極光下の新日本
「冗談じゃない。ここで、この隊を殺っちまったら元も子もないじゃないか。ねえ、『冥路の国』まで橇跡に蹤いていって、そこでというなら話になるがね。だけど私や『フラム』号の連中はすこしも恐かアないよ。恐いのは……」 と言いかけたが吹きつのる風のために、惜しいかな、続くものが聴えない。しかしこれは、あとで分ったことだが、蜃気楼だったのである。「冥路の国」へとゆく、一人のエスキモーの橇。それが、一つの山が数個の幻嶽をだすように、いくつもの幻景となって現われた。そういう、座興のあとで吹雪が霽れると、今までいた犬が一匹もみえない。 「オヤ、どうした」と、思っていると彼処此処の雪のなかから黒い鼻先がひょくりひょくりと現われてくる。犬は、こういう酷寒の地では雪中にもぐって、眠る――と、いうことが重大な使嗾となった。その夜、これまで解けなかった「冥路の国」の怪が、彼にやっと分ったような気がしたのだ。 「よくマア俺も、此処までやってきたものだ」 と、折竹が感じ入ったように、呟くのも道理。 まず、無名の雪嶺を名づけた、P1峰を越えたのが始め、火箭のように、細片の降りそそぐ氷河口の危難。峰は三十六、七、氷河は無数。まったく、この三月間の艱苦は名状し難いものだった。しかし、ここで不思議に思われることは、この極地にくるとおのぶサンの態度が、それまでのネチネチさを振り落してしまったようなことだ。 「あの女は、寒気に充分な抵抗力がある。なにしろ、馴鹿がいるあたりの北カナダへいってさえ、肉襦袢姿で平気でいれる奴だ。しかし、どうも近ごろ様子が変っている」 さっきもおのぶサンは、なにやら意味ありげなことを呟いた。折竹には分らぬ異常なことを知っているということは、その一事でも察せられなければならぬ。しかし瞬後には、彼はもうおのぶサンのことを考えていない。 「いずれ、フラム号の連中も俺を追ってくるだろう。橇犬の嗅覚は、磁石よりも鋭い。奴らは、前に往った犬の糞尿や凍傷の血の滴りを、なん月後でもちゃんと嗅ぎ分けるから……」 しかし、この鉄の男は顔色も変えていない。微妙な、ほのめきを投げる深夜の太陽のしたで、とおい、雪崩の音を聴きながら、じっと考えているのだ。周囲の、山巓も氷河もまったく死の世界。人を狂わせる極地特有の孤独のなかで、彼の頭はますます冴えるばかり。 「人間は……いや、あの人種は、ことによったら冬眠ができるのかも知れない。そのほかに『冥路の国』の謎を解く方法はないだろう。エスキモーが、『冥路の国』へ招かれるときは、こんな状態になる。脈が聴きとれず消えなんとし、体温は死温程度にさがってくる――それは、取りも直さず冬眠とおなじ状態だ。 ことによったら、異常な寒気に逢った場合、そうなるのではないか。そして、幻覚を見、遮二無二身をおこし、橇をかって氷の涯へと飛んでゆく。もちろん、そうした場合だから、なんの苦痛も感じない。運よく氷罅にも落ちずに行き着けた奴らが、『冥路の国』の中で一部落を作っているのではないか。冬中、体中の脂肪に養われて、氷のしたで眠る。春になると醒めて、麝香牛を狩る。――そういう、冬眠の生理がエスキモーにあるのではないか」 彼は、その考えにひじょうな自信をもっていた。小さな極光が、ぶよぶようごく真赤な虹をあらわし、その核心からでる金色の輻射線が、氷罅のうえをキラキラっと流れてゆく。翌朝も、隊はいつもながらのように、氷を踏み踏み黙々と発っていったのである。やがて、十日ばかり経つと連嶺が切れ、一行は盆地のような氷原のなかに出た。と、朝餌をやろうとして檻の戸をあけたおのぶサンの手をかい潜って鯨狼がとび出した。 「来てよ、鯨狼がとび出ちゃったよオ」と、おのぶサンがあわててどなる間に、鰭でヨチヨチとゆきながら大分な距離になっている。一同が、網を片手に走りだそうとするとき、とつぜん、鯨狼が氷罅のなかに落ちたのだ。その縁にきて下をのぞき込んだとき、折竹の顔色がみるみる間に変ってゆく。 「オヤ、この氷罅のなかは、青い光じゃない。緑玉色をだすのは、海氷じゃないか」 普通陸地の氷罅は、内部が美麗な青い光に染まっている。しかしここは、陸上にもかかわらず緑玉色の鮮光、それは、まず海氷以外にはないことだ。で、試みに綱をさげると、その端がしっかりと湿ってくる。甜めると、それが海水の味。さすが折竹も、オロオロ声になって、 「諸君、僕は鯨狼のために、大変な発見をした。ここは、グリーンランドを二つ三つに割っている、せまい海峡の一部なんだ。ミュンツァ博士が、なぜ新領土云々の通信をしたかということが、これでハッキリと分った。 つまり、南部以下の沿岸をデンマークが占めた。だから、奥地も北部もデンマーク領になっている。しかし、いまここに現われた新瀬戸の発見で、ここから北が別の島であるのが分った。ここは、隊長の僕の日本の領土になる。もし、本国政府が追認してくれれば、この極北の新島の先占宣言が成立する」 じつに、それは厳粛な瞬間だった。それまで氷に覆われて現われなかったこの瀬戸を、ついに見付けだした偉大な発見者、折竹。