9 いかにもこの時お杉の局は、柳営大奥かつえ蔵の中で、まさに生命を終ろうとしていた。 かつえ蔵は柳営の極秘であった。 そこは恐ろしい地獄であった。地獄も地獄餓鬼地獄であった。 不義を犯した大奥の女子を、餓え死にさせる土蔵であった。幾十人幾百人、美しい局や侍女達が、そこで非業に死んだかしれない。 その恐ろしい地獄の蔵へ、どうしてお杉は入れられたのだろう? 自分から進んで入ったのであった。 お杉は家斉へこう云った。 「まだ大奥へ参らない前から、妾には恋人がございました。今も妾は焦れて居ります。その方も焦れて居りましょう。……妾は死骸でございます。恋の死骸でございます。……不義の女と云われましても、妾には一言もございません。……どうぞかつえ蔵へお入れ下さい」 これは実に家斉にとって、恐ろしい程の苦痛であった。愛する女に恋人がある。そうして今も思い詰めている。自分からかつえ蔵へ入りたいと云う。……一体どうしたものだろう? 「しかし大奥へ入ってから、密夫をこしらえたというのではない。決して不義とは云われない。思い切ってくれ、その男を。……かつえ蔵へは入れることは出来ない」 将軍の威厳も振り棄てて、こう家斉は頼むように云った。 「思い詰めておるのでございます。昔も、今も、将来も。……」 これがお杉の返辞であった。 もうこうなっては仕方がなかった。かつえ蔵へ入れなければならなかった。 江戸城の奥庭林の中に、一宇の蔵が立っていた。黒塗りの壁に鉄の扉、餓鬼地獄のかつえ蔵であった。 ある夜ギイーとその戸が開いた。誰か蔵へ入れられたらしい。他ならぬお杉の局であった。と、ドーンと戸が閉じた。蔵の中は暗かった。 燈火一つ点されていない。それこそ文字通りの闇であった。一枚の円座と一脚の脇息、あるものと云えばそれだけであった。 お杉は円座へ端座した。 恋人力石三之丞、その人のことばかり思い詰めた。 「三之丞様」と心の中で云った。 「どうぞご安心下さいまし。お杉は貴郎を忘れはしません。妾は喜こんで貴郎のために、かつえ死にするつもりでございます。思う心を貫いて、自分で死ぬという事は、何という嬉しいことでしょう。……」 蔵の外では夜が明けた。しかし蔵の中は夜であった。蔵の外では日が暮れた。蔵の中には変化がない。こうして時が経って行った。 お杉の心は朦朧となった。 ほとんど餓が極まった。 その時突然お杉が云った。 「妾には解る、貴男のお姿が! おお直ぐそこにお在でなさる。……ああ直ぐにも手が届きそうだ。……左様ならよ、三之丞様! 妾は死んで参ります。……妾は信じて疑いません。こんなに焦れている私達、一緒になれないでどうしましょう。美しい黄泉で、魂と魂と……」 お杉は脇息にもたれたまま、さも美しく闇の中で死んだ。 それは力石三之丞が、鬼小僧と邂逅した同じ夜の、同じ時刻のことであった。
10 一方吾妻橋橋畔の、三之丞と鬼小僧とはどうしたろう? 三之丞は地の上へ坐っていた。 鬼小僧は上から覗き込んでいた。 と、突然三之丞が云った。 「小僧、俺は腹を切る。情けがあったら介錯しろ」 抜身をキリキリと袖で捲いた。 「おっと待ってくれお侍さん。一体どうしたというんですえ? 腹を切るにも及ぶめえ」 鬼小僧は周章て押し止めた。 「辻斬りしたのが悪かったと、懺悔なさるお意なら、頭を丸めて法衣を着、高野山へお上りなさいませ」 「懺悔と?」 侍は頬で笑った。 「懺悔するような俺ではない。俺は一心を貫くのだ! お杉様が今死んだ。その美しい死姿まで、俺にはハッキリ見えている。俺は後を追いかけるのだ」 グイと肌をくつろげた。左の脇腹へプッツリと、刀の先を突込んだ。キリキリキリと引き廻した。 「介錯」と血刀を前へ置いた。 気勢に誘われた鬼小僧、刀を握って飛び上った。 「苦しませるも気の毒だ。それじゃア介錯してやろう。ヤッ」と云った声の下に、侍の首は地に落ちた。 「さあこれからどうしたものだ。せめて首だけでも葬ってやりてえ。……それにしても一体この侍、どういう身分の者だろう。何だか悪人たア思われねえ。……お杉様と云ったなア誰の事だろう? まさか浅草の赤前垂、お杉ッ子じゃアあるめえが。……まあそんなこたアどうでもいい。さてこれからどうしたものだ」 鬼小僧はちょっと途方に暮れた。 夜をかけて急ぐ旅人でもあろう吾妻橋の方から人が来た。 「うかうかしちゃアいられねえ。下手人と見られねえものでもねえ。よし」と云うと鬼小僧は、侍の片袖を引き千切り、首を包むと胸に抱き、ドンドン町の方へ走っていた。
数日経ったある日のこと、東海道の松並木を、スタスタ歩いて行く旅人があった。他でもない鬼小僧で、首の包みを持っていた。 「葬り損なって持って来たが、生首の土産とは有難くねえ。そうそうこの辺りで葬ってやろう。うん、ここは興津だな。海が見えていい景色だ。松の根方へ埋めてやろう。……おっと不可ねえ人が来た。……ではもう少し先へ行こう」 で、鬼小僧は歩いて行った。
爾来十数年が経過した。 その頃肥前長崎に、平賀浅草という蘭学者があった。傴僂で片眼で醜かったが、しかし非常な博学で、多くの弟子を取り立てていた。 彼の書斎の床間に、髑髏が一つ置いてあったが、どんな因縁がある髑髏なのかは、かつて一度も語ったことがない。 だが彼は時々云った。 「赤前垂のお杉さん、古い昔のお友達、あの人は今でも健康かしらん?」
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