一二
日没後、なお、一と時は、物が白く明るく見える、生暖い晩だ。 昼の雑鬧と黄色い灰のようなほこりはよう/\おさまった。 無数にうろついていた乞食の群れが闇に姿を消した。※子[#「穴かんむり/缶」、211-上-16]の家と家との間では、耳輪をチラ/\させた女が、奇怪な微笑を始めだした。 山崎は、その家と家の間から出てきた。彼は、いつもの黒い支那服と違って、鼠色の、S大学の学生服を着こんでいた。生暖い街は潤いを帯びて見えた。不安と険悪さは夜になる程ひどくなった。それを恐れないのは、マアタイにくるまった乞食だけだ。 山崎の眼は、何かを、しびれを切らして待ちもうけているもののように、いら/\していた。 街をもぐり歩いている陳長財が、まだ帰ってこないのだ。 せいぜい徐州か臨城まで押しかけて来れば大出来だ、と高をくゝっていた北伐軍が、もう袞州を陥れ、泰安へ迫っていた。 防戦の張宗昌は、宿州から、徐州、臨城、袞州へと退却をつゞけた。宿州の激戦に依る負傷兵は、その儘、戦場に遺棄された。のみならず、前線から手足まといとなってついてきた他の負傷者達も、そこで、急ぐ退却の犠牲となって、片ッぱしから生埋めにされてしまった。 臨城では、彼は、なだれのように退却する部下の将校をピストルで射殺した。 山東兵は、南は、北伐軍に圧迫された。北の退路は、張督弁にふさがれていた。で、立往生をした。その一部は、やむを得ず途中で脇道にそれ、高峻な泰山を踏み越し、明水や郭店を通って、住みなれた都市へ逃げこんで来た。他の一部は蒋介石に投降した。 北伐軍の威勢が案外にあがるのは、金があるからだ。山崎は、総商会が蒋介石に金を出したという福隆火柴公司のレポが嘘だったのを、最近たしかめた。金を出したのは、米国のある実業家だ。それによって、その金額によって、蒋介石が北京までのりこみ得ることがチャンと測定されてしまった。 文化的に支那侵略を企てゝいる米国は、到るところに教会、学校、病院、を設立した。欺瞞的な慈善事業を行った。贈物を持ってきた。庚子賠款を放棄した。そして支那人を手なずけた。 俺れは希臘人が怖い、たとえやつらが、どれだけ贈物を持ってきたって、俺れゃ希臘人が怖い。ローマ人でない支那人にとっては、その希臘人は亜米利加人じゃないか! と山崎は考えた。 それを、支那人は、贈物に乗せられているのだ。これが、すべて、日本に、どんな意味を持つか、勿論山崎は知悉していた。 「済南は、実に天下の要衝である。陸は南北の中間に位置し、海には、渤海の南半を抑制し、一呼して立てば、天津、北京の形勢を扼することが出来る。河上流の地を北京の背面とすれば、済南は、実に、その前面、腹部にあたるの観がある。而して、青島への沿線には、坊子、博山、川、章邱等に約十八億トンの石炭が埋蔵されている。又、西二百数十哩の地には、山西の大炭田があり、全亜細亜蔵炭量の約八割に当る六千八百億トンの石炭と、無尽蔵とも言うべき鉄が死蔵されている。日本が今後、鉄と石炭との需給において独立せんとするならば、山東炭の価値を無視するを許さぬと共に、更に、山西大炭田の世界的価値を逸するを得ないだろう。」(「日本と山東の特殊関係」十九頁) 山崎は、勿論、こういうことを知っていた。 「満蒙の特殊利益は、日本が高価なる犠牲を払い、巨額の資金を投下して開拓したるものである。飽くまでこれを擁護する必要がある。ある場合、山東を放棄するとも、満蒙の特殊利益は、最後まで保持せねばならない。満蒙は先であり、山東は後である。満蒙のためには国力を賭しても争わねばならぬが、山東は、或る程度まで忍ぶも已むを得ない。かゝる議論をなすものがある。勿論、満蒙の天地が広大であり、その利害が広汎であり、その全局の得失は極めて重大である。しかし、広東に起りたる支那の民族革命、共産主義者の潜航運動は、今や完全に中部支那を浸潤し、北部及び満洲にも、その魔手をのばさんとする状態にある。