前ミュンツァ博士のような不備なものではなく、もし政府が躊躇せず立ちどころに追認すれば、グリーンランドの北部が赤い日本色で染められる。 まったく、その日一日は夢中裡の気持だった。こうなると、ただ気遣われるのがルチアノ一味の追跡。注意に、注意しながらその氷原を過ぎ、奥へ奥へと「冥路の国」に向ったのである。霧が濃く、峰も尾根も[#「尾根も」は底本では「屋根も」]妙に歪んでみえる。と、その霽れ頃に見上げるばかりに高い、大きな氷河口のまえへ出た。氷の断涯が無数の滝を垂らし、屹然とそびえている。すると、折竹が急に何を感じたのか、荷物のなかから微動計を取りだした。そしてその夕、おのぶサンにこう言いつけたのである。 「あの氷河は、じつを言うと一つのものではない。猛烈な吹雪があって積ったやつが、氷河のうえに固まって乗っているんだ。あいつが動きだすと氷海嘯というのになる。危険だ。ケプナラ君に避難をいってくれ給え」 と、その日の夜半ちかいころ。とつぜん、万雷の響を発し、地震かと思われる震動に、折竹が寝嚢からとび出した。出ると、じつに怖しいながら美しい火花に包まれた氷海嘯が、向うの谿へ落ちてゆく。よかった、予知したことがなによりだった。と、まず一安心となった。その翌朝のことだ。とつぜん一人のエスキモーの、喧ましい声で起されたのである。 「隊長、大変でがす、起きてくらっせえ。ザンベックさんはいねえし、ケプナラさんはオッ死んでいるだ」 驚いてゆくと、ケプナラは避難していない。やはり、以前の所に天幕をはっていて、みるも哀れな死を遂げているのだ。氷海嘯の端に当ったらしく鑢で切ったように、左腕、左膝から下が無残にもなくなっている。折竹は、おのぶサンを呼んで、険しい目で見つめ、 「君は、昨日僕の命じたとおりに、言ったのだろうね。ケプナラ、ザンベック両君に避難しろって」 「ああ、あんなこと」と、おのぶサンはケロッとして、 「あたし、なんだか忘れてしまったらしいよ」 「馬鹿っ」と怒気心頭に発した折竹ががんと一つ殴りつけ、 「なんのために……。君は、あの二人を殺してしまったも、同じだ」 「殺していいでしょう。どうせ、殺さなければ今夜あたり、あんたが殺られるにきまっているから……」 「なに」 と、気を抜いたところへおのぶサンの手が伸びて、折竹の頸筋をつかみ、ぐいと吊しあげた。河馬女の大力には、彼も敵わない。そのまま、片手にさげた彼をぐんぐん運んでゆき、氷罅のなかへぶらんと宙吊りにしたのだ。 「人が、せっかくお前さんを助けてやったのに、引っ叩くなんて……しばらく恐い思いをして、頭を冷ますがいい。お前さんは、ルチアノの『フラム』号をどう思っているね」 「オイ、上げろよ」折竹も悲鳴をあげはじめた。下をみれば、千仭の底から燃えあがる、青の光。 「じつを話すと、あのロングウェルとルチアノは同腹なんだよ。一体、アメリカというのがそんなところで、正邪も仇同志も一度実業となれば、それまでの行き掛りなんぞは、何でもなくなってしまうんだ。で、クルトがすべてをロングウェルに話したね。お前さんには言わなかったろうが鯨狼が捕われた位置を、ロングウェルは経度まで知っている。すると、海獣が遠い陸地のなかにいる。可怪しい。それに、ミュンツァ博士のあの無電があるだろう。ことによったら、海峡みたいのものがズウッと内地へ伸びているんじゃないか、――ロングウェルはこう考えたんだ。 しかし、こんな奥地へ行けるものといや、お前さんのほか誰があるだろう。こいつを一番利用してやって、事成就の暁には殺ってしまおう。というのが腹黒検事の考えさ。だから、じぶんを隠すためにルチアノを使って、すべてをギャングの仕業らしく見せかけたわけだ。ケプナラも、頭巾をとりゃロングウェルの腹心。へん、ご親友がお気の毒さまだったね」 「だが、どうして君は、それを知ったんだ」 「立ち聴きさ。あんたが、曲馬団にくるまえケプナラがやってきて、親方とひそひそ話をやっていた。うちの親方だって、猶太仲間だから」 「いったい、猶太人がどうしたというんだ」 「あの、ツイオン議定書とかにある、猶太建国さ。こんな氷の島だから何にもなるまいけれど、とにかく、ながい懸案だった猶太国ができあがる。そのため書いたロングウェルの筋書に、うかうかお前さんが乗っちまったというわけさ。馬鹿、私がいなかったら、どうなったと思う。とうに、ニューヨークにいるうち打ち明けようと思ったけれど、私の言うことなんぞは信用しまいと思ったし……。第一、お前さんは私が嫌いだろう」 おのぶサンは、それだけしか言えなかった。こみあげてくる恋情を、言い得ない悲しさ。折竹も、感謝の気持溢れるようななかにも、氷海嘯のため、食糧の大部分をうしない、「冥路の国」探検を断念せねばならぬ、切なさ。ただ、米大州に現われたはじめての日本領を、政府が追認するのを切に祈りながら……。氷罅のなかでブランブランに揺れていたのだ。
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