救われた命、助かった心
これより少し以前のことであるが、桔梗屋の主人佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。 (娘は?) とこのことばかりを思っていた。 (どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!) 廊下の方から、部屋部屋から、二階からも階下からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を開閉する音が、凄まじく聞こえて来た。 ――五人の湯治客が囲炉裡側で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、縛め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。 それはほんの寸刻前のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは散々に逃げたからであった。 「娘は?」 暴風の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は灰神楽をあげている店の間を、グルグル廻りながら(娘は?)と佐五衛門は、そのことばかりを思った。 (あッ、風呂へはいりに行ったっけ!) やっと思い出した。そこで行燈を抛り出し、廊下の方へ走り出した。 「お父様アーッ」 と、お蘭が、その廊下から駆け込んで来た。 「お蘭が! わッ、その風は!」 お蘭は、男の着物、それも襤褸のような着物を纒っていた。 「これ、権の着物よ、三国峠の権の……」 「権の? じやア手前、……」 「逢ったの、権と。……風呂で……」 「ヒエーッ、それじゃア手前、体を、権に! ヒエーッ、嫁入り前の体を!」 「何云ってるのよ。権、いい人だわ、恥ずかしがり屋だわ。悪人じゃアないわ。妾の眼に狂いはないわ! ……助けてやらなけりゃア! 捕られちゃア可哀そうよ」 「手エ付けなかったと? お前へ!」 (本当だろうか?) (本当ならどんなに有難いことか!) と思う心の裏に、そんなことのあろう筈がないという不安が、すぐに湧いて来た。 (兇悪で通っている三国峠の権が、若い娘と、人のいない風呂で……) ムラムラと疑惑が募るのであった。 でも、彼は、娘が、ひたむきに権を助けようとして焦心るばかりで、権に対し、怒りも悲しみも怨みもしていない様子を見ると、やはり権が、自分の娘へ毒牙を加えなかったことを、認めるより仕方がなかった。 (好きな許婚の進一と、一月先になると、夫婦になることになっている娘だ、それが泥棒に……そんなことをされようものなら、泣き喚き怨み憤るは愚か、突き詰めた心で、首を絞るぐらいのことはやるだろう。それだのにどうだお蘭は、泥棒の権を助けようとして夢中になっている。……とすると権は、やっぱり、ほんとうに、お蘭に手をつけなかったんだ!)[#「なかったんだ!)」は底本では「なかったんだ!」] 「偉えぞ権!」 と、佐五衛門は、嬉しさと、感謝と、神々しい奇蹟にでも遭遇たような心持ちとで、思わず喚き出した。 「悪人じゃアねえとも、権! 悪人どころか、神様みたいな男だ!」 「竹法螺を、お父さん、竹法螺を!」 「吹くか、いいとも、竹法螺吹いて、捕り方の奴らを!」 柱にかけてあった竹法螺を佐五衛門はひっ外した。 「妾が吹く、妾が!」 と、お蘭は、父親から竹法螺をひったくると、蹴放されたままで、月光を射し込ませている表戸の開間から、戸外へ走り出た。 その後を追って佐五衛門も走った。 と、その時、捕り方の叫ぶ声が聞こえて来た。 「方々、ご用心なされ、三国峠の権の手下五人が、この湯宿に、権めを待ち迎えおるということでござるぞ!」 (あッ) と佐五衛門は、それを聞くと、思わず口の中で叫んだ。そうして思った。 (そうか、これで解った、炉端に集まっていた五人の湯治客、三国峠の権の手下だったんだ。あいつらの話した話は――片耳を切られた武士の話は、権の過去の出来事だったんだ。ああいう話を俺らに聞かせておいて、こんな場合に、味方になってくれと謎をかけたんだ。それに違えねえ。……つづけざまにあんな目に逢わされりゃア誰だって悪党にならア。……三国峠の権、根は善人とも!)
谷の方から竹法螺の音が聞こえたので、捕り方たちは、三国峠の権が捕えられたと思ったのだろう、屋内や木蔭などから走り出し、谷を目ざして走って行った。と、その隙を狙い、五人の手下に護られた三国峠の権が、谷とは反対の、山の方へ遁がれて行くのが見られた。一刻も早く姿を隠さなければならなかった。見れば、主屋と離れて、山の中腹にかけづくりになっている別館があって、主屋と廊下でつながれていた。あの別館へ一時身をかくし、手下どもが用意して来た衣裳と着換えよう――こう権は思った。そこで崖をよじ上り、廊下へ這い上がった。部屋の中へ駆け込もうとしたとたんに、 「……権よ! この耳を切っておくれ!」 という女の声が聞こえ、部屋から女が走り出して来た。 「…………」 「…………」 権之介――三国峠の権と松乃とはヒタと顔を合わせた。 谷からは尚お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来ていた。 「権! ……権之介様、恨みある妾の耳を、さあお切りくださいませ!」 谷からは、――本当は悪党ではない三国峠の権よ、早くここから逃げておくれというように、お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来た。 「俺ア」 と権は云った。 「お前なんか知らねえ、昔から今までお前のような女知らねえ」 松乃は廊下へ仆れた。 耳の痛みが次第に消えて行く中で彼女は思った。 (救われた! 妾は救われた)
三国峠の林の中を、五人の手下と一緒に、今は悠々と歩きながら、三国峠の権は思った。 (誰が吹いたかしらねえけれど、竹法螺のおかげで、俺ア助かったのだ)
権はその後改心したという。
●表記について
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