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中国怪奇小説集(ちゅうごくかいきしょうせつしゅう)10夷堅志(宋)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 17:49:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   乞食の茶

 都の石氏せきしという家では茶肆ちゃみせを開いて、幼い娘に店番をさせていた。
 ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。あかだらけの顔をして、身には襤褸ぼろをまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんでぜにを取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
 それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
 それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女をつこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
 これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは呂翁りょおうという者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
 娘は小商人こあきんどの子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
 娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに燕王えんおうの孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。

   小龍

 宗立本そうりゅうほんとうこう県の人で、父祖の代から行商をいとなんでいたが、年のけるまで子がなかった。宋の紹興二十八年の夏、きぬのたぐいを売りながら、妻と共に※(「さんずい+維」、第3水準1-87-26)州を廻って、これから昌楽しょうらくへ行こうとする途中、日が暮れて路ばたの古い廟に宿った。数人の従者はを撃って、夜もすがらその荷物を守っていた。
 夜があけて出発すると、六、七歳の男の児が来てその前にひざまずいた。見るから利口そうな小児である。宗は立ちどまって、お前はどこの子かとたずねると、彼ははきはきと答えた。
「わたくしは武昌ぶしょうの公吏の子で、父は王忠彦おうちゅうげんと申しました。運悪く両親に死に別れて、他人の手に育てられていましたが、ここへ来る途中で捨てられました」
 宗は憐れんで彼を養うことにして、その名を神授しんじゅと呼ばせた。神授は見た通りの賢い生まれつきで、書物を読めばすぐに記憶するばかりか、大きい筆を握ってよく大字をかいた。篆書てんしょでも隷書れいしょでも草書そうしょでも、学ばずして見事に書くので、見る人みな驚嘆せざるはなかった。宗はもとより大資本の商人でもないので、しまいには自分の商売をやめて、神授を連れて諸方を遊歴し、その字を売り物にして生活するようになった。
 それからのち二年の春、宗は小児を連れて済南さいなん章丘しょうきゅうへゆくと、路で胡服こふくをきた一人の僧に逢った。僧は容貌魁偉ようぼうかいいともいうべき人で、宗にむかって突然に訊いた。
「おまえはこの子をどこから拾って来た」
「これはわたしの実の子です」と、宗は答えた。「飛んでもないことをお言いなさるな」
「いや、おまえの子ではない筈だ」と、僧は笑いながら言った。「これは私の住んでいる五台山のりゅうだ。五百の小龍のうちで其の一つが行くえ不明になったので、三年前から探していたのだ。お前の手もとに長くとどめて置くと、きっと大いなる禍いを受けることになる。わたしが法を施したから、かれももうどうすることも出来まい」
 僧は水をもとめて噴きかけると、神授はたちまち小さいあかい蛇に変った。僧はかめをとって神授の名を呼ぶと、蛇は躍ってその瓶のうちにはいった。呆れている宗の夫婦をあとに見て、僧は笠を深くして立ち去った。

   蛇薬

 懐金郷かいきんごう程彬ていひんという農民は、一種の毒薬を作って暴利をむさぼっていた。
 それはたくさんの蛇を殺して土中にうずめ、それにとまをかけて、常に水をそそいでいると、毒気が蒸れてそこに怪しいきのこが生える。それを乾かして、さらに他の薬をまぜ合わせるのである。しかし最初に生えた蕈は、その毒があまりに猛烈で、食えばすぐに死んでしまうので、後日ごにちの面倒を恐れて用いず、多くは二度目に生えたのを用いて、徐々にたおれさせるのであった。
 その毒をためすには、かわずに食わせてみるのである。蛙が多く躍り狂えば、その毒の効き目が多いということになっている。その薬の名は万歳丹まんざいたんと称していたが、万歳どころか、実は人の命をちぢめる大毒薬で、何かの復讐などを企てるものは、大金を与えてその秘薬を買った。現に或る家では来客にその薬をすすめようとして、誤まって嫁のしゅうとに食わせたので、驚いていろいろに介抱したが、どうしても救うことが出来なかったという話も伝わっている。
 ていの弟に正道せいどうという者があった。その名のごとく彼は正しい人間であったので、兄の非行を見るに見かねて、数十里の遠いところへ立ち退いてしまった。程もだんだん老ゆるにしたがって、自分の非を悔むようになったので、本当の薬を作ることをやめて、その偽物を売りはじめたが、偽物では効き目がないので、自然に買う者もなくなった。彼は貧窮のうちに晩年を送って、ひとり息子は乞食になった。
 彼がほん物の万歳丹を作っている時のことである。村役人が租税そぜいを催促に行って、なにか彼の感情を害すようなことを言ったので、程はあざむいてかの薬を飲ませると、役人は帰る途中から俄かに頭が痛んで血をいた。さてはと気がついて引っ返して、程の門前にたおれて救いを呼ぶと、彼は水を汲んで来て飲ませてくれた。それで苦痛も薄らいで、役人は無事に助かったということであるから、彼は毒を作ると共に、その毒を消す法をも知っていたらしいが、その法は伝わっていない。