山東は満蒙の障壁として、又、重大なる価値を有するものである。山東ありて、満蒙も安全たり得るのである。況んや山東が、その地理的優越に於て、その軍需的価値に於て、その黄河流域無限の富庫を後方地帯に抱容する点に於て、我等は国防上、国民生活上、永久にこれを勢力圏中より逸し去ることは出来ない。米国資本家の如きは、早くも黄河の氾濫地帯が棉花栽培に適することに着目し、調査の歩を進めている。もし、この地に棉産を得るとせば、日本は米国より棉花の輸入を仰がずとも済む時節が来るかもしれない。日本にして、山東の主人公たる優越的地位を失うならば、日本は将来、鉄と石炭との独立を全うすることが出来ない。のみならず、日本は北支那より退却し、退嬰自屈の政策の下に、国運の日に淪落に傾くことを如何ともなし能わざるに至るであろう。支那大陸広しと雖も、我が経済的勢力の絶対に支配する地域は、満蒙を除けば山東あるのみである。日本は過去十余年間、巨額の資本と高貴なる犠牲(日独戦争)を払いて、山東の資源を開発し、現に邦人の投資額約一億五千万円に達する。我等は、我が同胞が、粒粒辛苦の余に開拓したる経済的基礎を擁護し、発展し、確保することは、当然と云わねばならぬ。」(同上書三十一頁より三十二頁) 山崎は、勿論、こういうことは知り悉していた。そこへのアメリカの策動が、どんな意味を持っているか、それは日本人なら、云わずとも、すぐ神経にピリッと来る筈だ。 彼は、同僚を出し抜こうと野心した。 こういうことは、もう本になって出ていることだ。誰れにでもしれ渡っていることだ。しかし、この土地に於ける、もっと具体的な事実については誰れも知る者がなかった。そして、それが重要なことだ。 彼は、最近中津から手に入れた支那人の陳長財を使って、そこへもぐりこもうと計画していた。
一三
夜は暗くなってきた。 人の通りは疎らになった。 しかし、この星がきらきら瞬いている夜空の下の一角で、騒がしい乱が行われている。その騒音がどこからともなく、空気を泳いで伝わって来た。 山崎は、アカシヤの葉がのび、白い藤のような花がなまめかしく匂う通りを、気慌しげに往き来した。彼は、不機嫌だった。不機嫌なのは、一緒に出かける筈の陳がまだ帰ってこないからだ。 アカシヤの樹の下には、カギをつけた長い竹竿で、子供達が、白い藤のような花を薄暗い街燈にすかして、もぎ取ろうと肩が凝るほど首を上に向けきっていた。その子供達は、よう/\垂れだした花を昼間から、夜にかけてあさっていた。彼等は、その花をむしり取って食べるのだ。 枝がカギにひっかけられて、ポキンと折れていた。 「枝まで、折っちまっちゃア、駄目じゃないか!」 ひもじい子供たちは、花を食って、おなかをこしらえる。 「お、おい、山崎(しゃき)さん!」 幾分びっくりした叫声に、ほかのことを考えていた山崎は、ぎくっとした。洋車をとめると、福隆火柴の小山がおりてきた。工場内で、工人を慄えあがらし、えらばっている小山は、通りへ出ると顎が落ちて、燐くさく、芯が頼りなげに、ひょろ/\していた。 「山東軍は散々な敗北でしゅよ。」小山は、サシスセソがはっきり云えなかった。骨壊疽で義歯を支えていた犬歯が抜け落ち、下顎の門歯がとれてしまったのだ。「あの勇敢なコシャック騎兵までが逃げてきまひた。」 他人事でないという小山の意気込み方である。 「この様子では、これゃ、どうしゅたって、共産主義がこっちまでやってきましゅぞ。」真に大事だという話し振りで、「早よ、内地へ軍隊をくり出しゅように云ってやって貰わなけゃ、財産(しゃん)や工場だけじゃない、頭やチンポまで引きちぎられてしゅまいますぞ!」 「ロシヤ兵は、今、退却してきたんですか?」 「ええ、ええ、やっぱし、(しがうまく云えなかった)郭店の方から、歩いてやって来たんだ。あんまり馬を馳らせしゅぎたもんだから、半分は、馬が途中で斃れてしゅまったんだそうだ。――今、やって来ましゅよ。