蝶子は柳吉をしっかりした頼(たの)もしい男だと思い、そのように言(い)い触(ふ)らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰(とりざた)した。酔(よ)い癖(ぐせ)の浄瑠璃(じょうるり)のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚(ぶた)の皮身を味噌(みそ)で煮(に)つめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名(あだな)がついていたくらいだ。 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚(きたな)いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真(ほんま)にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺(おれ)の後へ随(つ)いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津(こうづ)の湯豆腐屋(ゆどうふや)、下は夜店のドテ焼、粕饅頭(かすまんじゅう)から、戎橋筋(えびすばしすじ)そごう横「しる市」のどじょう汁(じる)と皮鯨汁(ころじる)、道頓堀(どうとんぼり)相合橋東詰(あいおいばしひがしづめ)「出雲屋(いずもや)」のまむし[#「まむし」に傍点]、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭(しょうべんたんごてい)」の関東煮(かんとだき)、千日前常盤座(ときわざ)横「寿司(すし)捨」の鉄火巻と鯛(たい)の皮の酢味噌(すみそ)、その向い「だるまや」のかやく[#「かやく」に傍点]飯(めし)と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手(げて)もの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択(よ)りによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。 乱暴に白い足袋(たび)を踏(ふ)みつけられて、キャッと声を立てる、それもかえって食慾(しょくよく)が出るほどで、そんな下手もの料理の食べ歩きがちょっとした愉(たの)しみになった。立て込んだ客の隙間(すきま)へ腰を割り込んで行くのも、北新地の売れっ妓の沽券(こけん)に関(かか)わるほどではなかった。第一、そんな安物ばかり食わせどおしでいるものの、帯、着物、長襦袢(ながじゅばん)から帯じめ、腰下げ、草履(ぞうり)までかなり散財してくれていたから、けちくさいといえた義理ではなかった。クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。それに、父親は今なお一銭天婦羅で苦労しているのだ。殿様(とのさま)のおしのびめいたり、しんみり父親の油滲(あぶらじ)んだ手を思い出したりして、後に随いて廻っているうちに、だんだんに情緒(じょうちょ)が出た。 新世界に二軒(けん)、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむし[#「まむし」に傍点]のうまいのは相合橋東詰の奴(やつ)や、ご飯にたっぷりしみこませただし[#「だし」に傍点]の味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月(かげつ)」へ春団治(はるだんじ)の落語を聴(き)きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握(にぎ)り合ってる手が汗をかいたりした。 深くなり、柳吉の通い方は散々頻繁(ひんぱん)になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団(ふとん)の下に隠(かく)したので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮(しょせん)、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆(か)け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩(かさ)んで、蒼(あお)くなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履(おとこば)きの草履を贈(おく)って来た。添(そ)えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへ洩(も)れてしまって、枕元(まくらもと)へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目(ききめ)なしと諦(あきら)めていた父親も、今度ばかりは、打つ、撲(なぐ)るの体の自由が利かぬのが残念だと涙(なみだ)すら浮(うか)べて腹を立てた。わざと五つの女の子を膝(ひざ)の上に抱(だ)き寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫(さけ)び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴(め)と肚の中で呟(つぶや)いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋(えびすばし)「天狗(てんぐ)」の印がはいっており、鼻緒(はなお)は蛇(へび)の皮であった。 「釜(かま)の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離(きゅうり)切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固(がんこ)は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端(とたん)に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心の曇(くも)りが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落(かけお)ちせえへんか。 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股(おおまた)で横切って来た。髪(かみ)をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。 八月の末で馬鹿(ばか)に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日間(ま)があるというのを拝み倒(たお)して三百円ほど集ったその足で、熱海(あたみ)へ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人(ふたり)の行末のことを考えたら、そんな呑気(のんき)な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚(さら)い、土地の芸者から「大阪(おおさか)の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰(なぐさ)まった。 二日そうして経(た)ち、午頃(ひるごろ)、ごおッーと妙(みょう)な音がして来た途端に、激(はげ)しく揺(ゆ)れ出した。「地震(じしん)や」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖に掴(つか)まったことは掴まったが、いきなり腰を抜(ぬ)かし、キャッと叫んで坐(すわ)り込んでしまった。柳吉は反対側の壁(かべ)にしがみついたまま離(はな)れず、口も利けなかった。お互(たが)いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔(くい)が一瞬(いっしゅん)あった。
避難(ひなん)列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、真(まっ)すぐ上塩町(かみしおまち)の種吉の家へ行った。途々(みちみち)、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼(は)られていた。 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚(びっくり)してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊(き)けば、蝶子の失踪(しっそう)はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠(ねむ)れなんだという。悪い男云々(うんぬん)を聴き咎(とが)めて蝶子は、何はともあれ、扇子(せんす)をパチパチさせて突(つ)っ立っている柳吉を「この人私(わて)の何や」と紹介(しょうかい)した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上挨拶(あいさつ)が続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣(ゆかた)の袖(そで)を顔にあてた。泣き止(や)んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一(しんいち)は尋常(じんじょう)四年で学校へ上っとりますが、今日(きょう)は、まだ退(ひ)けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文(いい)に行った。
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