――いま、われらは「冥路の国」に近し。ついにグリーンランド内地に新領土を発見す。 およそ、世に分らないということにも、これほどのものはあるまい。冒頭でもいったように国際法の規定では、沿岸を占めれば奥地も領土となる。いま、グリーンランドで新領土の余地などというものは、誰がみても皆目ないはずなのに……。では、そのミュンツァ博士の通信は、戯れか狂気沙汰か 「僕は、その意味がいまだに分りません。もっと、上等な頭で考えたら分るのかもしれないが、僕にはどうも投げ出すより仕様がない。で、その無電はそれで切れました。あとは、待てど暮せど、なんの音沙汰もない。仕方なく、僕は父をあきらめて、その峡湾を出ていったのです」 「なるほど、お父さんのミュンツァ博士は、死を確認されている」 と、折竹が沈んだ顔をして、呟いた。 しかしその時、彼の胸をサッとかすめた一抹の疑問。ことによったら、博士は「冥路の国」の不思議な手に、狂人となっていたのではないか。死体が、橇を駆るように招かれてゆく途中、あの奇怪な無電をうったのではないか しかし、その考えはその場かぎり消え、彼は、別のことを訊きだした。 「時に、クルト君は僕以外のものに、この話をしたことはないかね」 「あります、ただ一人だけです。それは、一昨年父をさがしに、グリーンランドへ行ったのです。その時、あの奇獣の鯨狼をつかまえた。だが、その探検も結局空しくおわり、僕は全財産を摺り結核にまでなって、とうとうこのイースト・サイドへ落ちこんだ。では、なぜ本国へ行かぬかと仰言るのですね それは、あのユダヤ人排斥でとんだ飛ばっちりをうけたからです。 当時、本国は鼎の湧くような騒ぎ。密告が密告につぎユダヤ人ならぬ僕までが、本国に帰れないことになりました。そうした、困窮のなかを父と面識のある、タマニー区検事長のロングウェル氏に救われました。僕が、こんな汚ないところでも死なないでいるのは、ロングウェルさんのお蔭といっても、いい。むろん、このことは一仍始終話したのです」 そのロングウェル氏は、ニューヨーク暗黒街にとれば仇敵のような人物。清廉、誘惑をしりぞけ圧迫を物ともせず、ギャング掃蕩のためには身命さえも賭そうという、次期州知事の候補者の一人だ。そうなると、ルチアノ一味とは反対の立場にある、ロングウェル氏が知るというのではなんの意味もなさない。なぜ、ルチアノ一派がそれを知っているらしいのか、折竹がそのことを訊いた。 「クルト君、君はルチアノの連中と関りあったことはないかね」 「ルチアノ」とクルトは驚いたような顔をして、 「僕が、なんで汚らわしいあの連中を、知るもんですか。驚いた。それは、どういう訳ですね」 ルチアノと、知らない! ますます、折竹は分らなくなっていくばかり。まったく、これはクルトが嘘を言っているか……、それとも、隠し事でもしてない以上、腑に落ちないことだ。と、彼はいきなり語気をつよめ、 「君はまだ、僕に隠していることがあるね。もし、金にしようというのなら、幾らでも出させるが……」 「えっ、何のこってす」と、クルトはポカンとなる。 それに、嘘の分子が微塵もないということが、折竹にはハッキリと分るのだが……。しかしそれでは、ルチアノ一派がどうして知っているのか? まず彼らの大好物である富源のようなものでもない限り、またそれを、あの一味が知る機会がないかぎり……と、なおも折竹は執拗に畳みかけてゆく。 「では君が、僕に未知の国の所在を、売ろうと言ったわけは? あのお父さんの怪無電以外に、もっとこの問題を現実付けるものが、なけりゃならんね」 「それは」とクルトがぐびっと唾をのむ。ついに、ここに最終のものが現われるか。「それは、あの鯨狼がどこにいたか。私が、あの奇獣をどこで捕まえたか」 「なに、鯨狼を捕獲した場所」 「そうです。父のあの無電を現実付けるものが、鯨狼の捕獲位置にあるのです。それが、北緯七十四度八分。西経……」 と、言いかけたとき、怖ろしいことが起った。とつぜん、窓硝子がパンと割れたと思うと、クルトの顳にポツリと紅いものが……。彼が、ポカンと馬鹿のように口を空けていたのも瞬時、たちまち、崩れるように床へ転げ落ちてしまったのだ。 ルチアノ一味の手が肝腎なところの瀬戸際で、クルトの口を塞いでしまったのである。西経……、ああそれが分れば。
「冥路の国」争奪
