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箕輪心中(みのわしんじゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 0:12:30 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     二

 お時が案じていた通り、外記は丁度そのころ吉原の駿河屋(するがや)という引手茶屋(ひきてぢゃや)に酔っていた。
 二階座敷の八畳の間(ま)は襖も窓も締め切って、大きい火鉢には炭火が青い舌を吐いていた。外の寒さを堰(せ)き止められて、なまあたたかく淀んだ空気のなかに、二つの燭台の紅い灯はさながら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって、懐ろ手の外記がうしろにしている床(とこ)の間(ま)の山水の一軸をおぼろに照らしていた。青銅(からかね)のうす黒い花瓶の中から花心(しべ)もあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いが淡(あわ)くただよっていた。外記の前には盃台が置かれて、吸物椀や硯蓋(すずりぶた)が型の如くに列(なら)べてあった。
 相手になっているのは眉の痕のまだ青い女房で、口は軽くても行儀のいいのが、こうした稼業の女の誇りであった。茶色の紬(つむぎ)の薄い着物に黒い帯をしゃんと結んで、おとなしやかに控えていた。
花魁(おいらん)ももうお見えでござりましょう。まずちっとお重ねなされまし」と、彼女が銚子をとろうとすると、外記は笑いながら頭(かぶり)をふった。
「知っての通り、おれは余り酒は飲まないのだから、まあ堪忍してくれ。このうえ酔ったらもう動けないかも知れない」
 男には惜しいような外記の白い頬には、うすい紅(べに)が流れていた。
「よろしゅうござります。殿様が動けなくおなり遊ばしたら、新造(しんぞう)衆が抱いて行って進ぜましょう。たまにはそれも面白うござります」と、女房は口に手を当てて同じように笑っていた。
「いや、まだよいよい[#「よいよい」に傍点]にはなりたくない」と、外記も同じように笑っていた。
「それにしても花魁の遅いこと、もう一度お迎いにやりましょう」
 女房は会釈(えしゃく)して階子(はしご)を軽く降りて行った。
「ああ、そんなに急(せ)き立てるには及ばない」と、外記がうしろから声をかけた時には、女房の姿はもう見えなかった。
 実際そんなに急ぐには及ばない。急ぐと思われては茶屋の女房の手前、さすがにきまりが悪いようにも外記は思った。きのうは具足(ぐそく)開きの祝儀というので、よんどころなしに窮屈な一日を屋敷に暮らしたが、灯のつくのを待ちかねて、彼は吉原へ駕籠を飛ばした。きょうも流(なが)して午(ひる)過ぎに茶屋へかえって来た。この場合、ふた晩つづけて屋敷を明けては、用人の意見、叔父の叱言(こごと)、それが随分うるさいと思ったので、彼は日の暮れるまでにひとまず帰ろうとしたのであった。
 彼は少しく酔っていたので、茶屋から駕籠にゆられながら快(い)い心持ちにうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠って行くと、夢かうつつか、温かい柔かい手が蛇のように彼の頸(くび)にからみ付いた。女のなめらかな髪の毛が彼の頬をなでた。白粉の匂いがむせるように鼻や口をついた。眼の大きい、眉の力(りき)んだ女の顔がありありと眼の前にうき出した。
 と思う途端に、駕籠の先棒(さきぼう)がだしぬけに頓狂な声で、「おい、この駕籠は滅法界(めっぽうかい)に重くなったぜ」と、呶鳴った。
 外記ははっ[#「はっ」に傍点]と正気にかえった。そうして、駕籠が重くなったということを何かの意味があるように深く考えた。
 今までは自分一人が乗っていた。そこへまぼろしのように女が現われて来た。駕籠が急に重くなった。眼に見えない女のたましいが何処までも自分の後を追って来るのではあるまいか。
「なんの、ばかばかしい。なんとか名を付けて重(おも)た増(ま)しでも取ろうとするのは駕籠屋の癖だ」と、外記は直ぐに思い直して笑った。
 しかしそれが動機となって、彼は再び吉原が恋しくなった。駕籠屋の言うのは嘘と知りつつも、彼は無理にそれを本当にして、もしや女の身に変った事でも起った暗示(しらせ)ではあるまいかなどと自分勝手の理屈をこしらえて見たりした。そうして、自分でわざと不安の種を作って、このままには捨てて置かれないように苛々(いらいら)して見たりした。駕籠がだんだんに吉原から遠くなって行くのが、何だか心さびしいように思われてならなかった。
