苦力が一台に一人ずつそれを押していた。たった一本しかない一輪車の車軸は、巨大な麻袋の重みを一身に引き受けて苦るしげに咽びうめいた。貧民窟の向う側は、青い瓦の支那兵営だ。 一輪車は菱形の帆をふくらましたまゝ貧民窟から、その兵営の土煉瓦のかげへかくれて行った。帆かげは見えなくなった。だが、車軸はいつまでも遠くで呻吟を、つゞけていた。 貧民窟の掘立小屋の高梁稈の風よけのかげでは、用便をする子供が、孟子も幼年時代には、かくしたであろうと思われるようなしゃがみ方をして、出た糞を細い棒切でいじくっていた。 紙ぎれ、ボロぎれ、藁屑、披璃のかけらなど、――そんなものゝ堆積がそこらじゅう一面にちらばっていた。纏足の女房は、小盗市場の古びた骨董のようだ。顔のへしゃげた苦力は、塵芥や、南京豆の殻や、西瓜の噛りかすを、ひもじげにかきさがしつゝ突ついていた、[#「、」はママ]彼等は人蔘の尻尾でも萎れた菜っぱでも大根の切屑でも、食えそうなものは、なんでも拾い出してそれを喰った。 一輪車が咽ぶその反対の方向では、白楊の丸太を喰うマッチ工場の機械鋸が骨を削るようにいがり立てた。――青黒い支那兵営の中から四五人の白露兵が歩き出して来た。 「要不要?」 客を求める洋車の群が、どこからか、白露兵の周囲にまぶれついた。苦力のズボンの尻はフゴ/\していた。彼等は、自分だけさきに客を取ろうと口やかましく争った。 「要不要?」 ロシヤ人は、洋車の群に見むきもせず、長い脚でのしのしと歩いてきた。 彼等は、昔、本国から極東へ逃げ、シベリアから支那へ落ちのびて来た。着のみ着のまゝの彼等の服装は、もう着破って、バンド一条さえ残っていなかった。が、彼等は、金がなくても、どこからか、十年前の趣味に合致した服や外套を手に入れてきた。汚れた黒い毛皮のコサック帽も、革の長靴も、腰がだぶつき、膝がしまっている青鼠のズボンも、昔に変らぬものを、彼等は、はいていた。 頭も肩も、低い支那人から遙かに高く聳えていた。 「今月は、いくら月給を貰ったい?」 支那服の大褂児の男が、彼等と並んで歩き乍ら、話しかけていた。これは山崎である。 「一文も貰わねえや。」 「先月は、いくら貰ったい?」 「先月だって、一文も貰わねえや。」 「先々月は?」 「先々月だって一文も貰わねえや。」 「ひっぱたいたれ!」支那服の山崎は声をひそめた。「かまうもんか、ひっぱたいたれ! あの大男の張宗昌のぶくぶく肥っている頬ッぺたをぴしゃりとやったれよ。」 白露兵は、ふいに、愉快げに上を向いて笑いだした。 彼等は、頭領のミルクロフが、張宗昌に身売りをした、そのあとについて、山東軍に買われて来た。いつも、せいの低い、支那馬にまたがり、靴を地上にひきずりそうにして、あぶない第一線ばかりに立たせられた。ある者は、戦線で、弾丸にあたって斃れてしまった。ある者は、びっこになり、片目になり、腕をなくして追っぱらわれた。ある者は、支那人の大蒜の匂いに愛想をつかして逃亡した。仲の悪い支那兵と大喧嘩をした。 彼等が戦線からロシヤバーに帰って来る時、皮下の肉体にまで、なまぐさい血と煙硝の匂いがしみこんでいた。 「畜生! 女郎屋のお上に、唇を喰いちぎられそこなった張宗昌が何だい! 妾ばっかし二十七人も持ってやがって!……かまうもんか。ひっぱたいてやれ!」 白露兵は、なお嬉しげに上を向いて笑った。 彼等の眼のさきの、マッチ工場のトタン塀に添うて、並んでいるアカシヤは、初々しい春の芽を吹きかけていた。 そのなお上には、街の空を、小さい烏が横腹に夕陽を浴びて、嬉しげに群れとんでいた。
二
工場は、塵埃と、硫黄と、燐、松脂などの焦げる匂いに白紫ずんでいぶっていた。 少年工と少女工が、作業台に並んで、手品師の如く素早く頭付軸木を黄色の小函に詰めている「函詰」では、牛を追う舌打ちのように気ぜわしい音響が絶えず連続して起っている。全く歯の根がゆるむような気ぜわしさだった。 乾燥室から運ばれる頭付軸木を手ごころで一定の分量だけ掴んで小函の抽斗に詰め、レッテルを貼った外函にさす、それを、手を打ち合わす、拍手のような動作のように、一瞬に一箇ずつ、チャッ、チャッとやってのけた。七つか八つの遊びざかりの少年や少女も営々と気ばっている。 支那人は、小さい子供は籠に担い、少しおおきいのは、歩かして、街へ子供を売りにくる。それを七元か、十元で買い取った者が半分まじっていた。幼年工もあった。おさなくって、せいがひくいので、その子供達は、ほかの男女工達と同列の椅子に腰かけては、作業台に手が届かなかった。床に盆を置いて貰って、その上へ小さな机子(腰かけ)を置き、そこへ腰かけて、小ッちゃい、可愛らしい手で、ツメこんでいた。 彼等は、みな、灰黄色の、土のような顔になっていた。燐寸の自然発火と、外函の両側に膠着された硝子粉のため、焼き爛らした指頭には、黒い垢じみた繃帯を巻いていた。 作業にかゝると休憩まで、彼女達と彼等は、用事上で喋ることも、雑談することも禁じられていた。彼等は、六時間を、たゞ、唖の小ロボットのように、手を動かすばかりで過すのだった。 