国枝史郎伝奇全集 巻五 |
未知谷 |
1993(平成5)年7月20日 |
1993(平成5)年7月20日初版 |
1 天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂で片眼で無類の醜男、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳なのであった。 「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちんと穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。……まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」 「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。 「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を演るにも演り可いってものだ。どうだい親方そのついでに一両がとこ貸してくれないか。アッハハハこいつア嘘だ! さて」と言うと鬼小僧は、手拭いを二三度打ち振ったが、 「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」 云いながらヤンワリ結んだが、 「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」 「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。 「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」 グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。 「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。……ここに大きな盃洗がんある。盃洗の中へ水を注ぐ」 こう云いながら鬼小僧は、足下に置いてあった盃洗を取り上げ、グイと左手で差し出した。それからこれも足元にあった、欠土瓶をヒョイと取り上げたが、ドクドクと水を注ぎ込んだ。 「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」 懐中から紙包みを取り出した。 「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」 「ああ俺らが嘗めてやろう」 一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、 「やあ本当だ、甘え砂糖だ」 「べらぼうめエ、あたりめエよ。辛え砂糖ってあるものか。……そこで砂糖を水へ入れる。と、出来るのは砂糖水。これじゃア一向くだらねえ。手品でも何でもありゃアしねえ。そこでグッと趣向を変え、素晴しい物を作ってみせる」 パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。 ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。 盃洗の水をザンブリと覆け、鬼小僧はひどく上機嫌、ニヤリニヤリと笑ったが、 「さあ今度は何にしよう? うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」 キッと空を見上げたが、頭上には裸体の大公孫樹が、枝を参差と差し出していた。 「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」 こう云って招くような手附をした。 と、公孫樹の頂上から、何やらスーッと下りて来た。それは小さな鳥籠であった。誰が鳥籠を下ろしたんだろう? それでは高い公孫樹の梢に、鬼小僧の仲間でもいるのだろうか? それに洵に不思議なのは鳥籠を支えている縄がない。鳥籠は宙にういていた。これには見物も吃驚した。ワーッと拍手喝采が起こった。鳥籠はスルスルと下りて来た。しかし下り切りはしなかった。地上から大方一丈の宙で急に鳥籠は止まってしまった。 「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。 「どうしたんだい、驚いたなあ」 呟いた途端に見物の中から、 「小僧、取れるなら取ってみろ!」 嘲るような声がした。
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