日本の英雄伝説 |
講談社学術文庫、講談社 |
1983(昭和58)年6月10日 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
1983(昭和58)年6月10日第1刷 |
一
八幡太郎義家から三代めの源氏の大将を六条判官為義といいました。為義はたいそうな子福者で、男の子供だけでも十四五人もありました。そのうちで一番上のにいさんの義朝は、頼朝や義経のおとうさんに当たる人で、なかなか強い大将でしたけれど、それよりももっと強い、それこそ先祖の八幡太郎に負けないほどの強い大将というのは、八男の鎮西八郎為朝でした。 なぜ為朝を鎮西八郎というかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝は子供のうちからほかの兄弟たちとは一人ちがって、体もずっと大きいし、力が強くって、勇気があって、世の中に何一つこわいというもののない少年でした。それに生まれつき弓を射ることがたいそう上手で、それこそ八幡太郎の生まれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎は弓の名人でしたけれど、人並みとちがった強い弓を引くということはなかったのですが、為朝は背の高さが七尺もあって、力の強い上に、腕が人並みより長く、とりわけ左の手が右の手より四寸も長かったものですから、並みの二倍もある強い弓に、二倍もある長い矢をつがえては引いたのです。ですから為朝の射る矢は、並みの人の矢がやっと一町か二町走るところを五町も六町の先まで飛んで行き、ただ一矢で敵の三人や四人手負わせないことはないくらいでした。 こんなふうですから、子供の時から強くって、けんかをしても、ほかの兄弟たちはみんな負かされてしまいました。兄弟たちは為朝が半分はこわいし、半分はにくらしがって、何かにつけてはおとうさんの為義の所へ行っては、八郎がいけない、いけないというものですから、為義もうるさがって、度々為朝をしかりました。いくらしかられても為朝は平気で、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義も困りきって、ある時、 「お前のような乱暴者を都へ置くと、今にどんなことをしでかすかわからない。今日からどこへでも好きな所へ行ってしまえ。」 といって、うちから追い出してしまいました。その時為朝はやっと十三になったばかりでした。 うちから追い出されても、為朝はいっこう困った顔もしないで、 「いじのわるいにいさんたちや、小言ばかりいうおとうさんなんか、そばにいない方がいい。ああ、これでのうのうした。」 と心の中で思って、家来もつれずたった一人、どこというあてもなく運だめしに出かけました。
二
国々を方々めぐりあるいて、為朝はとうとう九州に渡りました。その時分九州のうちには、たくさんの大名があって、めいめい国を分け取りにしていました。そしてそのてんでんの国にいかめしいお城をかまえて、少しでも領分をひろめようというので、お隣同士始終戦争ばかりしあっていました。 為朝は九州に下ると、さっそく肥後の国に根城を定め、阿蘇忠国という大名を家来にして、自分勝手に九州の総追捕使という役になって、九州の大名を残らず打ち従えようとしました。九州の総追捕使というのは、九州の総督という意味なのです。すると外の大名たちは、これも半分はこわいし、半分はいまいましがって、 「為朝は総追捕使だなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気な小僧じゃないか。」 といいいい、てんでんのお城に立てこもって、為朝が攻めて来たら、あべこべにたたき伏せてやろうと待ちかまえていました。 為朝は聞くと笑って、 「はッは。たかが九州の小大名のくせに、ばかなやつらだ。いったいおれを何だと思っているのだろう。子供だって、りっぱな源氏の本家の八男じゃないか。」 こういって、すぐ阿蘇忠国を案内者にして、わずかな味方の兵を連れたなり、九州の城という城を片っぱしからめぐり歩いて、十三の年の春から十五の年の秋まで、大戦だけでも二十何度、その外小さな戦は数のしれないほどやって、攻め落とした城の数だけでも何十箇所というくらいでした。それで三年めの末にはとうとう九州残らず打ち従えて、こんどこそほんとうに総追捕使になってしまいました。 すると為朝に打ち従えられた大名たちは、うわべは降参した体に見せかけながら、腹の中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっと都に使いを立てて、為朝が九州に来てさんざん乱暴を働いたこと、天子さまのお許しも受けないで、自分勝手に九州の総追捕使になったことなどをくわしく手紙に書き、その上に為朝の悪口を有ること無いことたくさんにならべて、どうか一日も早く為朝をつかまえて、九州の人民の難儀をお救い下さいと申し上げました。 天子さまはたいそうお驚きになって、さっそく役人をやって為朝をお呼び返しになりました。けれども為朝は、 「きっとこれはだれかが天子さまに讒言したにちがいない。天子さまには、間違いだからといって、よく申し上げてくれ。」 といって、役人を追い返してしまいました。 為朝がいうことをきかないので、天子さまはお怒りになって、子供の悪いのは親のせいだからというので、おとうさんの為義を免職して、隠居させておしまいになりました。 為朝は、おとうさんが自分の代わりに罰を受けたということを聞きますと、はじめてびっくりしました。 「おれは天子さまのお罰をうけることをこわがって、都へ行かないのではない。それを自分が行かないために、年を取られたおとうさんがおとがめをうけるというのはお気の毒なことだ。そういうわけなら一日も早く都に上って、おとうさんの代わりにどんなおしおきでも受けることにしよう。」 こういって為朝はさっそく今の楽しい身分をぽんと棄てて、前に下って来た時と同様、家来も連れずたった一人でひょっこり都へ帰って行こうとしました。ところが長い間為朝になついて、影身にそうように片時もそばをはなれない二十八騎の武士が、どうしてもお供について行きたいといってききませんので、為朝も困って、これだけはいっしょに連れて都に上ることにしました。 こういうわけで九州から為朝について来た家来は二十八騎だけでしたが、どうしてもお供ができなければ、せめて途中までお見送りがしたいといって、いくら断っても、断っても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来たちの数はそれはそれはおびただしいものでした。為朝は力が強いばかりでなく、おとうさんに孝心ぶかいと同様、だれに向かっても情けぶかい、心のやさしい人でしたから、三年いるうちにこんなに大勢の人から慕われて、ほんとうに九州の王さま同様だったのです。それでだれいうとなく、為朝のことを鎮西八郎と呼ぶようになりました。鎮西というのは西の国ということで、九州の異名でございます。
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