大力女[#ルビの「ファティマ」は底本では「ファイティマ」]おのぶサン
全米に、かなり名の聴えたウィンジャマー曲馬団が、いまニューヨーク郊外のベルローズで興行している。サーカスの朝はただ料理天幕が騒がしいだけ……。芸人も起きてこず野獣の声もない、ひっそり閑とした朝まだきの一刻がある。そのころ、水槽をそなえた海獣の檻のまえで、なにやら馴育師から説明を聴いているのが……、というよりも甚だしい海獣の臭気に、鼻を覆うていたのが折竹孫七。 「これが、今度入りました新荷でがして」と、海豹使いのヒューリングがしきりと喋っている。なかには、海豹、海驢、緑海豹など十匹ほどのものが、鰭で打ちあいウオーウオーと咆えながら、狭いなかを捏ねかえすような壮観だ。 「じつは、なんです。これは、さるところから纏めて手に入れまして……、さて、訓練にかかったところ、大変なやつが一匹いる。どうも見りゃ海豹ではない。といって、膃肭獣でもない、海驢でもない。海馬でもなし、海象でもない。さだめしこれは、新種奇獣だろうてえんで、いちばん折竹の旦那にご鑑定をねがったら、きっとあの不思議な野郎の正体が分るだろう……」 というところへ「これはご苦労さんで」と、親方のウィンジャマーが入ってきた。ウィンジャマーは、きょう折竹の連れである自然科学博物館の、ケプナラ君とは熟知の仲である。ぺこぺこ頭をさげて折竹に礼をいってから、おいキャプテンと、ヒューリングに言った。 「こりゃね、一つお前さんに仕方噺をして貰おうよ。海獣の訓練の順序をお目にかけてからでないと、どんなにあの野郎が手端に負えねえやつかということが、旦那がたに呑み込めねえかも知れねえから……」 と、ヒューリングがまず西洋鎧のような、鉄葉ズボンという足部保護具をつける。これを着けないと、いつ未訓練のやつに、がりがりっとやられるかも知れない。檻の戸をあけてそっと内部にはいると、見かけは鈍重そうな氷原の豹どもも、たちまち牙を露きだし、野獣の本性をあらわしてくる。ヒューリングは、鉄葉ズボンのうえをガリガリやられながら、鉄棒につかまって外側へ声をなげる。 「最初は、生魚食いのこいつらに、死魚を食わせる。ぴんぴん糸で引っぱって躍らせていると、うっかり生きてると間違えて、ガブリとやる。そうして、餌についたら、もう占めたもんで……。まもなく、飾り台のうえに、ちょこなんと乗る。撞球棒のうえへ玉をのせたのを、鼻であしらいあしらい梯子をのぼってゆく。それから、梯子の頂上でサッと撞球棒を投げ、見事落ちてくる玉を鼻面で受けとめる。 ――というようになれば、いっぱしの太夫。手前も、給金があがるという嬉しい勘定になる。ところがです、あの“Gori-Nep”の野郎ときたら手端にも負えねえ」 「“Gori-Nep”って?」と折竹がちょっと口を挟んだ。 「つまり、野郎は演芸用海豹仲間のゴリラですからね。マア、この鉄葉ズボンの穴をみてくださいよ。たいていの海獣なら二、三度で噛み止みますが、あいつの執念ときたらそりゃ恐ろしいもんで……。ええ、その大将はすぐ参ります。じつは、野郎だけが独房生活で」 その、通称“Gori-Nep”という得体のしれぬ海獣を、まもなく折竹はしげしげとながめはじめた。身長は、やや海豹くらいだが体毛が少なく、まず目につくのがおそろしく大きな牙。おまけに、人をみる目も絶対なじまぬ野性。ついに折竹にも見当つかずと見えたところへ「あれかな」と、連れのケプナラを莞爾となって、ふり向いた。 「ケプナラ君、君はエスキモー土人がいう、“A-Pellah”を知っているかね」 「アー・ペラー いっこうに知らんが、なんだね」 「海豹と海象の混血児だ。学名を“Orca Lupinum”といって、じつに稀に出る。その狂暴さ加減は学名の訳語のとおり、まさに『鯨狼』という名がぴたりと来るようなやつ。孤独で、南下すれば膃肭獣群をあらす。滅多にでないから、標本もない。マア、僕らは、きょう千載に一遇の機会で、お目にかかれたというわけだ」 「ううむ、そんな珍物かね」と、温厚学究君子のケプナラ君は感じ入るばかり。果して、この奇獣は唯者ではなかった。やがて、折竹を導いて「冥路の国」へと引きよせてゆく、運命の無言の使者だったのだ。咆えもせず、じっと瞳を据えて人間を見わたしている、狡智、残忍というか慄っとなるような光。これぞ、極洋の狼、孤独の海狼と――なんだか睨みかえしたくなる厭アな感じが、ふとこの数日来折竹に絡わりついている、ある一つの異様な出来事を思いださせたのである。それは、両三度を通じておなじような意味の、次のような手紙が舞いこんできたのだ。
敢えて小生は、世界的探検家なる折竹氏に言う。この地上にもし、まだ誰も知らず一人も踏まぬ国ありとすれば、その所在を、ご貴殿にはお買い取りになりたき意志なきや。小生は、それほどのものを売らねばならぬほど、目下困窮を極めおり候。 明日、午後三時より三時半までのあいだ、東二十四番街のリクリェーション埠頭の出際、「老鴉」なる酒場にてお待ち申しおり候、目印しは、ジルベーのジンと書いてある貼紙の下。
K・M生
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