四
馬が苦しげに氷上蹄鉄を打ちつけられた脚をふんばって丘を登ってきた。岩に乗り上げた舟のように傾いた橇の底では兵士が、でこぼこのはげしい道に動揺するたび、傷を抑えて歯を喰いしばった。 「おや、また入院があるぞ。ウェヘヘ。」 観音経を唱えていた神経衰弱の伍長が、ふと、湯呑をチンチン叩くのをやめた。 負傷者は、傷をかばいながら、頭を擡げて窓口へ顔を集めた。五六台の橇が院庭へ近づいてきた。橇は、逆に馬をうしろへ引きずって丘を辷り落ちそうに見えた。馭者台からおりた馭者はしきりに馬の尻を鞭でひっぱたいていた。 「イイシへ行った中隊がやられたんだ。ウェヘヘッヘ。」 伍長は嬉しげに頓狂に笑った。 「何がおかしいんだ! 気狂い!」 やかましく騒ぐ音が廊下にして、もう血のしみ通った三角巾で思い/\にやられた箇所を不細工に引っくゝった者が這入ってきた。どの顔も蒼く憔悴していた。 脚や内臓をやられて歩けない者は、あとから担架で運ばれてきた。 「あら、君もやられたんか。」大西は、意外げに、皮肉に笑った。「わざと、ちょっぴり怪我をしたんじゃないか?」 「…………。」 腕を頸に吊らくった相手は腹立たしげに顔をしかめた。 「なか/\内地へ帰りとうて仕様がなかったんだからな。」 それにも相手は取り合わなかった。そして釦をはずした軍衣を、傷が痛くてぬげないから看護卒にぬがして呉れるように云った。痛がって、やっと服を取ると、血で糊づけになっている襦袢が現れた。それは、蒼白に、がく/\顎を慄わしている栗本だった。 看護卒は、負傷者にベッドを指定すると、あとの者を連れに、又、院庭へ出て行った。 さま/″\の溜息、呻き、訴える声、堪え難いしかめッ面などが、うつしこまれたように、一瞬に、病室に瀰漫した。血なまぐさい軍服や、襦袢は、そこら中に放り出された。担架にのせられたまゝ床の上に放っておかれた、大腿骨の折れた上等兵は、間歇的に割れるような鋭い号叫を発した。と、ほかの者までが、錐で突かれるようにぶる/\ッと慄え上った。 「こんなに多くのものが悉く内地へ帰されるだろうか。そんなことをすれば一年内に、一個聯隊の兵士がみんな内地へ帰ってしまわなければならないだろう。だが、そんなことはさせまい。――このうちから幾人かはシベリアに残されるんだ。」さきから這入っている者はそういうことを考えた。 軽い負傷者は、 「俺ゃシベリアに残される、その一人に入れられやしないかな?」心でそれを案じた。そして、なま/\しい傷を持って新しく這入って来た者に、知らず識らず競争と反感の爪をといだ。 「どこをやられたんだ? どんなんだ?」 頭を十文字に繃帯している三中隊の男が、疚しさを持った眼で、まだ軍医の手あてを受けない傷をのぞきこみにきた。 「骨をやられてやしないんだな?」 栗本は、何を意味するともなく、たゞうなずいた。 「そうかい。」 と、疚しさを持った眼は、ほッとしたように、他のベッドに向いた。そこで、又何か訊ねた。隣の病室でも、やかましく呻きわめく騒音が上りだした。 栗本は、何か重要なことを忘れてきたようで、焦点のきまらない方に注意を奪われがちだった。すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。 腕はしびれて重かった。それは、始め火をつけたようにくゎッ/\と燃え立っていたが、今では反対に冷え切って義足のように感覚も温度もなかった。出血を止めるため傷の上方をかたく紐で縛りつけた。それで手の方へは殆んど血が通わなくなっているのだった。腕は鉛の分銅でも吊るしているように重かった。 「あゝ、たまらん。早よ軍医殿にそう云って呉れろ!」 着かえたばかりの病衣に血がにじみだした。 「辛抱しろ!」通りかゝった看護卒がちょっと眼をくれた。と、その眼が急に怖く光ってきた。そして血に染まった病衣をじっと見つめた。「何だ、仕様がないじゃないか! 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」 「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」 呻きはつゞいて出てきた。 