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鎮西八郎(ちんぜいはちろう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-1 12:22:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     三

 さて為朝ためともは一にちはやくおとうさんを窮屈きゅうくつなおしこめからしてあげたいとおもって、いそいでみやこのぼりました。ところがのぼってみておどろいたことには、みやこの中はざわざわ物騒ものさわがしくって、いま戦争せんそうがはじまるのだといって、人民じんみんたちはみんなうろたえてみぎひだりまわっていました。どうしたのだろうとおもってくと、なんでもいま天子てんしさまの後白河天皇ごしらかわてんのうさまと、とうにおくらいをおすべりになって新院しんいんとおよばれになったさき天子てんしさまの崇徳院すとくいんさまとのあいだに行きちがいができて、敵味方てきみかたわかれて戦争せんそうをなさろうというのでした。朝廷ちょうてい二派ふたはかれたものですから、自然しぜんおそばの武士ぶしたちの仲間なかま二派ふたはかれました。そして、後白河天皇ごしらかわてんのうほうへは源義朝みなもとのよしともだの平清盛たいらのきよもりだの、源三位頼政げんざんみのよりまさだのという、そのころ一ばん名高なだか大将たいしょうたちがのこらずお味方みかたがりましたから、新院しんいんほうでもけずにつよ大将たいしょうたちをおあつめになるつもりで、まずおとがめをうけてしこめられている六条判官為義ろくじょうほうがんためよしつみをゆるして、味方みかた大将軍たいしょうぐんになさいました。為義ためよしはもう七十の上を出た年寄としよ[#「年寄としより」は底本では「年寄としよりり」]のことでもあり、天子てんしさま同士どうしのおあらそいでは、どちらのお身方みかたをしてもぐあいがわるいとおもって、
「わたくしはこのままこもっていとうございます。」
 といって、はじめはおことわりをもうげたのですが、どうしてもおれにならないので、しかたなしに長男ちょうなん義朝よしともをのけたほか子供こどもたちをのこらずれて、新院しんいん御所ごしょがることになりました。
 そういうさわぎの中に為朝ためともがひょっこりかえってたのです。為義ためよしももうむかしのように為朝ためともをしかっているひまはありません。おおよろこびで、さっそく為朝ためとも味方みかたくわえて、みんなすぐと出陣しゅつじん用意よういにとりかかりました。

