二一
幹太郎は、工人達と、接触する機会を奪われた。 受持の浸点作業と、乾燥室から、事務室の計算係にまわされた。彼は帳簿に頸を埋めた。朝から晩まで、ソロバンばかりはじいていた。これは、寛大な処置だったのである。 親爺は、十日をすぎて、まだ、領事館警察の留置場から出てきなかった。 ヘロのきれたその肉体は、地獄よりもツラかった。監視巡査の恥じッかゝしと、軽蔑ばかりの中で、恥をかまっていられず、疼くような呻吟をつゞけていた。 工場では、幹太郎を、不穏な工人の肩を持つものと睨んだ。支配人も、職長も、古参の社員も、嫌悪した。支那人ならとっくに頸が飛んでいるところだろう。日本人同志で大目に見られた。 総工会系の煽動者が、市中に潜入している。それは、単なる噂ではない。事実である。そして工場は内外共に多事だった。 いつの間にか、外塀や、電柱に、伝単がベタベタ貼りさがされていた。 漫画の入った伝単が、製粉工場に振りまかれた。 火柴公司では煽動者の潜入を警戒した。工場の出入は、極度に厳重になった。内部の者を外へ出さないばかりでなかった。外部の者を、一人も内部へ入れなかった。そして、内部と外部との境界線は、武装した兵士と、雇い巡警によって二重に守られた。 「いずれ、俺の頸がとぶのも近いうちのこった!」 これを口の内で呟くと、幹太郎の表情は淋しげになった。 彼は、軍隊の到着以来、小山が、気に喰わない工人達に、虱つぶしに、リンチを加えるのを目撃していた。一つは、それは彼にあたっている。 工人は、ぬれた皮の鞭でしぶきあげられ爪の裏へ針をつき刺されるばかりではなかった。 ある者は、電話をかけていた。と、そのうしろから、ふいに送話器の喇叭状の金具をめがけて、急激に、ドシンと突きつけられた。壁の電話がガチャンと鳴った。鼻が送話器にお多福饅頭のようにはまった。顔の中央は、鼻梁が真中から折れて、喇叭の型に円く窪んでしまった。血の玉がたらたら垂れた。ある者は、十字架に釘づけにされるように、脚を宙に浮かして、アカシヤの幹から枝にかけて縛りつけられた。 「私、生意気者で、油売り、横着者で、悪者で……これが見せしめ……これが見せしめ……。」 アカシヤに縛りつけられた工人は、枝にぶらさがったまま、一千回繰りかえさせられた。うらなりのトマトのような少年工が、その樹の下で、回数をかぞえた。繩が四肢や胴体に喰いこんでいる。もがけば、もがくほど喰いこむ。樹の工人は、息がきれそうに喘いだ。 「私は、生意気者で、……悪者で……ございましたんです。……」喘ぎ喘ぎ風のように、工人は、白い泡と一緒に言葉を吐いた。 ――これは、一度兵士達が見つけて以来、勤務について、寄宿舎にいなくなった留守を見はからって敢行された。特務曹長からの注文だったのである。兵士は南軍接近の知らせに、警備手配に忙殺されていた。 工場の空気は、幹太郎を忌避し、敬遠した。幹太郎自身も、それを感じないではいられなかった。 「やっぱし俺は、お払い箱だ! あの態度は、俺からトットと出て行けと云ってるんだな。」 支配人と小山にまつわっている不思議な、ばつの悪さを感じながら、彼は考えた。 