大盗になった理由
(厭な話だこと) とお蘭は思った。 (男も男だけれど、女の方が悪いわ……) この囲炉裡側へは、毎夜のように客が集まって来て、無聊なままに世間話をした。それを聞くのを楽しいものにして、お蘭も、毎夜のようにここへ来て、お母親さんが早く死去り、お父親さん一人きりになっている、その大切なお父親さんの側に坐り込み、耳を澄ますのを習慣としていた。 しかし十七歳の、それも一月後には嫁入ろうとする処女にとっては、今の「女を憎む男の話」は嬉しいものではなかった。 (わたし行って寝ようかしら) 「ところが、そのお侍さんは気の毒にも、女のためばかりでなく、金のために、とうとう半生を誤りましてねえ」 と、絹商人だという男が話し出したので、お蘭は、つい、また聞き耳を立てた。 「その後、そのお侍さんは、いよいよ零落し、下谷のひどい裏長屋に住むようになられたそうです。ところがその長屋の大屋さんですがちょっとした物持ちでしてな、因業だったので憎まれていましたが、大屋のうえに金持ちなので歯が立たず、店子たちは歯ぎしりしながらも追従していたそうです。ところがある晩、祝い事があるというので、この大屋さん、店子一同を自宅へ招待んでご馳走したそうで。とそこへ新鋳の小判十枚が届けられて来たそうです。ナーニ、その小判の自慢をしたかったので大屋の禿頭、店子たちを招待んだんで。さて自慢をしたはいいが、ご馳走が終ってみんな帰った後で、小判を調べてみると、一枚不足しているんで。盗られた! と思ったとたんに自分と一番近く並んでいた貧乏なお侍さんの、物欲しそうだった顔が眼に浮かんで来たそうで。そこで『盗んだなアあいつだ』と云いふらしたそうで。これが長屋中の評判になったんですねえ。お侍さんはとうとう居たたまらずに長屋を出たそうですが、出る際黙って小判一枚を大屋さんの門口から抛りこんだそうで。『やっぱりあいつがやったんだわい』と大屋さんはまたこのことを云いふらしたそうですが、その実お侍さんは、大事な刀を売りはらって、その金で償ったのだそうです。ところがどうでしょうその年の大晦日になって、煤払いをしたところ、なくなったと思った新鋳の小判が畳の下から出て来たそうで。さあさすがの大屋さんも参りましたねえ。『あのお侍さんにあやまらなければならねえ』とその行方をさがしましたが、行方がわからない。当惑しながら日を送り、三月になるとお花見、向島へお花見に行ったところ、そのお侍さんが花の下で、謡をうたって合力を乞うていたそうで。そこで大屋の禿頭、オズオズ寄って行って、事情を話して小判を返そうとすると『エイ!』という鋭い声で。見れば大屋の首が堤の上に、ころがっていたそうで。というところへ行きたいんですが、やはり峰打ちで叩き倒したんだそうで。……しかし、それからが大変で『金がなければこそこの恥辱を受ける』とそのお侍さん、その晩大屋さんの家へ強盗にはいって、大金を奪いとったのを手始めに、大泥棒になったそうです」
風呂の中の人形
「泥棒に!」 と、脅えたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き、 「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」 「おおご主人もそうお思いか」 と、云ったは、易者という触れ込みの男であったが、 「それで安心」 と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。 「何んだろう」 と云ったのは、佐五衛門であった。 「季節違いだから鹿笛じゃアなし。……呼笛かな」 首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。 お蘭は立ち上がった。 「どこへ行くんだえ」 「お湯へはいって、それから寝るの」 「こんな晩は早く寝た方がいいなア」 五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。
お蘭は湯に浸かりながら空想にふけっていた。 (あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない) そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の良人となるべき、布施屋の息子のことであった。 (進一さんだって、わずかな金――小判一枚のゆきちがいぐらいで、人を叩き倒すような兇暴い性質の人じゃアないから安心だわ) 彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。 この湯殿は主屋と離れてたててあり、そうして主屋よりひくくたててあった。それで二十段もある階段が斜に上にかかって、その行き詰まりの所に出入り口があり、そこに古びた長方形の行燈がかけてあった。それでこの十坪ぐらいしかない湯殿は、ほんのぼんやりとしか明るくなかった。湯槽の広さは三坪ぐらいでもあろうか、だから高い階段の一番上に立って、湯に浸かっているお蘭を見下ろしたなら、薄黄色い行燈の光と、灰色の湯気とに包まれた、可愛らしい小さい裸体の人形が、行水でも使っているように見えたことだろう。明礬質のこの温泉は、清水以上に玲瓏としていて、入浴っている人の体を美しく見せた。胸が豊かで、膝から下の足が素直に延びているお蘭の体は、湯から出ている胸から上は瑪瑙色に映えていたが、胸から下は、白蝋のように蒼いまでに白く見えていた。お蘭は時々唇をとんがらせ、顔を上向け、眼の辺へかかって来る、絹糸のような湯気を吹き散らした。フーッと音を立てて吹くのであった。その動作は、罪のない子供の、屈托のない動作そのものであった。 フーッとまた吹いた。そうして笑った。 と、その時背後の方で物音がした。お蘭は振り返って見た。頬冠りをした一人の男が、階段の下に、行燈の光を背にして立っていた。 「まあ」 とお蘭は云った。 「それ妾の着物よ。どうするのさ」 男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。 「お湯へはいったらどう」 とお蘭は云った。 「お客様ね、何番さん?」 しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。 「おかしな人ね。……何番さんだったかしら? ……お湯へおはいりなさいよ」 そういうとお蘭は、背中を湯面へ浮かせ、蛙泳ぎをして湯槽の向こう側へ泳いで行き、振り返るとぼんのくぼを湯槽の縁へかけ、フーッと、唇をとんがらかして湯気を吹き、男と向かい合った。 「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたしかまやアしないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」 「はいってもいいかい」 と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも四辺を憚るように、押し殺した声であった。
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