これゃ、どうも、こんな風じゃ、どこかで、だいぶ蒋介石に尻押しをしてる奴があるんだな。わしゃ、どうも、そう睨む。」 「今夜中に、さぐっちまって、電報を打たなけゃ、ほかの奴等に先を越されるんだ!」「陳は、何をしてやがるんだろう。」彼はいらいらした。「もう、どうしたって、今夜中だ。明日の晩となれば、おそい。誰か、外の奴にしてやられちまう。」 状勢がひっ迫するに従って、五六人の彼の同僚が、方々から、ここをめがけてはいりこんできていた。 二馬路通りに、乱れた、元気のない、跛をひくような蹄の音がひびいた。跛の数は多い。 「そら、やってきだひた。やってきだひた。」 と、小山は云った。そして音響のくる方へ歩きだした。 やがて、何分間かたつと、せいのひくい、毛並のきたない、支那馬にまたがった白露兵がぐったりして、長靴を、地上に引きずりそうに、だらりと垂れて、薄暗い街燈の光の中に姿を現わした。 「こいつら、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」 小山は惜しげに云った。 馬を乗り斃してしまった連中は、跛を引きながら、脚をひきずっていた。それは、とぎれ、とぎれに、遠く、駅前通りの方にまでつゞいていた。途中でどっかへまぎれこんでしまった者もあると云う。 月給の不渡りと、食糧の欠乏と、張宗昌の無理強いの戦闘に、却って戦意を失ってしまった。彼等は、泰山を越して逃げ帰った連中だ。そのうちの一部だ。塩を喰わされた蛭のようだった。へと/\で、考えることも、観察することも、軍刀を握りしめる力もすっかり失って、たゞ惰性的に歩いている。立ち止まったら、もう、そのまゝそこでへたばってしまいそうだ。 「こいつらは、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」小山は繰りかえした。「あいつらが逃げて来るようじゃ、こゝが陥落するのも、もう時間の問題だ。」 その時、向う側のアカシヤの並木の通りで、ブローニングの音が一発して、誰れかが、乱雑な白露兵の列を横切って、こちらへとぶように走り出してきた。つゞいて、もう一発、銃声がした。山崎と、小山は、思わず立止まって、はっとした。逃げる男が二人の方へ突進してくる。従って銃口も二人が立っている方向へむけられている。と、瞬間に感じた。 疲憊しきった白露兵は、銃声にも無関心だった。振りむきもしなかった。 突進して来る男は、すぐ二人の前に来た。山崎は、眼のさきへ来た時、それが、陳長財だと気づいた。 「なに、まご/\してるんだ。馬鹿野郎!」彼は、いまいましげに怒鳴った。 「何をしてやがったんだい、今までも!」 が陳は、敏捷に山崎の前をとびぬけて、猿のように、家と家との間の狭い、暗いろじへもぐりこんでしまった。 「馬鹿野郎! 本当に仕様のない奴だ! 畜生!」 「知ってる奴でしゅか?」 小山は訊いた。 「あいつですか、あいつは、手におえん奴ですよ。使ってる奴ですがね、滑稽な奴で、二時間もどっかでぐず/\してやがって……」
陳長財は、現在、山崎にとって、ごく必要な人物だった。彼は、もと、上海の碼頭苦力だったという話である。中津が、青島から帰りに、周村でつれてきて、呉れてよこした男だ。 中津は陳を呼んで、魚心があれば水心だ。それ相当のむくいをしてやる。が、俺れと、俺れの兄弟を裏切るような行為をしくさったくらいにゃ、生かしては置かないぞ。お前だけじゃない、お母アをも生かしちゃ置かないから、と数言を費した。 「こいつは昨日まで南軍の密偵をつとめたかと思うと、今日は、早や、こっちへ寝がえりを打つような奴なんだから[#「なんだから」は底本では「なんだからら」]。」と、中津は、山崎に注意した。「ちびり/\しか金をやらないのに限るんだ。前金でも渡したら、もう、手にとれなくなっちまうぞ。君が、しょっちゅう、こいつをキュウキュウさしとく必要があるんだ。」 