「馘にならんさきに、自分から、出て行けッと云うんだな。」 彼はその原因が、親爺の支那人なみのヘロ中と、王洪吉の賃銀を代って要求してやったことにあるのを知っていた。 彼は、時々、事務室をぬけ出した。請負作業の出来高を調べるものゝように、仕事場に這入った。殊更、注意深く、工人達を観察した。 稍、うつむきこんで軸列器をがちゃがちゃ鳴らし、木枠に軸木を植えつけている于立嶺は、おどおどして、あたふたと頭をさげた。 「びくびくすんなよ。」 「はい、はい。」 傲慢で、ツンとした于立嶺が、全く、おびえきった子供のように変っていた。 「やっぱし、薬がきくんだな!」 小山の、軍隊の駐屯に対する感謝と、自分のやり方に対する、得意さは、一日々々顕著になっていた。リンチが度重なるに従って、工人の挙動がおとなしくなってきた。社員に、おべっかを使うように、ペコペコ頭を下げた。 「畜生! こんなに卑屈に落ちぶれたって、やっぱしコツコツと働かなきゃならないのが工人だ。――動物! こいつらは、全く、睾丸を抜き取られてしまった、おとなしい動物だ!」 しかし、幹太郎は、自分たち自身も、反抗もなにもよくしない、おとなしい動物だと感じた。 彼には、親爺がいつまでも留置場から出られないことも、彼等の家が何ものにも保護されず、工場が、ひたすら堅固に守られることも、食えない工人達の当然すぎる賃銀支払の要求が、拒絶せられ、その上、一人々々が殴られることと同様に、すべて、ある一ツの原則から、出ているように感じられた。 それは無数の小さいものを犠牲にして、大きい奴だけが肥大して行くことだ。親爺は昔、学校の建築費を、町の芸妓へ注ぎこんだ村会議員をあばこうとした。そのことのために、却って坂の上から、突き落されてしまった。そして、転落がはじまった。 ――最後の、もうそれ以上落ちるべき段階がないところまで、落っこちてしまわなければ承知されはしない! と、彼は思った。これは、人生の運とか、マンとかいうものじゃない。大きいやつが、かばわれるために、小さいやつが落っこちるのだ。そのために、われわれは皆んな、トコトンまで落っこちてしまわなければならないのだ! しかし、いつかは、巨大な大建築が土台石から、がた崩れに、くずれてしまう時が来る。来るにきまっている。 彼は、大根ナマスのように、白楊の素地が軸刻機にきざまれて軸木の山が出来て行く、刻作業部を通りぬけて、用材置場から、薄暗い兵士のいない宿舎をちょっとのぞいた。 背嚢や、毛布や、天幕や、外套が、乱雑に畳まれて、ごちゃごちゃと並べられていた。口をあけられた空鑵には、煙草の吸い殻が、うじ虫のようにつまっている。工人の大蒜や葱の匂いと、兵士の汗と革具の匂いが交錯して、寄宿舎の厚い重たい壁についているようだった。 彼は靴のツマさきで歩きながら、東側のアカシヤのある入口の方へ通りぬけた。と、何か、バラバラと脚にふれるものがあった。見ると、それはビラだった。おやおやと思いながら、もう一度、そこを入念に眺めまわした。同じような恰好に畳まれた外套の畳み目や、毛布や、天幕の間にそれぞれ紙片がはさまれてあった。紙片は畳み目の中にかくれて見えないのもあった。が、また畳み目から舌のようにそのはしが見えているのもある。彼は、その一枚を取って見た。 それは蝎のように怖がられている伝単だった。 「へええ!」厳重極まる警戒線をくぐりぬけて、いつのまにこんな伝単が持ちこまれたか幹太郎には不思議だった。 伝単には次のようなことが書かれてあった。彼はよんだ。