栗本は負傷することを望んでいた。負傷さえすれば、すぐ内地へ帰れると思っていた。そこには、母や妹や鬚むじゃの親爺が、彼の帰りを待っている。が、その母や、妹や、親爺は、今、どうしても手が届かない、遥かな彼方に彼とは無関係に生きているのだ。誰れも彼に憐れみの眼光を投げて呉れる者はなかった。看護卒は、たゞ忙しそうに、忙しいのが癪に障るらしく、ふくれッ面をして無慈悲にがたがたやっていた。昨日まで同じ兵卒だったのが、急に、さながら少尉にでもなったように威張っていた。 「誰れも俺等のためなんど思って呉れる者は一人も有りゃしないんだ。」栗本はベッドの上で考えた。「みんな、自分勝手なことばかりしか考えてやしないんだ!」 ――彼は、内地の茅葺きの家を思い浮べた。そこは、外には、骨を削るような労働が控えている。が、家の中には、温かい囲炉裏、ふかしたての芋、家族の愛情、骨を惜まない心づかいなどがある。地酒がある。彼は、そういうものを思い浮べた。――俺だって誰れも省みて呉れん孤児じゃないんだ! それを、どうしてこんな冷たいシベリアへやって来たんだ! どうして!……彼は嘆息した。と、それと一緒に、又哀れげな呻きが出てきた。 「どいつも、こいつも弱みその露助みたいに呻きやがって!」見廻りに来た、恩給に精通している看護長が苦々しく笑った。「痛いくらいが何だい! 日本の男子じゃないか! 死んどる者じゃってあるんだぞ。」 右を見ると、よく酒保の酒をおごって呉れた上等兵が毛布の下に脚を立て、歯を喰いしばりじっと天井を見つめていた。その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。 「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ! どうして、あんな引っくりかえされる列車に乗って行ったんだ!」 と、又溜息が出て、呻かずにはいられなくなった。 ――遠いはてのない曠野を雪の下から、僅かに頭をのぞかした二本のレールが黒い線を引いて走っている。武装を整えた中隊が乗りこんだ大きい列車は、ゆる/\左右に眼をくばりつゝ進んで行った。線路に添うて向うの方まで警戒隊が出されてあった。線路は完全に、どこまでも真直に二本が並んで走っている。町は、まもなく見えなくなり、列車は速力が加わってきた。線路は谷間にかゝり、やがてそこを通りぬけて、また曠野へ出た。 雪は深く、線路も、草原も、道もすべてが掃きならされたようだった。そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。 「異状無ァし!」 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。 「よろしい! 前進。」 そして、列車は轟然たる車輪の響きを高めつゝ橋にさしかゝった。速力は加わったようだった。線路はどこまでも二本が平行して完全だった。ところが、中ほどへ行くと不意にドカンとして機関車は脚を踏みはずした挽馬のように、鉄橋から奔放にはね出してしまった。 四角の箱は、それにつゞいてねじれながら雪の河をめがけて顛覆した。 と、待ちかまえていたパルチザンの小銃と機関銃が谷の上からはげしく鳴りだした。…… 日本軍の攻撃が厳重になればなる程、パルチザンの怨恨と復仇は鋭利になった。そして、それを慰むべき手段は次第に潜行的に、意表に出てくるのだった。 線路には、爆破装置が施されているのではなかった。破壊されているのでもなかった。たゞ、パルチザンは、枕木の下へ油のついた火種を入れておくだけだった。ところが、枕木は炭焼竈の生木のように、雪の中で点火されぷす/\燻りながら炭になってしまうのだった。雪の中で燻る枕木は外へは火も煙も立てなかった。上から見れば、それは一分の故障もない完全な線路であった。歩哨にも警戒隊にも分らなかった。而も、そこへ列車が通りかゝると、綿を踏んだように線路はドカンと落ちこみ、必然脚を踏み外すのであった。
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