「ここはどこだ」と、彼は駕籠の中から声をかけた。
山下(やました)でございます」
 まだ上野か、と外記は案外に捗(はか)の行かないのを不思議に思った。と同時に、これから屋敷へ帰るよりも、吉原へ引っ返した方が早いというような、意味のわからない理屈が彼の胸にふとうかんだ。
「これ、駕籠を戻せ」
「へえ、どちらへ……」
「よし原へ……」と、彼は思い切って言った。
 駕籠はふたたび大門(おおもん)をくぐって茶屋の女房を面食らわした。茶屋では直ぐに大菱屋へ綾衣を仕舞(しま)いにやった。そんな訳であるから、さっき帰ってからまだ二※(ふたとき)とは過ぎていないのに、女の迎いを急(いそ)がせる。むこうは稼業だから口へ出してこそ言わないが、殿様もあんまりきついのぼせ方だと茶屋の女房たちに蔭で笑われるのも、さすがに恥かしいように思われた。
 表は次第に賑やかになって、灯の影の明るい仲の町には人の跫音(あしおと)が忙がしくきこえた。誰を呼ぶのか、女の甲走(かんばし)った声もおちこちにひびいた。いなせな地廻りのそそり節(ぶし)もきこえた。軽い鼓(つづみ)の調べや重い鉄棒(かなぼう)の音や、それもこれも一つになって、人をそそり立てる廓の夜の気分をだんだんに作って来た。外記も落ち着いてはいられないような浮かれ心になった。
 急ぐには及ばないと思いながらも、彼の腰は次第に浮いて来た。手酌で一杯飲んで見たが、まだ落ち着いてはいられないので、ふらふらと起(た)って障子をあけると、まだ宵ながら仲の町には黒い人影がつながって動いていた。松が取れてもやっぱり正月だと、外記はいよいよ春めいた心持ちになった。酒の酔いが一度に発したように、総身(そうみ)がむずがゆくほてって来た。
 その混雑のなかを押し分けて、箱提灯(はこぢょうちん)がゆらりゆらりと往ったり来たりしているのが外記の眼についた。彼は提灯の紋どころを一々(いちいち)にすかして視た。足かけ三年この廓に入りびたっていても、いわゆる通人(つうじん)にはとても成り得そうもない外記は、そこらに迷っている提灯の紋をうかがっても、鶴の丸は何屋の誰だか、かたばみはどこの何という女だか、一向に見分けが付かなかった。しかし綾衣の紋が下がり藤であるということだけは、確かに知っていた。
 自分が上野まで往復している間に、ほかの客が来たのではあるまいかとも考えた。自分は今夜来ない筈になっていたのであるから、先客に座敷を占められても苦情はいえない。しかし馴染みの客が茶屋に来ているのに、今まで迎いに来ないという法はない。
「今夜の客というのは侍か町人か、どんな奴だろう」と、外記は軽い妬(ねた)みをおぼえた。
 さっきから女房が再び顔を見せないのは、何か向うにごたごた[#「ごたごた」に傍点]が起ったのではあるまいかとも考えて見た。座敷を明けろとか明けないとかいう掛け合いで、茶屋が自分のために骨を折っていてくれるのではないかとも善意に解釈して見た。外がだんだんに賑わって来るにつれて、外記はいよいよ苛々して来た。迎いの来るのを待たずに、自分から大菱屋へ出掛けて行こうかとも思った。
 女房は息を切って階子(はしご)をあがって来た。
「どうもお待たせ申しました。花魁は宵に早く帰るお客がござりましたもんですから、それを送り出すのでお手間が取れまして……。いえ、もう直ぐにお見えになります」
 綾衣の遅いのには少し面倒な子細(しさい)があった。駿河屋の女中は外記の顔を見ると、すぐに綾衣を仕舞いに行ったが、たったひと足の違いでほかの茶屋からも初会(しょかい)の客をしらせて来た。そういうことに眼のはやい女中は、二階の階子をあがる途中でつい[#「つい」に傍点]と相手を駈けぬけて綾衣の部屋へ飛び込んでしまった。そこへ続いてほかの茶屋の女中もあがって来た。そこで、いよいよお引けという場合にはどっちが本座敷へはいるかという問題について、茶屋と茶屋との間にまず衝突が起った。
 たとい初会であろうとも、自分の方がひと足さきへ大菱屋(おおびしや)のしきいを跨(また)いで、帳場にも声をかけてある以上は、自分のうちの客が本座敷へはいるのは当然の権利であると、ほかの茶屋の女中は主張した。
 駿河屋の女中は相手の理を非にまげて、こっちは昼間からちゃんと花魁に通して座敷を仕舞ってあると強情を張った。
