四
雪はその日の夕(くれ)にやんだが、外記は来なかった。その明くる夜も畳算(たたみざん)のしるしがなかった。その次の日に中間(ちゅうげん)の角助が手紙を持って来た。あの朝の寒さから風邪の心地で寝ているので、三日四日は顔を見せられないというのであった。 返事をくれと言って待っている角助に綾衣は自身で逢って、殿様はほんとうに御病気か、それとも何かほかに御都合があるのかと念を押して訊(き)いた。いや、ほかになんにも子細はない、ほんとうの御病気であるという角助の返事を聞いて、綾衣は少しく安心した。 それから此の頃の屋敷の様子や、外記にかかわる親類たちの噂などを根掘り葉掘りいろいろ聞きただしたが、世間慣れている角助は如才(じょさい)ない受け答えをして、綾衣に聞かして悪いようなことはなんにも言わなかった。彼は綾衣が返事の文(ふみ)といくらかの使い賃とを貰って帰った。 ほかに子細はないというので少しは安心したものの、ぬしの病気と聞けば、また気がかりであった。綾衣はすぐに遣手(やりて)のお金(きん)を浅草の観音さまへ病気平癒の代参にやった。その帰りに田町(たまち)の占い者へも寄って来てくれと頼んだ。 雪どけのぬかるみをふんで、お金は浅草へ参詣に行った。田町には名高い占い者があって、人相も観る、墨色(すみいろ)判断もする、人の生年月日を聴いただけでもその吉凶(きっきょう)を言い当てる。お金は帰りにここへも寄って、外記の生まれ年月をいって判断を頼んだ。占い者は首をひねって、今度の病気はすぐに癒(なお)る。しかし、この人は半年のうちに大難があると脅(おど)すように言った。 迷信のつよい廓(さと)の女は身の毛がよだ[#「よだ」に傍点]って早々に帰って来た。しかし綾衣にむかって正直に天機を洩らすのを憚(はばか)って、今度の病気だけのうらないを報告しておいた。それでも此のおそろしい秘密を自分ひとりの胸に抱えているのは何だか不安なので、ある時そっと新造の綾鶴にささやいた。それが又いつか綾衣の耳へもはいった。 「そんなら、わたしのも見てもらっておくんなんし」 お金は薄気味わるがって毎日ゆきしぶっているので、今度は綾衣がふだんから贔屓にしているお静(しず)という仲の町の芸妓が頼まれた。お静は田町へ行って綾衣の生まれ月日を言うと、占い者は又もひたいに皺を寄せて、この女には剣難の相(そう)があると言った。お静も真っ蒼になってふるえて帰った。綾衣にむかって何と答えてよかろうか、お静も一時はひどく困ったが、もう四十に近い女だけに彼女は考え直した。 花魁は夜毎に変った客に逢う身である。どんな酔狂人か気まぐれ者に出逢って、いつどんな災難を受けまいものでもない。当人が平生からその用心をしていれば、なんにつけても油断がなく、まさかの時にも危うい災難を逃がれることができるというもの。これはいっそ正直に打ち明けて、当人に注意を与えておいた方が却ってその身のためであろう。こう思って、お静は占い者の判断をいつわらず綾衣に報告した。 「ですから、気をおつけなせえましよ。そうして、神信心(かみしんじん)を怠っちゃあなりやせん」と、お静は親切に言った。 こんな話は当人ぎりで、誰の耳へもひびく筈ではないのであるが、お静が仲の町の茶屋へ遊びに行って、何かの話をしているうちに、かの占い者の噂が出た。そのときに自分が或る花魁に頼まれて行ったら、剣難の相があると言われてびっくりしたというようなことを、うっかりしゃべった。勿論、お静は綾衣の名を指しはしなかった。しかし前後の話の工合いから、それはどうも綾衣らしいという噂が立った。大菱屋の亭主も心配し出した。廓という世界に生きている人たちに対しては、うらないやお神籤(みくじ)が無限の権力をもっていた。 亭主は綾衣を呼んでそれとなく注意を与えた。綾衣は黙って聴いていた。 剣難といえば先ずひとに斬られるか、みずからそこなうかの二つである。呪われたる人の多い世ではあるが、遊女にはこの二つの危険が比較的に多かった。取り分けて遊女屋の主人に禍(わざわ)いするのは、廓(くるわ)に最も多い心中沙汰であった。恋にとけあった男と女とのたましいが、なにかの邪魔を突き破って無理に一つに寄り合おうとすれば、人間を離れたよその世界へ行くよりほかなかった。 法律の力で心中(しんじゅう)の名を相対死(あいたいじに)と呼び替えても、人間の情を焼き尽くさない限りは何の防ぎにもならなかった。吉原で心中を仕損じた者は、日本橋へ三日晒(さら)した上で非人の手下(てか)へ引き渡すと定めても、それは何のおどしにもならなかった。