それから、又、 「こいつの云うことを、まるきり信用してかゝっちゃ駄目だよ。――それゃ、云うまでもないこっちゃが、支那人は金にさえなると思ったら、どんなありそうなことでもねつ造して持って来る奴なんだから。」 「うむ、分ってる、分ってる。」と、山崎は答えた。 陳は、独逸から送った武器の送り状とか、それを荷役している現場の写真、弾薬を受取った受取り、など、そんな重要な証拠物件を、どこからか手に入れていた。云いつけると、外交部から交付される筈の、外国へのパスポートまで、ちゃんと、印まで間違いのない印を捺して拵えてきた。だから、日本でパスポートがおりない者でも、ここで、支那人に化けて、支那の名前をつけさえすれば、陳の手でロシヤへのだって作ることができた。間違いのない筆で、領事館の裏書までしてあった。面白い。 「また、やってるな!」 山崎と歩いていると、ふと、見知らぬ男が、陳に、にやにや笑いかけて行きすぎることがある。一日に、二人や三人は、そんなえたいの知れない奴に出会した。この男は、どんなところへでも頸を突きこんでいるらしかった。 「今のは何者だい。」 「あれですか、なに、あいつは、ジャンクに乗ってた時、一緒に働いてた船方でがすよ。あれで、今なか/\金をしこたまこしらえてるんでがすよ。」 「貴様、しょっちゅう知り合いに出会すが、一体、こゝだけに何人知り合いがあるんだい?」 「僅かしかありゃしねえでがすよ、顔を知っとる奴なら、三百人もありますべえか。」 「馬鹿野郎! 三百人が僅かかい……」 こいつほど、人の懐中を見抜くことに機敏な奴はなかった。スリよりも機敏だった。その点、山崎自身も警戒してかゝらなければならなかった。支那で金を多額に懐中していることは、ズドンとやられる機会を、より多く持つことだ。 陳は、蒋介石の北上と共に、だん/\はいりこんで来た南軍の密偵と、便衣隊について調べるため街に出かけたのだ。そこで、金を持っている人間から、金をくすねようとして、やりそこなったのか、それとも、便衣隊にあんまりひつこくつきまとって、あやしく思われ、発砲されたのか、今、不意に逃げ出して来たのだ。
一四
約、二時間の後、二人は、城東のS大学へ洋車を走らしていた。 その大学は、日本軍と、南軍の衝突の際、盛んに活躍した便衣隊の本拠となったところである。日本の兵士は、その便衣隊に、さんざんなやまされた。それは、パルチザンと同じだった。彼等はすきをうかがって躍り出したかと思うと、すぐ安全な地帯へ逃げこんでしまった。 三千人の将卒が、総がかりで、その便衣隊を追っかけまわした。しかし、一人をも本当の奴を捕まえることが出来なかった。 彼等は、普通の良民と、同じような服装をしていた。兵士には、支那人なら、どれもこれも同じように見えた。安全地帯はアメリカ人の学校だった。 山崎は、陳から、そうらしいという話をきいた。そして、その便衣隊の巣へ這入りこんで見とどけよう、と決心した。陳長財の報告は、七割まではあてにならない。しかし、これだけは、本当だ、という直観が山崎にした。彼は、それを確実に突きとめて、今夜中に電報を送ろうと思った。それが出来れば彼は、儕輩を出し抜ける。それからもう一ツ、言葉も、服装も、趣味も、支那人と寸分違わない。彼は、どこへ行ったって、バレる気づかいがない。と思っていた。それを、確実に試験して、自信をつけて置きたかった。 それから、なおもう一ツ、こういう際どい芸当は、彼には、むしろ快楽となる。――これは、一生のうちの、俺の自慢話の種の一つとなるに相違ない、と彼は思った。 敵の陣地へ、しかも、はしっこい、便衣隊の本拠へ乗りこんで行く。これは一生のうちの、誇るに足る、業績の一つとなるに違いない! 俺の一生は、まだこれからだ。まだ/\これから、本当の仕事をやるんだ。人間は、三十代になっても、四十代になっても、なお、未来に期待をかけているものである。が、山崎は、この時、生涯に於て、今、本当の実の入った仕事をやっているのだ。