時々シュッといったり、シャッといったりする。黄燐マッチが、自然と摩擦して一刹那に発火する音響だ。その時、子供達は、指を焼くのだった。同時に、よごれた彼等は、ユラ/\と立上る薄紫の煙に姿がボカされた。 一人として、一言も発する者がなかった。が、そこには、騒々しい雑音と、軋音が、気狂いのように溢れていた。 幹太郎は、そこの工場をぐる/\まわり歩いていた。 彼も、鞭と拳銃を持っていゝことになっていた。彼の下には、支那人の把頭がついていた。把頭も木の棒を持っていた。その木の棒は、相手かまわず、ブン殴っても、軟らかい手や脚を叩き折ってもかまわないことになっていた。しかし、日本人と把頭の前では、ちり/\して勤勉振りを示そうとつとめる工人達には棒も拳銃も更に必要がなかった。 彼は今年二十五歳の青年だった。ひどく気むずかしやで、支那人をよりよく働かせることが嫌いなような、監督振りがまずい、理窟ッぽい男だった。 塵埃と共に黄燐を含んだ有毒瓦斯は、少年達へと同様に、彼の肺臓へも、どん/\侵入して来た。 ――君は、一体、支那人かね。それとも日本人かね? 最近、瑞典マッチの圧迫を受けてぷり/\している不機嫌な支配人は、彼がむしろ支那人に肩を持つ癖があるのを責めて、皮肉な辛辣な眼つきをした。 幹太郎は、親爺が、とうとうヘロ者となってしまった。それと、これを思い合わして淋しげな顔をした。日本人はヘロを売ってもかまわない。しかし、支那人の如くヘロを吸ってはいけない。そのヘロを親爺は、支那人の如く吸飲した。支那人の如く者となってしまった。 「俺れらは、日本人仲間からも嫌われているんだ、どうも、追ッつけ、俺れも、この工場からお払箱か……」 実際、幹太郎は、すれッからしの日本人よりも、支那人に対して親しみが持てた。又、工人達も、彼に対して、ほかの小山や守田に対するよりも、親しく、ざっくばらんであるように見えた。
「お前あといくつだい?」 軸削機をがちゃ/\ならして、木枠に軸木を並べている房鴻吉に、彼は、なでるように笑ってみせた。房の頭は、ホコリで白くなっていた。平べったい鼻の下には、よごれた大きい黄色い歯が、にやりとしていた。 「あといくつだい?」 「三ツ、三ツ」房は、あたふたと答えた。枠台車に三台のことだ。 「早くやれ。」 「すぐ、すぐ。」 房は小さい軸木を林のように一面に植えつけた木枠に止め金をあてがった。ピシン/\とつまった音がした。 幹太郎は、そこから、浸点作業へ通り抜けた。焼くような甘味のある燐の匂いが、硫黄や、松脂ともつれあって、鼻をくん/\さした。 開け放された裏の出入口からは、機械鋸と軸素地剥機が、歯を削るように、ギリ/\唸っていた。生の軸木を掌にとってしらべていた小山は、唾を吐くように、叺にポイと投げて汚れた廊下をかえってきた。 「君、于の奴をどう思うね?」 幹太郎の受持の、常から頭の下げっ振りが悪い変骨の于立嶺を指しているのは分っていた。 「どうも思いません。」 「あいつの仕事は、いつもおおばちだから、浸点で屑が出来るこた知っとるだろうね?」 「そうでもありませんよ。」 「君の眼に、屑でも屑でないと見えるんならそれでもいゝさ。」 あんまりしつこく支那人の肩を持っていると、邪推されるのは癪だが、小山と一緒になって自分の受持の者を悪く云うのは、なお更、自分が許さなかった。軸列と、浸点と、乾燥室は幹太郎の受持になっていた。 「あんな奴を放って置いちゃ、北伐軍でもやって来た日にゃ、手がつけられなくなっちまうんだ!」 小山は傷つけられたものを鼻のさきに出して鳴らした。 小山がむきになると、幹太郎は、ワザと、于の尻を押してみたい気持を感じるのだった。小山は、下顎骨が燐の毒で腐り、その上、胸を侵され、胴で咳をしていた。于は、人を小馬鹿にしたような、フーンと小鼻を突き出したりする支那人ではあった。 彼等は歩いた。 「呀!」 その時、小函を一打ずつ紙に包み、更に大きい木箱に詰めている包装で、ふいに、シユーッシユーッと空気を斬る音響が起った。 仲間の工人から、工場での美人とされている、しかし、日本人が見ると、どうしても美しいとは思われない、平たい顔の紅月莪がびっくりして身を引いた。脚が弱々しく細かった。木箱の中のマッチが、すれて、発火してしまったのだ。紫黒の煙が、六百打詰の木箱から、四方へ、大砲を打ったように、ぱあッとひろがった。煙に取りまかれた紅月莪は、指を焼いたらしかった。 小山は、骨ばった手を口にあてゝ煙にむせながら、こっちから、じろりと眼をやった。焼いた手を痛そうに、他の手で押えながら顔をあげて、ぐるりをはゞかるように見わたした紅は、小山の視線に出会すと、すぐ、まだ煙が出ている木箱の方へ眼を伏せた。 幹太郎は、小山の下顎骨の落ちこんだ口元が、苦るしげに歪むのを見た。紅は、なお気がかりらしく、今度は恐る恐る、上目遣いに職長の方を見た。 依然として、濛々とゆれている煙に、小山は、なお、胴ぐるみにむせていた。 幹太郎は事務所の方へ歩いた。
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