心中のなきがらは赤裸にして手足を縛って、荒菰(あらごも)に巻いて浄閑寺(じょうかんじ)へ投げ込むという犬猫以上の怖ろしい仕置きを加えても、それはいわゆる「亡八(くるわ)の者」の残酷を証明するに過ぎなかった。情に生きて情に死ぬ男と女とは、切支丹の殉教者と同じ勇気と満足とをもって、この迫害の前に笑って立った。 遊女屋の座敷で心中した者があると、主人はその遊女一人を失ったばかりでない、検視の費用、その座敷の改築などに、おびただしい損害と迷惑とを引き受けなければならないので、彼らは心中を毒蛇よりも恐れた。大菱屋の亭主も自分の抱え遊女のうちから剣難の相があるという綾衣を見いだした時に、彼は未来の恐るべき禍いを想像するに堪えなかった。 綾衣には外記という男がある。それが普通一遍の客でないことは、大菱屋の二階はいうまでもなく廓じゅうにももう拡まっている。それがために綾衣の客は次第に薄くなってゆく。それだけでも亭主としては忌な顔をせずにはいられなかった。外記の小普請入りも亭主はもう知っていた。その矢先きへ、綾衣のひたいに剣難の極印(ごくいん)が打たれたと聞いては、彼がおびえたのも無理はなかった。 こうした場合の予防手段は、その客を「堰(せ)く」よりほかはなかった。しかし外記はかつて茶屋の支払いをとどこおらせたこともなかった。綾衣が身揚(みあが)りするという様子も見えなかった。大菱屋ではいかに未来の危険を恐れていても、差し当っては外記をことわる口実を見いだすのに苦しんで、単に注意人物として遠巻きに警戒しているに過ぎなかった。 その注意人物は病気で十日ほども遠退いたが、その後は相変らず足近くかよいつめて、亭主のひたいにいよいよ深い皺を織り込ませた。二月の初午(はつうま)は雨にさびれて、廓の梅も雪の消えるように散ったかと思う間に、見返り柳はいつかやわらかい芽を吹いて、春のうららかな影はたわわ[#「たわわ」に傍点]になびく枝から枝に動いた。 雛の節句の前夜に外記は来た。大抵のよい客はあしたの紋日(もんび)を約束して今夜は来ない。引け過ぎの廓はひっそりと沈んで、絹糸のような春雨は音もせずに軒を流れていた。 「お宿(やど)の首尾はどうでありんすえ」 綾衣に訊かれても男はただ笑っていた。 内そとの首尾の悪いのは今さら言うまでもない。部屋住みの身分でもなし、隠居の親たちがあるのではなし、自分はれっき[#「れっき」に傍点]とした一家の主人でありながらも、物堅い武家屋敷にはそれぞれに窮屈な掟がある。いくら家来でも譜代の用人どもには相当遠慮もしなければならない。外には市ヶ谷の叔父を始めとして大勢のうるさい親類縁者が取り巻いている。これらがきのう今日は一つになって、内と外から外記の不行跡(ふぎょうせき)を責め立てている。味方は一人もない。四方八方はみな敵であった。 しかしそれを恐れるような弱い外記ではなかった。何百人の囲みを衝いても、自分は自分のゆくべき道をまっすぐに行こうとしていた。自分はそう覚悟していればそれでよい。詰まらない愚痴めいたことを言って、可愛い女によけいな苦労をさせるには及ばないと、彼は努めてなんにも言うまいと心に誓っていた。綾衣が何を訊いても、彼はいつも晴れやかな笑いにまぎらして取り合わなかった。 その心づかいは神経のするどい綾衣によく判っていた。殊に外記が今夜の笑い顔には、拭き消すことのできない陰った汚点が濃くにじんでいるのを認めていた。 「なんだか今夜は顔の色が悪うおす。また風邪でも引きなんしたかえ」 綾衣は枕もとの煙草盆を引き寄せて、朱羅宇(しゅらお)の長煙管(ながきせる)に一服吸い付けて男に渡した。 外記は天鵝絨(びろうど)に緋縮緬のふちを付けた三つ蒲団の上に坐っていた。うしろに刎(は)ねのけられた緞子(どんす)の衾(よぎ)は同じく緋縮緬の裏を見せて、燃えるような真っ紅な口を大きくあいていた。綾衣は床の中へは入らずに、酔いざめのやや蒼ざめた横顔をうす暗い行燈に照らさせながら、枕もとにきちんと坐っていた。 「いや、おれは別にどうでもない。お前こそこの頃は顔の色がよくないようだが、また血の道でも起ったのか」 「いいえ」 外記のくゆらす煙りは立て廻した金屏風に淡い雲を描いて、さらに枕もとの床の間の方へ軽くなびいて行った。綾衣は雛を祭らなかったが、床の間には源平の桃の花が生けてあった。外記は夜目に黒ずんだその花を見るともなしに眺めていた。二人は又しばらく黙っていた。 女は男の心の奥を測りかねていた。男は言うに言われない苦労を胸に抱えているらしく思われるのに、なぜあらわに打ち明けてくれないのか。それが水臭いような、恨めしいようにも思われてならなかった。どんな事でもいい、聞けば聞いたように自分にも覚悟がある。たとい天が落ちて来ようとも地が裂けようとも、今更おどろくような意気地なしの自分ではない。