     四

 為朝ためともはやがて二十八家来けらいをつれて新院しんいん御所ごしょがりました。新院しんいん味方みかたせいすくないので心配しんぱいしておいでになるところでしたから、為朝ためともたとおきになりますと、たいそうおよろこびになって、さっそくおそばにんで、
「いくさのきはどうしたものだろう。」
 とおたずねになりました。すると為朝ためともはおそれもなく、はっきりとちからのこもった口調くちょうで、
「わたくしはひさしく九州きゅうしゅうりまして、なんとなくいくさをいたしましたが、こちらからせててきめますにも、てききうけてたたかいますにも、夜討ようちにまさるものはございません。今夜こんやこれからすぐてき本営ほんえい高松殿たかまつどのにおしよせて、三ぼうから火をつけててた上、かってくるてきを一ぽうけてはげしくてることにいたしましょう。そうすると、火にわれてげてくるものはとります。をおそれてげてくものは火にてられていのちうしないます。いずれにしてもてきふくろの中のねずみ同様どうよう手も足もせるものではございません。それにあちらへお味方みかたがった武士ぶしの中で、いくらか手ごわいのはわたくしのあに義朝よしとも一人ひとりでございますが、これとてもわたくしが矢先やさきにかけてたおしてしまいます。まして清盛きよもりなどが人なみにひょろひょろの一つ二つかけましたところで、ついこのよろいそでではねかえしてしまうまででございます。まあ、わたくしのかんがえでは、けるまでもございません。まだくらいうちに勝負しょうぶはついてしまいましょう。御安心ごあんしんくださいまし。」
 といいました。
 為朝ためともがこうりっぱにいきりますと、新院しんいんはじめおそばのひとたちは、「なるほど。」とおもって、よけい為朝ためともをたのもしくおもいました。するとその中で一人ひとり左大臣さだいじん頼長よりなががあざわらって、
「ばかなことをいえ。夜討ようちなどということは、おまえなどの仲間なかまの二十か三十でやるけんか同様どうようぜりあいならばらぬこと、おそおおくも天皇てんのう上皇じょうこうのおあらそいから、源氏げんじ平家へいけ敵味方てきみかたかれてちからくらべをしようというおおいくさだ。そんな卑怯ひきょうきはできぬ。やはりけるのをって、堂々どうどう勝負しょうぶあらそほかはない。」
 といって、せっかくの為朝ためとものはかりごとをとりげようともしませんでした。
 為朝ためともは、おもしろくおもいませんでしたけれど、むりにあらそってもむだだとおもいましたから、そのままおじぎをして退しりぞきました。そしてこころの中では、
なにもしらない公卿くげのくせによけいな出口でぐちをするはいいが、いまにあべこべにてきから夜討ようちをしかけられて、そのときにあわててもどうにもなるまい。こんなふうでは、このいくさにはとてもてる見込みこみはない。まあ、はたらけるだけはたらいて、あとはいさぎよくにをしよう。」
 とおもいました。
 こう覚悟かくごをきめると、それからはもう為朝ためともはぴったりだまんだまま、しずかにてきせてくるのをっていました。
 するとあんじょう、そのばん夜中よなかちかくなって、てき義朝よしとも清盛きよもり大将たいしょうにして、どんどん夜討ようちをしかけてました。
 頼長よりながはまさかとおもった夜討ようちがはじまったものですから、今更いまさらのようにあわてて、為朝ためとものいうことをかなかったことを後悔こうかいしました。そして為朝ためとも御機嫌ごきげんをとるつもりで、きゅう新院しんいんねがって為朝ためとも蔵人くらんどというおもやくにとりてようといいました。すると為朝ためともはあざわらって、
てきめてたというのに、よけいなことをする手間てまで、なぜはやてきふせ用意よういをしないのです。蔵人くらんどでもなんでもかまいません。わたしはあくまで鎮西八郎ちんぜいはちろうです。」
 とこうりっぱにいいきって、すぐ戦場せんじょうかって行きました。
 為朝ためともれいの二十八をつれて西にしもんまもっておりますと、そこへ清盛きよもり重盛しげもり大将たいしょうにして平家へいけ軍勢ぐんぜいがおしよせてました。
 為朝ためともはそれをて、
弱虫よわむし平家へいけめ、おどかしていはらってやれ。」
 とおもいまして、てきがろくろくちかづいてないうちに、ゆみをつがえててき先手さきてかってかけますと、このまえってすすんで伊藤いとう六の胸板むないたをみごとにぬいて、つきぬけたうしろにいた伊藤いとう五のよろいそでちました。
 伊藤いとう五がおどろいて、そのをぬいて清盛きよもりところへもって行ってせますと、みの二ばいもあるふとさきおおのみのようなやじりがついていました。清盛きよもりはそれをたばかりでふるえがって、
「なんでもこのもんやぶれというおおせをうけたわけでもないのだから、そんならんぼうもののいないほかもんかうことにしよう。」
 と勝手かってなことをいいながら、どんどんして行きました。
 するとこんどはにいさんの義朝よしとも平家へいけわりにかってました。にいさんはにいさんだけの威光いこうで、いきなりしかりつけて為朝ためともおそらしてやろうとおもったとえて、義朝よしとも為朝ためともかおえるところまでますと、大きなこえで、
「そこにいるのは八郎はちろうだな。にいさんにかってゆみをひくやつがあるか。はやく弓矢ゆみやして降参こうさんしないか。」
 といいました。
 すると為朝ためともわらって、
「にいさんにゆみをひくのがわるければ、おとうさんにかってゆみをひくあなたはもっとわるいでしょう。」
 とやりめました。
 これで義朝よしとももへいこうして、だまってしまいました。そしてくやしまぎれに、はげしく味方みかたにさしずをして、めちゃめちゃにかけさせました。
 為朝ためともはこの様子ようすをこちらからて、大将たいしょう義朝よしともをさえ射落いおとせば、一勝負しょうぶがついてしまうのだとかんがえました。そこでゆみをつがえて、義朝よしともほうにねらいをつけました。
「あのあおむけている首筋くびすじてやろうか。だいぶあつよろいているが、あの上から胸板むないたとおすぐらいさしてむずかしくもなさそうだ。」
 こう為朝ためともおもいながら、すぐはなそうとしましたが、ふと、
「いやて。いくらてきでもにいさんはにいさんだ。それにこうして父子おやこわかれわかれになっていても、おとうさんとにいさんのあいだないしょの約束やくそくがあって、どちらがけてもおたがいにたすうことになっているのかもしれない。」
 とおもかえして、わざとねらいをはずして、義朝よしともかぶとあてました。するとかぶとほしけずって、そのうしろのもんの七八すんもあろうというとびらをぷすりとぬきました。これだけで義朝よしともきもひやして、これもほかもんして行きました。
 こうして為朝ためとも一人ひとりすくめられて、そのまもっているもんにはだれもちかづきませんでしたが、なんといってもこうは人数にんずうおおい上に、こちらの油断ゆだんにつけんで夜討ようちをしかけてたのですから、はじめから元気げんきがちがいます。とうとうほかもんが一つ一つかたはしからうちやぶられ、やがてどっとそうくずれになりました。
 こうなると為朝ためとも一人ひとりいかにりきんでもどうもなりません。れいの二十八もちりぢりになってしまったので、ただ一人ひとり近江おうみほうちて行きました。
 そののち新院しんいんはおとらわれになって、讃岐さぬきくにながされ、頼長よりながげて途中とちゅうだれがたともしれないられてにました。
 おとうさんの為義ためよしはじめ兄弟きょうだいたちはのこらずつかまって、くびをきられてしまいました。
 その中で為朝ためとも一人ひとり、いつまでもつかまらずに、近江おうみ田舎いなかにかくれていましたが、いくさときにうけたひじのきずがはれて、ひどくいたしたものですから、あるとき近所きんじょ温泉おんせんはいってきずのりょうじをしていました。するとかねてから為朝ためとものゆくえをさがしていた平家へいけかって、為朝ためとも油断ゆだんをねらって、大勢おおぜいにおそいかかってつかまえてしまいました。
 為朝ためともはそれから京都きょうとかれて、くびをきられるはずでしたが、天子てんしさまは為朝ためとも武勇ぶゆうをおきになって、
「そういう勇士ゆうしをむざむざところすのはもったいない。なんとかしてたすけてやったらどうか。」
 とおっしゃいました。そこで為朝ためとも死罪しざいゆるして、そのかわつよゆみけないように、ひじのすじいて伊豆いず大島おおしまながしました。
 為朝ためともすじかれてゆみすこよわくなりましたが、ひじがのびたので、まえよりもかえってながることができるようになりました。

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