未来ではない、現在だ! と感じた。 陳長財は、射撃されたいきさつを説明した。それから、 「こんな暴虎馮河の曲芸は、やめとく方が利口じゃないでがすか。」と、止めた。「今度ア、なかなか奴らの威勢がいいんですよ。」 「いや、俺れゃ、行くんだ。」と、山崎はきっぱり云った。「洋車を呼べ。奴らの威勢がよけりゃよい程こっちは、行ってたしかめてこなけゃならんじゃないか。」 「ズドンと一発やられたあとで、来なけゃよかったと、後悔したって、もう追っつかねえでがすよ。」 「分ってる!」 「わっしゃ、命がけでやる仕事であるからにゃ、ウンとこさ金がほしいなア。目くされ金じゃ、のっけから真平だ。」 「金は、いくらでも出すと云ってるじゃないか。うまく行きさえすりゃ。」 山崎は、さっきから学生服に着かえていた。陳も学生服を着た。
礫の多い、凸凹のところどころ崖崩れのある変な道で、洋車は歩くよりも遅くしか進まなくなった。二人は車をおりた。平生は、淋しい、大学に近い郊外の闇の中に、何か動く人の気配が感じられた。 「大丈夫かね。」陳は囁いた。 山崎は、自分でちっとも怖いとは思わなかった。それだのに、脚がひどく力がなく萎えこんだ。脚だけがどうしたのか、つい、五六間も歩いたら、へたばりやしないか、彼は、それを危ぶんだ。 「呀怎着了、!(おい、どうしていたい。……)」 ひょっと、狭い道を向うからすれ交るとたんに、人かげが声をかけた。が、中途で、人違いだと気づいたらしく、言葉を切って、疑い深げにあとを見かえした。 「蠢東西! (馬鹿野郎!)」陳長財は、振りかえりもせずに呶鳴った。 道の附近の、身の丈ほどの灌木の繁っているところにも、なお人が、動いている気がした。夜気がいくらか寒くなったようだ。 第一校舎の脇を通りぬけた。向うのアカシヤの植えこみに包まれた鈎型の第三、第四校舎の間で、焚火が見えた。若芽が伸びたアカシヤの葉末は、焚火に紅く染っていた。 「怖かないかね?」いざという場合には、自分の方が、一枚うわ手だと確信している陳長財は、冷かすように囁いた。「馬鹿! いらんことを喋っちゃいかん!」 山崎は真面目に叱った。と同時に、アカシヤの幹と幹との間で、「誰れだ、そこへ来るんは?」という支那語の声がした。 手にピストルを握っている有様が、遠くで燃え上った焚火にすけて見えた。 用心してやがるんだな。相手がやり出せば、やぶれかぶれだ、畜生! と考えて、山崎は腰のブローニングに手をやった。 「タフト先生はいらっしゃるかね?」 陳はやはり歩きながら訊ねた。顔をたしかめるため、黒い影はアカシヤの間から、近づいて来た。 「君は誰れだ?」と影は云った。 「師範部の学生だ。」 「名前は?」 「先生に、今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。」山崎は横から支那語で呶鳴った。「学生が学校へ這入って行くんが、何故に文句があるんだい!」 歩哨小屋のような門鑑の前をぬけて、柵をめぐらした校内に這入ると、彼は、陳長財のかげにかくれて、焚火からは見えないように、一歩ほどあとにおくれた。 陳は、この便衣隊の巣へ乗りこみながら、ちっとも恐れたり、取りつくろったりする様子がなかった。 二人は宿舎の方へ進んだ。こいつ、南軍の奴と何か連絡を持ってるんじゃないかな。ふと、山崎は陳を疑った。金を出せば何でも喋るが、まさかの場合は、向うへつく。そういう奴じゃないかな。 いくつも、いくつもの、適当に区切られた真暗の部屋の中に挾まれて、一つだけ電気のついたのがあった。支那語の話がもれていた。 二人は、窓の下を通って、暗い廊下へ曲った。反対側に出ると、その部屋の、入口は開けはなたれていた。鉄砲をガチャ/\鳴らしたり、弾丸を数えたりする音が聞えた。明らかに大学生ではない。黒服の支那人が、室内で、左の肘を水平に曲げ、拳銃をその上にすえて、ねらって撃つ真似をしていた。 