日本人兵士諸君 日本帝国主義ブルジョアジーハ、諸君ヲシテ、銃ヲ携エ砲ヲ持チ、急速ニ山東ノ地ニ来ラシメタ。而シテ、支那ノ軍事的分割ハ、既ニ始メラレタ。 諸君ハ、日本居留民ノ生命ヲ保護スルタメニ来タノデアルカ。居留民ノ財産ヲ守ルタメニ来タノデアルカ? 否、断ジテ否! 思イ見ヨ、諸君ハ、現ニ、商埠遙ニ散在シテイル貧窮セル居留民達ノ生命ヲモ財産ヲモ保護シテハイナイノデアル。諸君ハ、工場ヤ、銀行ヤ、病院ヲ守ッテイルダケデアル。工場ヤ、銀行ヤ、病院ハ誰レノ所有ニ属スルモノデアルカ! 諸君! 労働者、農民ノ出身デアル兵士諸君! 諸君ハ、居留民ノ生命財産ノ保護、国旗ノ尊厳トイウガ如キ言葉ニ迷ワサレテハナラヌ。諸君ハ、日本国内ニ於テハ、農村ヤ工場ニ於テ、資本家ヤ地主カラ搾取セラレ、支那ニキテハ帝国主義ブルジョアジーノタメニ命ガケノ血ナマグサイ戦争ヲサセラレヨウトシテイル。莫大ナル出兵費ハ誰カラ出ルカ、諸君ガ一本ノ煙草ヲ喫ンデモ、半斤ノ砂糖ヲ使ッテモ、一足ノサル又ヲ買ッテモ、必ズ間接ニ徴収セラレル税金カラ出テイルノダ。 支那ノ労働者農民ノ国民革命運動ヲ、血ヲ以テ窒息セシメタ各国ノ帝国主義ハ、干渉カラ土地掠奪ニ移ロウトシテイル。日本帝国主義ハ、真先ニ掠奪スルタメニ有利ナル戦略的状勢ヲ利用シテ、諸君ヲコノ地ヘ来ラシメタ。日本ハ山東ヲ満洲ノ如ク、奴隷的植民地トシヨウトシテイルノダ。満鉄ヤ撫順炭坑カラ諸君ハ一文デモ利益ヲ得タカ。満鉄ヤ撫順ノタメニ諸君ノ暮シガチットデモラクニナッタカ。 満洲ハタダ大資本家大地主ヲ太ラセルダケダ。太ッタ大資本家共ハ、鈴文ヤ松駒ノ如キ階級的裏切者ヲ買収シ、諸君カラノ搾取ヲマスマスヤサシクシ、諸君ノ妻ヤ子ヲ、飢ニヒンセシメ、諸君ヲモ絞殺スル反動ノ城塞ヲ固クスルモノデアル。 分割センガ為メニ弾圧スル――コレガ支那ニ於ケル帝国主義者共ノ政策デアル。帝国主義者共ハ既ニコノ憎ムベキ計画ノ第一部ヲ国民革命ニ対スル連合ノ軍事干渉ニヨッテ実現シタ。山東ノ折軍素的占領ハ、コノ計画ノ第二部ノ開始デアル。植民地再分割ノタメ帝国主義戦争ガ勃発スル可能性ガ十分ニアルノダ。 諸君ヨ、思エ! 将軍、独裁官田中ハ、諸君ヲ山東ニマデヨコサシメタル田中ハ諸君ノ階級ノ最悪ノ敵デアルコトヲ! 彼奴ハ内地ニ於テ、労働者農民ヲ搾取シ、蹂躪シテイル奴デアル。彼奴ハ諸君ノ兄弟ヤ父ヲ刑務所ニ閉ジコメ、諸君ノ妻ヤ児ヤ、母ヲ虐待シテイルモノデアル。 日本人兵士諸君! 諸君ハ山東侵略ノ命令ニ服スルコトヲ止メヨ! 支那民衆ニ対シテ、剣ヲ振リカザスコトヲ止メヨ! 而シテ諸君ハ、支那ノ労働者、農民、兵士達ト手ヲ握レ、諸君ガ革命的連帯ノ固キ握手ニ達スルタメニハ、如何ナル犠牲ヲモ辞スルナ。両側カラ反革命ノ戦線ヲ切リ崩セ。支那革命擁護ノタメニ、諸君ハ支那ノ労働者、農民、兵士達ト力ヲ結合セヨ!