それは万々(ばんばん)知っている筈の外記がなぜ卑怯に隠し立てをするのか、それが憎いほどに怨めしかった。今となって男の心が疑わしくもなった。 「ぬしは奥様でもお貰いなんすのかえ」 途方もない不意撃ちを喰らわして探りを入れると、外記は思わず噴きだした。 「馬鹿を言え、そんな気楽な沙汰かい」 「気楽でないと言わんすなら、また新しい苦労でも殖えなんしたかえ。主(ぬし)はなぜそのように物を隠しなんす。お前、ひと間住居(まずまい)とやらにでもなりんすのかえ」と、綾衣は厚い三栖紙(みすがみ)を膝に突いて摺り寄った。 一間住居というのは座敷牢である。武家で手にあまる道楽者などがあると、戸障子(としょうじ)を釘づけにした暗いひと間をあらかじめ作っておいて、親類一同が立会いで本人に一間住居を言い渡す。そうなったら否も応もない。大勢がまずその大小を奪い取って、手籠(てご)めにしてその暗いひと間へ監禁してしまうのである。廓へ深入りした若侍でこの仕置きを受けた者がしばしばあることは、綾衣もかねて聞いていた。 「実はそんな相談もあったらしい」と、外記ももう隠していられなくなった。口では苦笑いをしながらも、すぐにそのくちびるから軽い溜め息がもれた。 「おや、そんなら何どきそのむごい目に逢わんすかも知れんすまいに、おまえ、その時はどうしなんす」 「それは当分沙汰止みになったらしい、市ヶ谷の叔父が不承知で……。叔父はずいぶん口喧(やか)ましいのでうるさいが、又やさしい人情もある。もう少し仕置きを延ばして、当人の成り行きを見届けるというような意見で、ほかの親類共もまず見合せたらしい。こんなことはみんなおれに隠しているが、角助めがどこからか聞き出して来る。なかなか抜け目のない奴だ」 笑う顔のいよいよ寂しいのが綾衣の眼には悲しく見えた。この頃は少しく細ったような男の白い頬に、鬢(びん)のおくれ毛が微かにふるえているのも美しいようでいじらしかった。 「でも、いつまでもこの通りでいなんしたら、遅かれ速かれ、やっぱり一間住居に決まりんしょうが……」 「一間住居は蹴破っても出る」と、男の眼には反抗の強い光りがひらめいた。 綾衣はぞっとするほど嬉しかった。彼女はいつもこの強いひとみに魅せられるのであった。 「しかし甲府勝手(こうふがって)と来ると、少しむずかしい」と、男はまた投げ出すように言った。 「甲府勝手とは何でありんすえ」 「遠い甲州へ追いやられるのだ。つまり山流しの格だ」 もうどうしても手に負えないと見ると、支配頭から甲府勝手というのを申し渡される。表向きは甲府の城に在番という名儀ではあるが、まず一種の島流し同様で、大抵は生きて再び江戸へ帰られる目当てはない。一生を暗い山奥に終らなければならないので、さすがの道楽者も甲府勝手と聞くとふるえあがって、余儀なく兜を脱ぐのが習いであった。 一間住居から甲府勝手、こうだんだんに運命を畳み込んで来れば、その身の滅亡は決まっている。勿論、出世の見込みなどがあろう筈はない。外記はそれすらも敢(あ)えて恐れなかったが、万一遠い甲州へ追いやられたら、しょせん綾衣に逢うすべはない。二人を結び合わせた堅いきずなも永久に断たれてしまわなければならない。男に取ってはそれが何よりも苦痛であった。 黙って聴いている女の思いも、やはり同じどん底へ落ちて行った。半年のうちには大難があると言った占い者の予言は、焼金(やきがね)のように女の胸をじりじりとただらして来た。 綾衣の膝からすべり落ちた三栖紙(みすがみ)は白くくずれて、彼女は懐ろ手の襟に頤(あご)を埋めた。何か言いたい大事なことが喉まで突っかけて来ていても、今はまだ言うべき時節でないと無理に呑み込んで、彼女はきっと口を結んでいた。 やわらかい雨の音はささやくように低くひびいた。近所の小店(こみせ)で時を打つ柝(き)の音が拍子を取って遠くきこえるのも寂しかった。行燈の暗いのに気がついて、綾衣は袂をくわえながら、片手で燈心をかかげた。その片明かりに映った外記の顔はいよいよ蒼白かった。 「まあ、いい。その時はその時のことだ。取り越し苦労をするだけが馬鹿というものだ」と、外記は捨て鉢になったように言った。 「ほんとうに、どうなるやら知れない先きのことを、前から苦労するのは馬鹿らしゅうありんすね」 運命の力が強く圧しつけて来るのを十分に意識していながら、男も女も堪(こら)えられるだけは堪えて見ようと、冷やかに白い歯を見せていた。しかもその歯を洩れる息は焔(ほのお)であった。
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