ルチアノの魔手――それはいわずと分ることである。まったく、訳も分らぬことばかりが引き継いでおこる事件のなかで、なにより骨子となるミュンツァ博士の怪無電が……やっと、ヴェールを除ろうとすればもうこの始末。可哀想にと、折竹も暗然と死骸をみている。 ルチアノめ「冥路の国」になにを狙っている 何を何をと、ただ盲目さぐりの焦だたしいその気持は、くそっ、ゴージャンノットの結び目に逢ったかと、折竹も嗟嘆の声をあげるばかり。という、その錯綜の謎は並べてみてさえも、皆さん、頭が痛くなるではないか。 一、クルトの父ミュンツァ博士が、グリーンランドの内地に新ドイツ領を発見したという。しかしそれは、じつにどうにも考えられぬこと……、でまずまず「冥路の国」の魅魍のため狂人になったとしか思えぬ。 二、ところがそれに、倅のクルトは鯨狼の捕獲位置から、一脈の真実性があるという。まず、その地の緯度をいい次いで経度をいおうとしたとき、飛びきたった銃弾に斃された。それは、疑う余地もないルチアノ一味の仕業。 三、では、ルチアノ一味はどこからその情報を手に入れたか。クルトは、清廉頑検事のロングウェル氏に話したのみと言うが、そのロングウェル氏はルチアノ一派の対敵――その辺の消息が、皆目分っていない。また、その地へルチアノ一味が食指を動かしているというについては、なにか驚くべき富源のようなものがなければならない。しかしもう、その事についても怪無電の真相も、すべてはクルトが墓場へ持っていってしまっている。 と、踏み彷徨うような当て途もない気持のなかで、なんだか折竹は魔境の呼び声をうけてくる。謎を解く、それもクルトへの弔い合戦か。と、腰を抜かしたようなケプナラを促がしながら、やっと彼は死人のそばから腰をあげたのだ。 その数日後、彼はロングウェル氏に逢った。しかし、加害者の見当についても直接証拠のないかぎり、ここの、州刑法ではどうにもならない。ただ、クルトの死を無駄にさせたくない――この点では完全な一致をみたのだ。 ルチアノ一味を、向うにまわして「冥路の国」を踏破する。怪無電の謎を解き魔境征服という以外にも、不義の徒に対する烈々たる敵愾心。まず、彼らの策動を空に終らせることが、この際クルトへのなによりの手向けだろう。と、いよいよ「冥路の国」探検ということになった。 がその間、彼はおのぶサンの来訪を頻繁にうけていた。 「ちょいと、あたし……また来たわよ」といった具合で、まい日のようにやって来る。折竹も、三度に一度はうるさそうな顔をするが、こういう時も、 「お邪魔はしないわよ。あたしに関わず、お仕事をやって」と言う。そして何時までも、折竹の向う側にかけていて、雑誌などを見ながらもちょいちょいと彼をみる、その目付きは唯事ではない。折竹も、このごろでは慄っとなっている。 また来たわよ、ご迷惑ねえ――と、言われるときのあの気持といったら、悪女、醜女も典型的なおのぶサン。三十六貫の深情かと思うと、胃のなかのものがゲエッと出てくるような感じ。 それに、ここになお一層悪いことは、今度おのぶサンも探検隊について「冥路の国」へゆくということになっている。それは、鯨狼の給仕者という役。ではなぜ、鯨狼が探検に必要なのだろう というのは、棲息地の記憶だ。これは、あらゆる海獣を通じての顕著な習性で、どこで鯨狼が捕えられたかということを、観察しつつ知ろうというのだ。 してみると、おのぶサンとは当分離れられぬわけ。それを思うと、ゲンナリしてしまう。 だが、折竹は神様ではない。もし神様ならばこう頻繁におのぶサンがくる理由を覚らなければならない。なにか、おのぶサンには惚れた腫れた以外に、折竹に言いたいことがあるらしい。で、これは、ニューヨークを去る出発の前夜のこと。 その晩、昨日は来ないからやって来るなと思っていると、案の定、扉を叩く音がする。彼は、それを聞くとぞくっとなって来て、寝室に入りそっと息を凝らしていた。すると、 「折竹さん、いないんですの」と声がする。帰るだろう、黙っていりゃ行ってしまうだろう――と、思うがなかなか去る気配がない。そのうち、扉のしたからスウッと白いものが……。封筒らしい。さては、奴め打ち開ける気持だな……と、思ったとき向うの気が変ったらしく、今度は、その封筒がスルスルっと引っ込められてゆく。 それに、折竹の全運命が掛っていようとは、神ならぬ身の知るよしもなかったのだ。 探検隊は、古くからある捕鯨港のサレムで勢揃いをし、五月十九日の朝乗船「発見」号には、前檣たかく出航旗がひるがえる。いよいよ、極北の神秘「冥路の国」へ。 ニュー・ファウンドランドを過ぎラブラドルール沖にかかると、もう水の色もちがってくる。それまでの藍色がだんだんに褪せ、一日増しに伸びてゆく昼の長さとは正反対に、温度はじりじりと下ってゆく。すると、グリーンランドの西海岸をみるデヴィス海峡にかかった時、「発見」号の全員がすくみ上るようなことが起った。 