「おいおい、これゃなんだい。こんなものを外套の間へ突ッこんどるが。」 勤務が終って帰って来た兵士達に、この奇怪な紙片が眼にとまった。 巻脚絆を解いて、自分の背嚢に近づいた。製麺職工の玉田にも、その紙片は眼にとまった。那須も紙片を拾い上げた。 「おや、これゃ、こんなもんは、届けんきゃなんないぞ。」 「待て、待て! 何だか訳が分らずに届けることが出来るかい!」 高取が幅のある声で訓練所を抑えつけた。 夕暮れになっていた。薄暗い寄宿舎で、彼等は、それを読んだ。読んでしまうと、互に顔を見合わせた。そして、かげにかくれて、盗んでするような微笑を浮べた。 「これゃなんだい……なかなか面白い奴がいるね。」 「これゃ、チャンコロの仕事だ。チェ!」 「なんだい。これッくらいのこたァ、俺れでも知ってるぞ!」 黙り屋の那須は一心にそれを読みかえしていた。 「諸君が、革命的連帯の固き握手に達するためには、如何なる犠牲をも辞するな。」高取は最後を、声をあげて読みかえした。「両側から反革命の戦線を切り崩せ。支那革命擁護のために諸君は、支那の労働者、農民、兵士達と力を結合せ!――そうだ、全く、その通りだ!」 まもなく、寄宿舎と工場内に大騒動が起った。兵士達は、その場に立たされた。慌てふためいた支配人、社員、中隊長、重藤中尉、特務曹長が、そこら中をかけずりまわった。 ポケットがさぐられて、頬ッぺたがぶん殴られた。アンペラから、毛布から、背嚢から、私物まで、すっかりひっくりかえされてしまった。 伝単が持ちこまれた径路と出所が厳重に詮索せられた。二百何十名かの工人は、一人々々裸体にひきむかれた。女工も素裸体にせられた。 くさい工人は、キリストのように、柱にくくりつけられた。そして工人たちの底の平ぺったい汚れた支那靴が、しきりに宙を苦しげに踏んばっていた。 伝単は、恐らく猿飛佐助でもが持ちこんだものだろう。誰の仕業だか、あきていやになるまで探しても分らなかった。 兵士たちの殴られた頬は、まだ、ぴりぴりはしっていた。こんな場合、いつも真先に睨まれる高取は、頭に角のようなコブが出来ていた。ごったかえしたあとを掃除して、寝についた。油を搾られたにもかかわらず、彼等は、腹の中から、おかしい。笑いたくてたまらないものが、こみ上げて来て、なかなか眠れなかった。笑いを吹き出してしまって静まったかと思うと、また、一人が、「ふふふふッふ。」と、吹き出してくる。「両側から反革命の戦線を切り崩せ!」 誰れの仕業か分らないことも、えらい人がすっかり仮面をぬいで慌て出してしまったことも、犯人が決して兵士たち自身でないことも、彼等を明るく愉快にした。高取は、幾度となく、毛布をかむって、眠ろうとした。が、誰れかの言葉がすぐ彼の気を散らした。又、子供らしい笑いが洞窟のような宿舎に響き渡る。…… 十一時すぎになった。彼等は、まだ眠っていなかった。ふいに、当直下士が、靴音荒くとびこんできた。 「起きろ! 起きろ! 皆んな起きろ!」 「また検査でありますか?」 「馬鹿ッ! 検査どころか。南軍が這入ってくるんだ。張宗昌が、今さっき城をあけて逃げ出してしまったんだ。徹夜警戒だ!」 「ふふふふふッふ。」 兵士たちは、又、吹き出しながら起きあがった。
二二
張宗昌と孫伝芳は、戦わずに泰安を抛棄した。そして界首の線によって一時を支えようとした。 しかし、黄河を迂回して、側面からここを圧迫する馮玉祥の騎兵部隊と、泰山の南を縫うて、明水平野に出た陳調元の優勢な一部隊に圧迫せられ、又、戦わずに、界首と、黄河の線を抛棄した。 敗北した軍隊は、雪崩を打ってこの古い都済南へ総退却した。 つゞいて、黄河の鉄橋を破壊しつゝ津浦線を、天津に向って退却した。逃げおくれることを恐れる山東軍の兵士は、さきを争った。貨車の屋根に梯子をかけて這い上った。ころげ落ちそうになった。屋根の上には兵士がすゞなりになった。 約六時間経って、王舎人荘で一夜をあかした南軍の顧祝同の第三師は夜があけると同時に入城してきだした。つづいて、陳調元の第十三師と第二十二師が入城した。