その男は、ガチッと引鉄を引いた。 「命中!」 が、弾丸が這入っていないと見えて発射はしなかった。 「おや、こんな、ロシヤの弾丸がまじっていやがら――こいつのさきは、両方とも尖っているんだぞ。」 弾丸を数えている奴が笑い出した。 「ロシヤは腹背に敵を受けとるからだべ。」 彼等は、入口に立っている陳と山崎に気づくと、ふと口を噤んで、訝かしげに、二人を見すえた。 「呀! 吃晩飯了! (いよう、今晩は。)」 つとめて気軽く、山崎は部屋の中へ一歩踏みこんだ。その時、彼は、陳が、黒服の支那人と眼でお互いに笑い合ったような気がした。 隅の暗いところで武器をいじっていた、いな頭の若い男は、彼の声をきゝつけて、わざ/\ほかの者の前に来て、じっとこっちの顔を見た。 「諸君は、どっちからやって来たんだね。……上海の方は大変景気がいゝって話じゃないか。本当かね。」 誰も、何とも答えなかった。お互いに、何かもの云うような眼で顔を見合って、黙っていた。山崎は、あまり話が上わずッていたと、また後悔しながら、心臓に押しよせる血の高鳴りを聞いた。 部屋の中には、約二十挺の鉄砲と、箱に這入った拳銃が古靴を積重ねた傍に置いてある。一方の白い壁には、日本と朝鮮の地図を両足に踏んだ田中義一が、悪魔のような爪の伸びた長い手で、満洲、蒙古、山東地方を一掴みに掴みとろうとするポスターが、二枚つゞけて貼りつけてある。 「中国人、不斉心、日本鬼、逞野心。」 傍にはこう書いてある。 もう一方の窓の上の壁には、人民から強奪、強姦して国を売る張作霖の漫画と、共産党とソヴェートロシアを、「共産賊党」「赤色帝国主義」と称しているポスターが、電燈の陰影の背後に、ボンヤリと並んでいた。これは、上海あたりで、既に、たび/\見受けたものだ。 米国は、こっちの野心を、もう、穿ちすぎるほど穿っているんだ。ポスターを見て、山崎は感じた。 満洲、蒙古、山東地方は、こっちが取らなけゃ、かわりに米国がそれを取るんだ。アメリカ人は、労働賃銀が動物なみで、原料がいくらでも得られる、殆んど組織がない支那へ眼をつけている。大工場、大銀行を持ってこようとしている。支那人すべてを、賃銀奴隷としてしまおうとしている。 「こんなにおそく、女郎買いにでもさそいに来たんか。」一人のせいの低い滑稽な顔をした支那人が、眼尻を下げて笑った。 山崎は、こっちからも笑いでそれに答えながら、陳長財に、どうだタフト先生の方へまわって見るかね、と言葉をかけた。すると、 「タフト先生、タフト先生!」と、髪を長くのばした若い一人が繰りかえした。「お前さん達、タフト先生に用事があるんかね。」 「今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。」 山崎は、ためらい/\語をつゞけた。 「ふむ、む。おっつけ先生は二階からおりていらっしゃる時分だよ。」 「そうかね、それじゃ丁度いゝところへ来た訳だな。」 彼は、うますぎる支那語の口が辷って、心にもない、反対のことを喋ってしまった。彼はタフトを知らなかった。タフトにこの場へやってこられるのは一番困ることだ。 陳は、そこの支那人と並んで、腰かけに腰かけ、南京から何人くらい一緒にやって来たか、今夜はなお、あとから何人くらい来る見込みか、月給はいくら貰っているか、そんなことをたずねだした。 山崎は、前門牌(煙草の名)を出してマッチをすった。――こいつが一本燃えつきてしまったら引きあげよう。彼は心できめた。前門牌が一本なくなるのは五分間だ。その間なら、タフトはまだやって来ない気が彼にはした。煙草一本を安全時間ときめる根拠は、全く迷信から来ていた。しかし、一度それをきめると、それを実行した。山崎はそんな人間だった。 彼は、自分の煙草に火をつけると、口を切った前門牌の袋をそこに居る者達の前に出してすゝめたが、陳以外、誰も貰おうとする者がなかった。