水平線が、とつぜんムクムクと起伏をはじめたかと思うと、みるみる、無数の流氷が「発見」号をおそってくる。船は、あちこちに転針してやっと遁れたが、じつに前門の虎去れば後門の狼のたとえか……極鯨吹きあげる潮柱のむこうに、ポツリと帆影のようなものを認めたのだ。まもなく、水夫長が案じ顔にやってきて、 「どうもね、あの横帆船にゃ見覚えがあるんですがね」 「とは、どういう事だね」 「あっしゃ、あれがルチアノ一味の『フラム号』じゃねえかと思います。全部、新品の帆なんてえ船は、たんとねえんだから……」 そこで、補助機関が焚かれ、船脚が加わった。全帆、はり裂けんばかりに帆桁を鳴らし、躍りあがる潮煙は迷濛な海霧ばかり。そうして、二、三海里近付いたとき双眼鏡をはずした水夫長が、 「やっぱり」と、言葉すくなに折竹をみる……その顔には言外の恐怖があった。 まるで、送り狼のような「フラム号」の出現。それに、ルチアノやフローが乗っているかどうかは知らないが……とにかく、この二探検船の前途になに事かが起るということは、もうここで贅言を費やすまでもないだろう。 自然への反抗とともに、ルチアノ一派との闘い、氷原の道には、ますます難苦が想像されてくる。 そこからは、かつての北極踏破者ピアリーが名付けたという、中部浮氷群の広漠たる塊氷のなか。やがて、“Kangek”岬を過ぎ、“Upernavik”島を右に見て、いよいよ拠点となるホルムス島付近の「悪魔の拇指」という一峡湾に上陸した。仮定「冥路の国」の位置はこの地点からみると、真東に二百五十マイルほどのあたりに当る。 この峡湾には、まるで人間への見せしめのような、破船が一つ横たわっている。ジョン・フランクリン卿の探検船「恐怖」号の残骸が、朽ちくさった果ての肋骨のような姿をみせ、百年ばかりのあいだ海鳥の巣になっている。いずれは「冥路の国」を衝くものはこうなってしまうのだと、はや上陸早々魔境の威嚇に、一同は出会ったような気になった。まったく、そこはなんという陰気なところか。 海霧たち罩める、海面を飛びかよう[#「飛びかよう」は底本では「飛びかうよう」]海鴎やアビ鳥。プランクトンの豊富な錫色の海をゆく、砕氷や氷山の涯しない行列。なんと、幽冥界の荒涼たるよ――とさけんだ、バイロンのあの言葉が思いだされてくる。しかしそこで、攻撃準備は着々と進められ、北部 Etah 地方のエスキモー人があつめられてきた。そうなると、問題なのはフラム号の行方。 「いるぞ。暫く見えないから断念めたと思ったら、『フラム』号のやつ“Kuk”島にいやがる。どのみち、チャンバラが始まるなら、早いほうがいいな」 「フラム」号の、決着を見届けるため沿岸をさぐっていた一隊が、帰ってくればこんな話だった。クク島とは、ここから約二十マイルばかりのところ。さだめし、向うも上陸隊がでて、この隊と競うだろう。風雲も死闘もそのうえの事と、いよいよ二十台の犬橇が氷原を走りはじめたのである。 鯨狼の檻、その餌となる氷漬の魚の箱。ダブダブ揺ぐようなおのぶサンの肥躯も、今はエスキモーさながらに毛皮にくるまっている。 氷原と吹雪、氷河と峻嶮の登攀。奈翁のアルプス越えもかくやと思われるような、荷を吊りあげ、またおのぶサンを引きあげる一本ロープの曲芸。そのうち、落伍者が続出する有様。残ったのは、かなり名の知れた氷河研究者のザンベック、それに、ケプナラが気丈にも残っているが、もう、白人はこの二人だけにすぎない。しかも、寒気はますます厳しく、零下四十五度から六十度辺を上下している。 とこれは、七月末ごろのことだった。もう「悪魔の拇指」から百マイルも来たと思うあたりの、一隘路のなかで大吹雪におそわれた。 天地晦冥となり、砂を吹きつけるよう。くるくる中天に舞う濃淡の波に、前方の連嶺が見え隠れしていたのも、暫し。やがて、一面が幕のようになり、咽喉の奥までじいんと知覚が失せてくる。みると、橇犬どもは悄然と身をすくめ、寒さに嗅覚がにぶったのか、進もうとはしない。刃の風とまっ暗な雪のなかで、一同は立往生してしまった。 と、やがて霽れ間が見えてきた。すると、ケプナラがあっと叫んで、白みかけてきた前方を指差すのである。 「アッ、なんだありゃ。ルチアノ一味の襲撃じゃないか」 みると、そこを横切ってゆく数台の橇がみえる。来た、来た。乾魚や海象の肉をつめた箱を小楯に、一同は銃をかまえ円形をつくったのである。と、どうした訳かそれをみた、おのぶサンがゲラゲラっと笑いだすのだ。
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