ついさきほど、張宗昌のために、優秀な機関車の都合をつけた、津浦線停車場の駅長は、顧祝同を停車場と、無線電信局へうや/\しく案内した。直ちにそこは顧祝同の軍隊によって占領された。 一時間の後、津浦線伝いに、賀耀祖の部隊が到着した。更に三時間の後、黄河に沿うて側面から迫りつゝあった方振武が到着した。これらの軍はすべてで、約二万はあったであろう。 夜になった。夜半近く、又、行軍縦隊や、自動車や、鍋釜をかついだ大行李の人夫等が、駅頭に着いた。 一台の立派な自動車には、抜身のピストルを持った二人の少年兵が左右に立って、注意を怠らず、そこらにじろじろ眼を配っていた。少年は懸命の努力にも拘わらず、どうかすると、こッくりこッくりと、脳髄が執拗な睡眠に襲われ、立ったまゝひょっと他の世界に引きずりこまれそうになった。 自動車は、前後、左右を騎兵によって守られていた。まだ、あとに自動車はつゞいている。 一隊は、街頭の拒馬に遮られた。馬も、車も、速力をゆるめ、辛じて、その間をくゞりぬけた。ピストルの少年が立っている自動車の窓から、ふと、面長の、稍、頬のこけた顔が、頸を出した。「これは何だね?」かんかん声で呶鳴った。 「これは、日本軍の作りつけたものであります。」 「何のために、横暴にも、こんなものを作りつけたんだ。」と、けいけいとした、黒玉のしょっちゅう動いている眼で、附近を見やりながら、「土嚢塁もあるし、鉄条網は、そこら中いっぱいじゃないか。」 「はい。」 「兵タイが立っている、機関銃まで据えつけている、……これは、わが革命軍に対して敵対行動をとるにも等しい仕わざじゃないか! 何故、君等は、こんなものを撤退することを要求しなかったか!」 「は、……」 自動車の傍の馬上の男も、参謀か、師長であるらしかった。 「早速、こんなものを、全然撤退してしまうよう、厳重に抗議しなけゃならん!」 拒馬の間をくゞりぬけると、自動車の速力は加わった。こくりこくりしかけていた少年兵は、ふと頭をゴツンと打って眼をあけた。一隊は城内に向って疾駆した。 これが、一年前在モスクワの息子経国から「……いまやあなたは支那国民の敵となった。父上あなたは、反革命の英雄であり、新しき軍閥の頭領であります。あなたは上海において労働者を虐殺しました。これに対して全世界のブルジョアはむろん歓迎の辞を以てあなたを呼びかけるでしょう、帝国主義者は、数多の贈物をもたらすでしょう。しかし、プロレタリアートが一方に厳存していることを、ゆめ、忘れては下さるな! 父上、あなたはクーデターによって一世の英雄となった。しかし、あなたの勝利は一時的なものと信じます。父よ! コンミニストは日を逐うて、戦いの用意を整えている……」この悲痛な手紙を突きつけられた、裏切者、蒋介石の軍司令部の一行だった。
二三
中山服のデモの群れに、支那将校が、瓜で口をもぐ/\動かしていた。市街は、さまざまな伝単の陳列会だ。剥げ落ちた朱門の上で、細長い竿の青天白日旗が、大きく風をはらんでいる。 びっこの中津は、山東軍の綿服を、大褂児に着かえた。彼は城内を出た。そして、張宗昌の落ちのびる列車に乗らず、商埠地にとゞまっていた。 最近、張宗昌は、あの太い頸をねじ曲げるようにして、彼と視線がカチ合うのを避けた。ロシア人のミルクロフもよくなかった。いゝのは、第十五夫人の弟の蔡徳樹である。中津は、すゞに未練を残して宿州へ出かけて以来、前々から抱いていた直感をたしかめた。 「やっぱし俺を好かなくなりやがったんだな。」 張は、彼に、ものを云わなかった。やって来た旨を述べても、たゞ会釈したのみだ。 「好かなけゃ、すかなくってもいゝさ。」と彼は考えた。 「人間の好悪の感情は、自分自身でも、どうにも支配のしようがないもんだ。それくらいのことは俺にだってある。分りきった話だ。」 それでも、彼はいくらか、やけくそになった。昔の本性を現わした。張大人に相談もせず、臨城で退却して来る将卒をピストルで射殺した。癒る見込のない負傷兵は片づけッちまえ! という命令を出した。 埋められる負傷兵は、 「可哀そうだと思って下され! 