銀蠅(ぎんばえ)の飛びまわる四畳(じょう)の部屋(へや)は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱(さげばこ)に入れて持ち帰り、皆は黙々(もくもく)とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨(むね)蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚(びっくり)してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮(きょうしゅく)した。 母親の浴衣を借りて着替(きか)えると、蝶子の肚はきまった。いったん逐電(ちくでん)したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子に甘(あま)いところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦(げっぷ)で払う肚を決めていた。「私(わて)が親爺(おやじ)に無心して払いまっさ」と柳吉も黙(だま)っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振(ふ)った。「あんさんのお父つぁんに都合(ぐつ)が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異を樹(た)てなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄(はしか)の他には風邪(かぜ)一つひかしたことはない、また身体(からだ)のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。
二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯(しょたい)を張った。階下(した)は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮(くら)しに困った。 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼(かせ)ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増(としま)芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋(しゅうせんや)みたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会(えんかい)や婚礼(こんれい)に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡(れんらく)をとり、派出させて仲介(ちゅうかい)の分をはねると相当な儲(もう)けになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更(よふ)けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入(みい)りではないとおきんから聴いて、早速(さっそく)仲間にはいった。 三味線(しゃみせん)をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部(ぜんぶ)の運びから燗(かん)の世話に掛(かか)る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌(しゃく)をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾(ひ)かされ歌わされ、浪花節(なにわぶし)の三味から声色(こわいろ)の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節(やすぎぶし)を踊(おど)らされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚(びっくり)するほどの大年増の朋輩(ほうばい)が、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬(のらいぬ)や拾い屋(バタ屋)が芥箱(ごみばこ)をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭(なまぐさ)い臭気(しゅうき)が漂(ただよ)うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香(にお)いがした。 山椒昆布(さんしょこんぶ)を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋(なべ)にいれ、亀甲万(きっこうまん)の濃口(こいくち)醤油をふんだんに使って、松炭(まつずみ)のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋(えびすばし)の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈(たいくつ)しのぎに昨日(きのう)からそれに掛り出していたのだ。火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣(こづか)いに少しも手をつけていなかった。蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配(あんばい)に煮えて来よったやろ」長い竹箸(たけばし)で鍋の中を掻(か)き廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋(こい)しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾(すそ)をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇(ひま)かかって何してるのや」こんな口を利いた。 柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。「おばはん小遣い足らんぜ」そして三円ぐらい手に握(にぎ)ると、昼間は将棋(しょうぎ)などして時間をつぶし、夜は二(ふた)ツ井戸(いど)の「お兄(にい)ちゃん」という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「僕(ぼく)と共鳴せえへんか」そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想(かわいそう)やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊(ぼ)ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉(うれ)しく、苦労の仕甲斐(しがい)あると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。
その年も暮に近づいた。押しつまって何となく慌(あわただ)しい気持のするある日、正月の紋附(もんつき)などを取りに行くと言って、柳吉は梅田(うめだ)新道(しんみち)の家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色は冴(さ)えなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢(ひばち)の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子(ようす)が、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。――父親は柳吉の姿を見るなり、寝床(ねどこ)の中で、何しに来たと呶鳴(どな)りつけたそうである。妻は籍(せき)を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒(めんどう)みているが、その子供にも会わせてもらえなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒(おこ)るというよりも柳吉を嘲笑(ちょうしょう)し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「私(わて)のこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜(あとがま)に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望(ほんもう)や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井(てんじょう)を睨(にら)んでいた。 まえまえから、蝶子はチラシを綴(と)じて家計簿(かけいぼ)を作り、ほうれん草三銭、風呂銭(ふろせん)三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎(つつし)んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜(お)しみ、半襟(はんえり)も垢(あか)じみた。正月を当てこんでうんと材料(もと)を仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私(わて)には金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言わなかった。 年が明け、松の内も過ぎた。はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。父性愛ということもあった。蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがに淋(さび)しいと、これは人ごとでなかった。ある日、昔の遊び友達に会い、誘(さそ)われると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波(なんば)新地へはまりこんで、二日、使い果して魂(たましい)の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」そう言って蝶子は頸筋(くびすじ)を掴んで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。「おばはん、何すんねん、無茶しな」しかし、抵抗(ていこう)する元気もないかのようだった。二日酔いで頭があばれとると、蒲団にくるまってうんうん唸(うな)っている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。千日前の愛進館で京山小円(きょうやまこえん)の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒(ここ)のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょう[#「あんじょう」に傍点]ま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧(わ)いた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々(あらあら)しく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「阿呆(あほ)んだら」そして唇(くちびる)をとがらして柳吉の顔へもって行った。
あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。おきんの亭主(ていしゅ)はかつて北浜(きたはま)で羽振りが良くおきんを落籍(ひか)して死んだ女房の後釜に据(す)えた途端に没落(ぼつらく)したが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主は恥(はじ)をしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」探す肚があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。 千日前「いろは牛肉店」の隣(となり)にある剃刀屋(かみそりや)の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分(じゅうぶん)射(さ)さず、昼電を節約(しまつ)した薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺(なが)めていると、そこの明るさが嘘(うそ)のようだった。ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。その隣りは竹林寺(ちくりんじ)で、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅(もち)を焼いて売っていた。醤油をたっぷりつけて狐色(きつねいろ)にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水(ちょうず)を使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。また曰(いわ)く、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいる恰好が面白いとて飾窓(ウインドー)に吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。それだけの芸でこと足りた。蝶子は、「そら、よろしおまんな」そう励(はげ)ました。 剃刀屋で三月(みつき)ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩(けんか)して癪(しゃく)やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真(ほんま)だと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。蝶子は一層ヤトナ稼業(かぎょう)に身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉(たてまつ)られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、殊(こと)にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことが憂鬱(ゆううつ)の原因らしく、そのことにひそかに安堵(あんど)するよりも気持の負担の方が大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。 実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだという噂(うわさ)を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結(えんむす)び」に詣(まい)って蝋燭(ろうそく)など思い切った寄進をした。その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名(かいみょう)を聞いたりして棚(たな)に祭った。先妻の位牌(いはい)が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞(ふるま)った。
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