   重要書類紛失

 宋の紹興の初年、甫田ほでん林迪功りんちゅうこうという人は江西のじょうを勤めていたが、盗賊を捉えた功によって、満期の後は更に都の官吏にのぼせられることになっていた。
 そのころ臨安府には火災が多かったので、官舎に寄寓きぐうしている人びとは、外出するごとに勅諭ちょくゆその他の重要書類を携帯してゆくのを例としていた。りんも御用大事と心得ている人物であるので、外出する時には必ず重要書類を懐中して出て、途中でも二、三度ぐらいはあらためることにしていた。
 それで最初は無事であったが、ある時それが紛失したので、彼は三万銭の賞を賭けてその捜査を命じると、たちまちにそれを届けて来るものがあった。それで安心すると、又もや紛失した。又もや賞をかけると、又もや直ぐに届けて来た。こういうことが三度も四度も繰り返されたので、本人も怪しみ、他の者も不審をいだくようになった。これが果てしもなしに続くときは、彼の私財が尽きてしまうか、あるいは重要書類をうしなった罪に服するか、二つに一つはまぬかれないであろうと危ぶまれた。
 林は独身者であるが、近来その部屋のなかでしきりに人声を聞くことがあった。殊に或る夜は何か声高こわだかに論じ合っているようであったが、暫くしてひっそりと鎮まった。あくる朝になっても戸もあけないので、出入りの婆さんが不思議に思って、近所の人びとを呼びあつめ、壁をぶちこわしてはいってみると、林は腰掛けの上にたおれていた。かれは剪刀はさみで喉を突いて自殺したのである。
 さてその死因はわからなかった。伝うるところに拠れば、彼がさきに盗賊二人を捕えた時、いずれもその証拠不十分であるにもかかわらず、彼は自己の功をなすに急なる余りに、鍛錬羅織らしきして無理にかれらを罪人におとしいれた。その恨みが重要書類の紛失となり、さらに彼の死となったのであろうというのである。但しそれが死んだ人の仕業しわざか、生きている人の仕業か、本人に聞いてみなければ判らないのである。

   股を焼く

 宋の宣和せんな年中に、明州昌国しょうこくの人が海あきないに出た。海上何百里、名の知れない大きい島に舟を寄せて、そのうちの数人がたきぎを採りに上陸すると、島びとに見つけられて早々に逃げ帰ったが、その一人は便所へ行っていたために逃げおくれて、遂にかれらの捕虜とりことなった。
 島びとは鉄の綱で彼をつないで、田をたがやさせた。一、二年の後には互いに馴れて、縛って置くことをゆるされたが、初めのうちは島びとがあつまって酒を飲むたびに、彼をその席へひき出して、焼けた鉄火箸を彼の股へあてるのである。かれらはその苦しみもがくのを見て、面白そうに大いに笑った。要するに、彼に残酷な刑を加えて、酒宴の余興とするのである。
 彼ものちにはそれをさとったので、いかに熱い火箸をあてられても、騒がず、叫ばず、歯を食いしばってじっと我慢していたので、かれらは興を失ったらしく、ついにその拷問ごうもんをやめてしまった。
 三年後、かれは幸いに、便船を得て逃げ帰ったが、その両股は一面に黒く焼かれていた。



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