私たちは、大人のために戦って、負傷をしたのじゃありませんか。――こんな生きている者を埋めるんですか?」 と憫れみを乞うた。 「張大人のために負傷をして、張大人のために埋められるんさ。お前たちが大馬鹿さ!」これは、中津が、中津自身に向って云ってもいい言葉だった。 「それゃ、不憫じゃありませんか! それゃ不憫じゃありませんか!」 わい/\声をあげて泣き叫んだ。 殺伐な荒仕事は彼の荒んだ感情を慰めた。 大人は、何らの謀計もなく、意気地もなく古い首都へ退却した。そして、二カ年半住みなれた、督弁公署を捨てゝしまった。ここを捨てれば全然の没落だ。民心は離反している。張作霖からは、譴責を喰っている。没落以外に道はない。中津は、それを観取していた。 「くそッ! 今が、あいつとの腐れ縁も見切時かな。」 ……彼は、昔の浪人にかえってしまった。戦線から退却してくると、直ちに、猪川の家へ立ちよった。竹三郎が、留置場に呻吟している。家に幹太郎以外、男けがない。これも昼間はいなかった。これは、彼に、頗る好都合だった。暫らく、前線に出て、すゞを見なかったことは、彼の気持を枯淡にせしめるどころかむしろ、五十の情熱をかり立てるのだった。 彼の、すゞに対する感情は、老人が、自分の孫にあたるような幼い娘を、老後の断ち切ることの出来ない欲情から愛ずる。――そういう気持になるかと思うと、ええい、恋のへちまのと、上品ぶったまだるッこいことは面倒だ。いっそ、荒療治で、あっさりと無断で失敬して行っちまおうか? その方が面白れえや! と、この二ツの間を、乗合いみたいに往復した。彼は、このブラ/\する自分の感情を噛みしめるのが愉快だった。 噛みしめて、そのさきをどうするか、それを空想するのが愉快だった。
中津の、再度の訪問、これは、すゞにも、俊にも、それほど、恐怖を与えなかった。 市街の、その行きつまったところには、河があった。古代より湧き出ている城内の泉からつゞいているその水は、音をたてなかった。丸腰の支那兵が、河馬の群れのように、その中へ頭を突ッこみ、濁している。 街の一方は、青鼠の中山服の兵士たちが、蟻のように一面に這いまわっていた。他の一方には、土嚢塁の中でカーキ服が光っていた。シャモが蹴あいをやる、その前に、まず睨めッこをして相手のすきを伺う、それのようだった。何等奪われるものを持たない乞食や、浮浪漢は強かった。 すゞも、俊も、お母も、自分達の家が、中山服の蟻と、乞食、浮浪漢の群れの中に、ポツンと一つだけ、存在しているのを知っていた。そして、それにおびえた。ほかは皆な支那人だ。 山東軍は、退却際に、行きがけの駄賃として、数カ所で金品を奪い、むやみな発砲をした。中山服の眼には敵意があった。不安は、ます/\ひどくなった。 馬賊上りの、つわものゝ、中津の来訪は、この不安と恐怖に、若干の、主観的な緩和剤となったのである。中津は、ピストルがうまい。睨みがきく。彼がいてくれることは、彼女達を心強くした。 石を敷いた狭いゴミだらけの通りを、え体の知れない支那人が、犬のようにうさんくさく行ったり来たりする。猪川の家は、石の重い、壁の厚い、支那式の家でありながら、壁に切りあけた窓と、四国の田舎にありそうな、石の築き塀などによって、すぐ支那人の住家とは見分けがついた。すゞも、俊も、母も、長い、フゴフゴとした支那服を見ると、そのポケットに、ピストルをしのばしている気がして、無気味だった。そして、誰かにすがりつき度いような、あこがれにも似た不安を感じた。 中津は、この家のあっさりとして、華やかな、日本娘の着物や、四国訛のある日本語や、若々しい鶏の胸肉のように軟らかい、ふるいつきたくなる娘の肉体を、視覚で享楽しながら、一家の不安に同感し、心配げな顔をしたり、また、特別、力になってやるようなことを云ったりした。 お仙は、中津が、朝飯を食い、昼飯を食い、晩飯を食い、夜おそくなるまでいて呉れるために、心細い財布をはたいて物惜みをしなかった。 俊は無邪気だった。 すゞは、ほかの第三者に対するように、こだわらない、馴れ/\しい態度で、中津に向おうとすると、気骨が折れた。