髪の長いさっきの男は、じっと、彼のつまさきから、頭の髪まで丹念に、ちびる程執拗に睨めながら、もう一度、タフト先生に、どんな用事かときゝ直した。 山崎は、敵意を持たれていると感じながら、日本の出兵に及んでいた陳長財の話に耳を奪われているものゝように、吸いこんだ煙を、そこにはき出して話のつゞきをとった。いくら日本軍がやって来たって、今度の北伐軍の前には、牛車に向かうとうろうだよ、と笑った。 「あの鬼は、どこへやって来たって、人を食わずにゃ帰らねえや。」いな頭の若い奴が憎々しげに口を出した。 「いや、あの……(鬼がと云おうとしたが、流石に自分を鬼とは云えなかった)日本軍が強いのは、正服を着た軍隊に対した時だけだよ。平常服の俺等にゃ、いくら日本軍でも手が出せめえ。」と山崎は訊ねるようにつゞけた。誰れも疑わしげに同意しなかった。 煙草はだん/\残り少なくなって来た。何気なげに、笑ったり喋ったりする一方、彼の耳は、しょっちゅう、廊下のタフトがやって来る靴音に向って、病的に働いた。支那人がばた/\歩いて来る音にも、彼は、とび上りそうだ。 「さあ、もう、引きあげよう。」五分程になった煙草を、足のさきでもみ消しながら考えた。 陳は、声をひそめて、蒋介石が、アメリカから二千万円貰ったことに、話を引っぱって行った。今度は、独逸人の軍事顧問ばかりで、日本人には、見学さえ許していないそうだが、本当か、アメリカは、北伐軍には、もっと金を出す腹じゃないか、二千万円は、貧乏たれの日本人ならともかく、アメリカにしちゃケチくさいじゃないか、など話しはじめた。 暗い隅の方へよって行った三四人が、何か不審げに囁きだした。 山崎は、自分が疑われているばかりでなく、正体を見破られた、と思った。彼は、もう陳が、話を打ち切るか、打ち切るか、と、一分間を十時間ほどに長く感じながら入口に行った。 彼は暗い廊下の足音に耳を傾けた。遠く、二階から、梯子段をおりて来る靴の音がした。陳はまだ、可笑しげに、呵々と笑ったり、喋ったりしている。靴は、どうも、こっちへやってくるらしい。 彼は、殆んど何も考えるひまもなしに、たゞ陳に何か云って、廊下へ出た。十秒間に、十五間ほどを、曲り角まで足が宙をとんでやってきた。そこで彼は立止った。陳は、出てくる気配がなかった。 山崎は、支那人に追っかけられる。と、予期しつゝ、なお、しばらく、様子をうかゞった。陳は、親しげに、おかしそうに笑いながら、とうとう出て来た。つゞいて、支那人が、どや/\と崩れ出て来た。彼は、ハッとした。どっかで爆音が起った。 五秒の後、それは、武器を積んだトラックが、校庭に着いたのだと知れた。 焚火にあたっていた者どもや、部屋にいた連中が、車からおろされる武器をかつぎこんだ。 陳と山崎は、暗い夜露のおりた芝生の上に立ってそれを見ていた。タフトらしい、せいの高い、鼻筋の通った、アメリカ人が支那語を使って何か指図をしていた。 武器は大型のトラックに、一ぱい積込んできていた。 「おい、おい、張り番はもういゝ。大丈夫だ。お前らも来て手伝ってくれ。」 ふと、鼻の高い男が、学生服の二人を見つけて声をかけた。 「はい。」 咄嗟に、気軽く陳はとび出て行った。 その恰好を、山崎はおかしく、くつ/\笑いながら、自分は、小さくなって、うしろの方へ引きさがった。
「これゃ、どっちにしろ戦争だ!」彼は、帰りがけに、陳に囁いた。「だが、今夜こそ、俺れゃ、お前に感謝するぞ。これで、すっかり手柄を立てることが出来た……何んて、気しょくのいいこっだろう!」 「金のこたア、忘れやすまいねえ?」 陳は、興ざめて冷静だった。 「うむ、いゝいゝ、忘れるもんか。きっとむくいるよ。だが、どっちにしろ、これゃ戦争にならずにゃいないぞ……」そして、彼は考えた。「これは、南軍と日本軍との戦争じゃない。これは、日本とアメリカの戦争だ。」
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