八
錆のきた銃をかついだ者が、週番上等兵につれられて、新しい雪にぼこ/\落ちこみながら歩いて行った。一群の退院者が丘を下って谷あいの街へ小さくなって行くと、またあとから別の群が病院の門をくゞりぬけて来た。防寒帽子の下から白い繃帯がはみ出している者がある。ひょっくひょっく跛を引いている者がある。どの顔にも久しく太陽の直射を受けない蒼白さと、病人らしいむくみがあった。その顔に銃と、弾薬盒と、剣は、どう見ても似つかわしくなかった。 珍らしく晴れ渡った朝だ。しかし、下って行く者は、それをたのしむ色はなく、顔は苦りきっていた。 中隊では、彼等が帰って来るのを待っていた。セミヤノフカへ分遣する部隊に加えるか、メリケン兵に備える部隊に加えるか、そのいずれかだ。アメリカの警戒隊は、大きい銃をかついで街をねり歩いていた。意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。 二三人の小人数で、日本兵が街を歩いていると、武器を持ったアメリカ兵は、挑戦的につめよって来た。 兵士はヒヤ/\した。同時に、なんとも云えない不愉快な反撥したい感情を味わった。それは、朝鮮人が日本人に対して持つ感情だ。そんな気がした。彼等は、わざと知らぬ振りをして、而も、メリケン兵が居る側へ神経を集中して通りぬけなければならなかった。が、向うから、こっちを打った場合、それでもおだやかにと心掛け、打たれていることが出来るか。いや、それは出来ない。で、兵士の数を負けないだけ無理やり、ふやしておかなければならなかった。セミヤノフカへ一個隊行かなければならなことは、こゝで大きな打撃だった。 聯隊の二階では、長靴に拍車をつけたエライ人が、その拍車をがち/\鳴らしながら、片隅の一室に集って何か小声で話し合った。それから伝令が走らされたのだった。…… 大西も、栗本も、腰に弾丸がはまった初田も週番上等兵につれられておりてきた。 「こんなに、さわったらころびそうな連中を引っぱり出して鉄砲をかつがせるって法があるかい!」その群の一人が云った。 「数が足らんのだよ。」 「足らんだって、病人を使う法があるか!」 彼等の胸は、強暴な思想と感情でいっぱいだった。 彼等は、橇から引っかえした日に、一人一人、軍医の診断を受けた。それが最後の試験だった。それによって、内地へ帰れるか、再び銃をかついで雪の中へ行かなければならないか、いずれかに決定されるのだった。 病気を癒すことにかけては薮医者でも、上官の云ったことは最善を尽くして実行する、上には逆わない、そういう者の方が昇級は早い。軍医は、その軍隊のコツを十分呑みこんでいた。兵タイを内地へ帰えすと約束して、まだその舌の端が乾かないうちに、反対に戦場へ追いやるのは随分ツライ話だ。が、彼は、そのツライ話を実行しなければならないと考えた。 負傷者は、今、内地へ帰れなかったら、この次、いつ内地へ帰れるか、さきは暗闇だった。――鉄橋からの墜落、雪の中の歩哨、爆弾戦、忌々しいメリケン兵などが彼等の前に立ちふさがっているばかりだった。そこで彼等は、再び負傷か、でなければ、黒龍江を渡って橇で林へ運ばれて行く屍の一ツにならなければならないのだ。それは、堪え難かった。彼等は、知らず識らず傷をひどく見せ、再び役には立たん人間のように軍医に見せようと努めた。 軍医は、診断にやって来る兵士が、どれもこれも哀れげな元気のない顔をしているのを見た。 「私は、内地へ帰らして下さい!」 その眼は、純粋な憐れみを乞うていた。 「どうだ、もう並食を食うとるんだろう?」 軍医は、上唇を横にかすり取られた幼なげな男に、こうきいた。 「はい。」 「どれ、口を開けてごらん?」 この男は、アングリ口を開けて見せた。 「よし! もうよくなっとるね。」 そして、彼は、診断室を出て行くように、合図に手を動かした。その男は「よし」という声で中隊へかえされると感じて、 「私は、いつ、再び弾丸が降って来る下へ追いやられるような悪いことをしたんです!」 と、子供らしい眼で訴えた。そして、そこら中を見まわした。軍医の表情には冷たい、固いものがあるばかりだった。 その少年は、もう一度、上唇のさきが無くなった口を哀れげに拡げた、 「こんなにおとなしい無抵抗な者を殺してもいゝんですか!」と云うような眼をした。 「この眼に負けちゃいかん!」軍医は自分を鞭打った。 耳朶のちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。 