何故か、顔が紅くほてった。中津が強盗、殺人、強姦などをやってきた、そして多くの人々から、恐るべき蝎として、嫌われ、おっかながられている。にもかゝわらず、実際は、滑稽な、おかしい、快活な微笑の持主であることは、以前と変らなかった。これは、すゞにとって、奇怪で、同時に快よかった。しかし、中津は、やって来ると、玄関に這入った瞬間から、帰えりに、観音開きの門を出て、なお、も一度、あとを振りかえるその時間まで、十二時間でも、十五時間でも、その間、一分間も、彼女の、顔や、頸や手から、微笑を含んだ、怖げな眼を離さなかった。それが、すゞには、窮屈で、息苦るしかった。 その執拗な視線は、彼女が、用事をして、こちらからは、彼を見ていない時にも、やはり注がれていた。そのことを、彼女は感じた。 ときどき、彼女は、どうかすると、中津の濃い毛だらけの頑丈な二本の腕が、うしろから無遠慮に自分を抱きしめて、首筋のあたりを、熊のようになめやしないかと気にかかった。ぞッとした。 兄がいないと、なお、この恐怖は強かった。母もいなくなると、恐怖と危険は、もっと、もっと身に迫るような気がした。 すゞは、妹と、歩きかねる甥とを頼りにするような心持になった。小鳥のように、隅の方にうずくまっていた。 幹太郎は、この一家を襲っている二つの恐怖を感じた。同時に、妹も母も、支那兵の乱暴に対する強迫観念のようなものは、戦慄するほど強いが、中津の恐ろしさは、女達が、殆んど意識していないと思った。殊に、それを気にとめていないのは母だった。それが、彼は不満だった。母は、わざと、中津を家に引き入れているように見えた。彼は母と対立した。その気持は、知らず/\、言葉となって母が感じたかもしれない。 ある晩、マッチ工場の社宅に、六畳の物置が一と間だけ、あけて貰えるから、そこへ金目のものだけを持って避難していてはどうか、と話していた。母は、突然、中津を好きやこのんで家へ引っぱりこんでいるのではないんだ、と云いだした。幹太郎は、その鋭鋒が、自分にあたって来るのを感じた。 「一体なんで気持をこじらしているんだろう? おッ母アが、中津と通じたとでも、俺が、一度でも、もらしたためしがあるんか?」と幹太郎は思った。「馬鹿らしい、見当ちがいだ!」 彼は、こんな場合の例で、黙りこんでしまった。 「嫌いなら、なんにも、社宅へなんか行かなくってもいゝんだ。」 彼は、簡単に云った。それ切り黙りこんだ。母は、ヒステリックに、嫁に来て以来、竹三郎のことや、お前達のことを心配しない日は一日だってないんだ。それを、支那へまでやってきて、こんなツラさをするのは一体誰のせいだ! と泣き狂いになった。 変に、家の中の機構が、トンチンカンになった。 翌晩、幹太郎は、妹がいるところで、 「いつまで中津先生、逃げ出さずに止っているんだい。捕虜ンなっちまうぞ。」と云った。 「もう、張宗昌について行くのはやめたんだってよ。」 「何故だい?」 「何故だか知らないわよ。」と俊は、工場から、途中を誰何されながら帰ってきた兄に答えた。 「ずっとここに止っているんだってよ。」 「いつそれを云っていた? いつそれをきいた?」 「界首から帰った日にそう云っていたわよ。もう一週間も前に。――兄さんきかなくって?」 「俺が、何をきくか! 貴様、なぜ、それを俺れにかくしていた。」彼も、ヒステリックに呶鳴った。 「――あいつがいつまでも、ここに止っているのは、(彼は、ます/\いら/\しながら、)すゞをつけねろうてだぞ!」 「いやだわ。」俊までが、パッと紅くなった。「そんなことを云うもんじゃないわ。」 「馬鹿! 馬鹿! 貴様ら、親爺が、まだ出て来られないのを嬉しがっとるんだろう!」どうしたのか、幹太郎の機構までが狂ってしまった。二人の妹を睨んで、蹴とばすように呶鳴りつけた。「親爺と俺れがいないから、あんな奴が、のさばりこんでけつかるんだ! それが分らんのか!」 「呀! 呀!」 何も知らない一郎が、幹太郎の膝によってきた。
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