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氷河(ひょうが)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 6:23:35 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



      三

 寒暖計の水銀が収縮してきた。氷点以下七度、十一度、十五度、そして、ついに二十度以下にさがってしまった。
 ソビエットを守るパルチザンの襲撃は鋭利になりだした。日本の兵士は、寒気のために動作の敏活を失った。むくむくした毛皮の外套を豪猪いのしゝのようにまんまるくなるまで着こまなければならない。左右の手袋は分厚く重く、紐をつけた財布のように頸から吊るしていなければならない。銃は、その手袋の指の間から蝋をなすりつけたようにつるつる滑り落ちた。パルチザンはそこへつけこんできた。
 兵士達は、始終過激派を追っかけ、家宅捜索をしたり、武器を押収したり、夜半に叩き起され、やにわに武装を整えて応援に出かけたりしなければならなかった。鉄道沿線へは多くに分れて小部隊が警戒に出かけた。栗本の中隊は、汽車に乗ってイイシの警戒に出かける命令を受けた。汽車には宵のうちから糧秣や弾薬や防寒具が積込まれた。夕闇が迫って来るのは早く、夜明けはおそかった。
 栗本は、長い夜を町はずれの線路の傍で、幾回となく交代しつゝ列車の歩哨に立った。朝が来るのを待って兵士達は、それに乗りこんで出発するのだ。寒気は疼痛をもって人に迫ってきた。警戒所でとった煖炉ペーチカの温度は、ドアから出て二分間も歩かないうちに、黒龍江の下流から吹き上げて来る嵐に奪われてしまった。防寒靴は雪の中へずりこみ、歩くたびにふごのようにがく/\動いた。それでも足は、立ち止っている時にでも常に動かしていなければならない。静止していると、そこが凍傷にかゝるからだ。
 夜がふけるに従って、頭の上では、星が切れるように冴えかえった。酒場のある向うの丘からこちらの丘へ燈火をつけない橇が凍った雪に滑桁すべりけたをきし/\鳴らせ、線路に添うて走せてきた。蹄鉄のひゞきと、滑桁の軋音の間から英語のアクセントかゝったロシア語が栗本の耳にきた。
「止まれッ!」
 ロシアの娘を連れ出したメリケン兵が酒場から帰って来る時分だ。
「止まれッ!」
 馭者のチョッ/\という舌打ちがして、橇は速力をゆるめた。
「誰だ?」
「心配すんねえ!……えらそうに!」
 声で、アメリカ兵であることが知れた。と同時に、別の弾力性のある若い女の声が闇の中にひゞいた。声の調子が、何か当然だというように横柄にきこえた。瞬間、栗本はいつもからの癇癪を破裂さした。暗い闇が好機だという意識が彼にあった。振り上げられた銃が馬の背に力いっぱいに落ちて行った。いつ弾丸の餌食になるか分らない危険な仕事は、すべて日本兵がやらせられている。共同出兵と云っている癖に、アメリカ兵は、たゞ町の兵営でペーチカに温まり、午後には若い女をあさりにロシア人の家へ出かけて行く。そこで偽札を水のように撒きちらす。それが仕事だった。而もそのさつは、鮮銀の紙幣そっくりそのまゝのものだった。出兵が始まると同時に、アメリカは、汽船に二杯、偽札を浦潮へ積みこんできた。それを見たという者があった。
「何でばけの皮を引きむいてやらんのだ!」
 兵士達は、偽札を撒きちらされても、強者には何一ツ抗議さえよくしない日本当局の無気力を憤った。メリケン兵は忌々いま/\しく憎かった。彼等は、ひまをぬすんで寝がえりを打った娘のところへのこ/\やって行って偽札を曝露した。
「何故?」
 肌自慢の鼻の高いロシアの娘は反問した。
「じゃ、これと較べて見ろ!」
 1カ月の俸給に受取った五円いくらかのその五円札を出して見せた。
「アメリカ人がどうして、日本の偽札を拵えるの? え、どうして拵えるの?」娘は、紅を塗ったような紅い健康そうな唇を舌でなめながら真顔になった。紅い唇はこっちの肉感を刺戟した。ロシアの娘にはメリケン兵の不正が理解せられないところだった。「これが偽札なら、あんた方がこしらえたんでしょう。そうにきまってる! どうしてアメリカ人に日本の偽札が拵えられるの?」
「馬鹿云え、俺等が俺等の偽札を使うか!」彼等は裏から敵を落すことを知らなかった。
「アメリカ人はずるいんだ。だから弗の偽札は拵えずに、円の偽札を拵えるんだ。ろくな奴じゃない!」
 娘は、十五でもう一人前の女になっていた。脚の丈夫な、かゝとの高い女靴をはいて歩く時の恰好が、活溌で気色がよかった。日本の女には見られない生々さがあった。
 彼等は、ロシア人の家へ遊びに行くひまが、偸まなければできなかった。勿論偽札はなかった。しかし、何故、彼等ばかりが進んでパルチザンをやっつけに出しゃばらなければならないのだろう! そして、女はメリケン兵に取られてしまわなければならないのだ! そうして、ロシア人から憎悪と怨恨を受けるのは彼等ばかりだ。彼は、アメリカ兵が忌々しく、むず/\した。アメリカは、日本軍を監視するために出兵しているのだ。全く泥棒のような仕業に、自分達だけをこき使う司令官を「馬鹿野郎!」と呶鳴りつけてやりたかった。
 栗本は闇を喜んだ。殴られた馬は驚いてはね上った。橇がひっくりかえりそうに、一瞬に五六間もさきへ宙を辷った。アメリカ兵は橇の上から懐中電燈でうしろを照した。電気の光りで大きい手を右のポケットに突っこんで拳銃ぴすとるを握るのがちらっと栗本に見えた。
「畜生! 撃つんだな。」
 彼は立ったまゝ銃をかまえた。その時、橇の上から轟然たるピストルのひゞきが起った。彼は、引金を握りしめた。が引金は軽く、すかくらって辷ってきた。安全装置を直すのを忘れていたのだ。
「どうした、どうした?」
 ピストルに吃驚した竹内が歩哨小屋から靴をゴト/\云わして走せて来た。
 栗本は黙って安全装置を戻し、銃をかまえた。橇は滑桁の軋音を残して闇にまぎれこんだ。馬の尻をしぶく鞭の音が凍る嵐にもつれて響いてきた。
「どうした、どうした?」
「逃がしたよ。」
「怪我しやしなかったかい?」
「あゝ、逃がしちゃったよ。」
 栗本の笑う白い歯が闇の中にあった。

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