「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。 「どうだな?」 「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」 「手を伸ばせるかい?」 「いゝえ、まだ伸びません。」 「これを握ってごらん。」 軍医の態度には、どっか柔かい、温かげなものがあった。栗本は、出された甲のすべっこい、小さい手を最大限度に力を入れて握ったと見せるために、息の根を止め、大便が出る位いきばった。その実、出来るだけ力を入れんようにして。 「傷はまだ痛いか。」 「はい。」 「よしッ!」 軍医は出て行くように手を動かした。と温かげなものが、急に、頑固な冷たいものに変った。 「自分はまだ癒っちゃ居らんでしょう! この病院でもいい、こゝに置いて下さい! いやだ! 俺ゃまだ銃がかつげないんです!」 栗本の眼はそれを訴えた。そして、軍医の顔を、何か反抗するように見つめた。 「よしッ!」 「始めの約束通り内地へ帰して下さい!」 彼の眼はもう一度それを訴えた。 「よしッ!」 軍医の頑固な冷たいものが、なお倍加して峻厳になってきた。 ベッドに帰ると、ひとしお彼の心は動揺した。まだ絶望したくはなかった。窓外には、やはり粉雪がさら/\と速いテンポで斜にとんでいた。――どっちへころぶことか! 今は、もうすべてが軍医の甲のすべっこい、光っているあの手一つに握られているのだ。 彼は診断室の方の物音と、廊下を通る看護卒の営内靴に耳をすまして時を過ごした。甲のすべっこい、てら/\光っている手は信頼できない性格の表象だ。どっかの本で見た記憶が彼を脅迫した。三時半を過ぎると、看護卒が卑屈な笑い方をして、靴音を忍ばし、裏門の方へ歩いて行った。五十銭持って、マルーシャのところへ遊びに行ったのだ。不安は病室の隅々まで浸潤してきた。栗本は夕飯がのどを通らなかった。平気でねているのは、片脚を切断した福島と、どうせ癒る見込みがない腹膜炎の患者だけであった。 電燈がついてから、看護長が脇の下に帳簿をはさんで、にこ/\しながら這入って来た。その笑い方は、ぴりッとこっちの直観に触れるものがあった。看護長は、帳簿を拡げ、一人一人名前を区切って呼びだした。空虚な返事がつづいた。 「ハイ。」 「は。」 「は。」 呼ばれた顔は一ツ一ツ急にさッと蒼白になった。そして顔の筋肉が痙攣を起した。 「ハイ。」 栗本はドキリとした。と、彼も頬がピク/\慄え引きつりだした。 「今、ここに呼んだ者は、あした朝食後退院。いゝか!」 同じように、にこ/\しながら看護長は扉を押して次の病室へ出て行った。 結局こうなるのにきまっていたのだ。それを、藁一本にすがりつこうとしたのが誤っていたのだ。栗本は、それが真実だと思った。病院は負傷者を癒すために存在している。負傷者を癒すと弾丸がとんでいるところへ追いかえすのだ。再び負傷すると、またそれを癒して、又追いかえすだろう。三回でも、四回でも、五回でも。 一つの器械は、役に立たなくなるまで直して使わなければ損だ。それと同じだ。そのために病院の設備はよくしなければならない! 恐らくこれからさき、ます/\よくされるだろう。しかし、それは吾々には何にもなりはしない。 栗本は、ドキリとした瞬間から、急激に体内の細胞が変化しだしたような気がした。彼はもう失うべき何物もなかった。恐るべき何者もなかった。どうせ死へ追いやられるばかりだ。
彼等は丘を下って行った。胸には強暴な思想と感情がいっぱいになっていた。足を引きずっているものがある。ひょっく/\跛を引いている者がある。防寒帽の下から白い繃帯がはみ出している者がある。彼等は、銃をかつぎ、弾薬盒と剣を腰にまとっていた。どの顔からも、まだ、患者らしい疲労がとれていなかった。 すが/\しい朝だ。バイカル湖の方から来る風に、雪を含んだ雲が吹き払われて、太陽が遠い空に素裸体になっていた。彼等は、今、気がねをすべき何者もなかった。何者にもとらわれることはいらなかった。鬱憤とした思想と感情は、それを慰める手段を取るのが自分達に当然だと考えていた。 新しい雪は、彼等の靴の重みにボコ/\落ちこんだ。彼等は、それを蹴って歩いて行った。……
(一九二八年十一月)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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