 どちらも自分のうちの客を大事に思う人情と商売上の意気張りとで、たがいに負けず劣らずに言い争っているので、番頭新造(ばんとうしんぞう)の手にも負えなくなって来た。駿河屋の女中は自分の方の旗色がどうも悪いと見て、急いで家(うち)へ飛んで帰って、女房にこの始末を訴えた。女房も直ぐに出て行った。事はいよいよ縺(もつ)れてむずかしくなったが、肝腎の綾衣はいうまでもなく駿河屋の味方であった。
 彼女はさっき帰ったばかりの外記がまた引っ返して来たのを不思議のように思ったが、そんなことはどうでもいい。当座をつくろうでたらめに、外記はまたすぐ出直して来ると確かに言い置いて行ったのを、誰にも言わずにうっかりしていたのはわたしが重々の不念(ぶねん)であったと、彼女は自分ひとりで罪をかぶってしまった。
 それ見たことかと駿河屋の側では凱歌(かちどき)をあげたが、理を非にまげられた相手の女中は面白くなかった。殊に綾衣が駿河屋の肩を持っているらしく見えたので、彼女はいよいよ不平であった。結局今夜のその客はほかの花魁へ振り替えて、綾衣のところへは送らないということで落着(らくぢゃく)した。たとい初会の客にせよ、こうしたごたごた[#「ごたごた」に傍点]で、綾衣は今夜一人の客を失ってしまった。
 外記が茶屋の二階で苛々している間に、女房や女中はこれだけの働きをしていたのであったが、それは茶屋が当然の勤めと心得て、別に手柄らしく吹聴(ふいちょう)しようとも思わなかった。かえってそんな面倒は客の耳に入れない方がいい位に考えていたので、女房はいい加減に外記の手前を取りつくろって置いたのであった。
 なんにも知らない外記は唯うなずいていると、女中がつづいてあがって来た。
「綾衣さんの花魁がもう見えます」
「そうかえ」
 女房は二階の障子をあけて、待ちかねたように表をみおろした。外記もうかうか[#「うかうか」に傍点]と起って覗いた。外にも風がよほど強くなったと見えて、茶屋の軒行燈の灯は一度に驚いてゆらめいていた。浮かれながらも寒そうに固まって歩いている人たちの裳(すそ)に這いまつわって、砂の烟(けぶ)りが小さい渦のようにころげてゆくのが夜目にもほの白く見えた。春の夜の寒さを呼び出すような按摩の笛が、ふるえた余音(よいん)を長くひいて横町の方から遠くきこえた。
 江戸町(ちょう)の角から箱提灯のかげが浮いて出た。下がり藤の紋があざやかに見えた。戦場の勇士が目ざす敵の旗じるしを望んだ時のように、外記は一種の緊張した気分になって、ひとみを据えてきっと見おろしていた。提灯が次第にここへ近づくと、女房も女中もあわてて階子を駈けおりて行った。
「さあ、花魁、おあがりなされまし」
 口々に迎えられて、若い者のさげた提灯の灯は駿河屋の前にとまった。振袖新造(ふりそでしんぞう)の綾鶴と、番頭新造の綾浪と、満野(みつの)という七つの禿(かむろ)とに囲まれながら、綾衣は重い下駄を軽くひいて、店の縁さきに腰をおろした。
「皆さん、さっきはお世話でありんした」
 立兵庫(たてひょうご)に結った頭を少しゆるがせて、型ばかり会釈した彼女は鷹揚ににっこり[#「にっこり」に傍点]笑った。綾衣は俗にいう若衆顔のたぐいで、長い眉の男らしく力んだ、眼の大きい、口もとの引きしまった点は、優しい美女というよりもむしろ凛(りん)とした美少年のおもかげを見せていた。金糸で大きい鰕(えび)を刺繍(ぬい)にした縹色繻子(はないろじゅす)の厚い裲襠(しかけ)は、痩せてすらりとした彼女の身体(からだ)にうつりがよかった。頭に輝いている二枚櫛と八本の簪(かんざし)とは、やや驕慢に見える彼女の顔をさらに神々(こうごう)しく飾っていた。
「番町の殿様お待ちかねでござります」と、女房は笑顔を粧(つく)った。「すぐにお連れ申しましょうか」
「あい」と、綾衣はふたたび鷹揚にうなずいた。
「では、お頼み申します」
 若い者は提灯を消してひと足さきに帰ると、茶屋の女中は送りの提灯に蝋燭(ろうそく)を入れた。
「きつい風になった。気をつけや」と、女房が声をかけた。
 寒い風が仲の町を走るように吹いて通った。この風におどろいた一匹の小犬が、吹き飛ばされたようにここの軒下へ転げ込んで悲鳴をあげた。
「あれ、怖い」
 禿は新造にすがって、わっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「これ、おとなしくしや」
 綾衣にやさしく睨まれて、禿は新造の長い袂(たもと)の下に小さい泣き顔を押し込んでしまった。

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