五
わたしが望んだごとく、われわれのうしろの氷面が破れて、細い水の
このようなお化け騒ぎが、船長に対して非常に悪い影響を与えてしまった。わたしは彼の敏感な心を刺戟するのを恐れて、このばかばかしい話を隠そうと努めていたが、不幸にして彼は船員の一人がこの話をほのめかしているのを洩れ聞いて、どうしてもそれを聞こうと言い出した。そうして、わたしが予期した通り、それがために船長のいったん
彼は絶えずつぶやいている。そうして一度「ほんのちっとの間、愛して……ほんのちっとの間!」と叫んだ。
ああ、可哀そうに。立派な海員にして教養ある紳士が、こんな境遇に落ちてゆくのを見るのは悲しいことである。また真の危険もただ生活の一刺戟に過ぎぬとしているような船長の心を、あの空想と妄想とが威嚇するかと思うと、さらに悲しくなるのである。発狂せる船長と、幽霊におびえている運転士との間に、かつて私のような地位に立った者があるだろうか。わたしは時どきに思うのであるが、おそらくあの二等機関手を除いては、私がこの船中でただ一人の正気の人間ではあるまいか。しかし、かの機関手も一種の瞑想家で、彼を独りでおく限り、またその道具を掻きみださない限り、彼は紅海の悪魔に関するほかは何も注意しないのである。
氷は依然として
午後十二時。私は実にもう、ぞっとしてしまった。今はいくぶん落ち着いてはきたが、これとても強いブランディを一杯引っかけたお蔭である。以下この日記が証明するように、私はいまだ全く自己を取り戻してはいないのである。わたしは非常に不思議な経験を味わった。そうして、私にはどうしても合理的だとは思われないような事物を、かれらをたしかに見たというので、私は船中の者をみな狂人ときめてしまったが、今となってはそれが果たして正しいかどうか、はなはだ疑わしくなってきたのである。ああ、こんなつまらないことに神経を奪われてしまうとは、私もなんという大馬鹿者であろう。これはすべての馬鹿騒ぎのあとから起こったことであるが、ここに書き加える価値があると思う。いつも馬鹿にしていたことも、今みずからこれを経験するに及んで、もはやミルン氏の話も、例の運転士の話も、いずれもこれを疑うことが出来なくなったからである。
さて夕食が終わって、私は
こんな心持ちで、わたしは舷檣にひとり
最初はあたかも楽劇の
明かり取りのあるところを降りて来ると、見張り番交代に昇って来るミルン氏に逢った。
「さて、ドクトル」と、彼は言った。「おそらくそれは馬鹿な話だろうよ。君はあの
私はこの正直な男に詫びを言い、そうして私もまた彼と同じように
九月十八日。わたしはなお、かの奇妙な声に悩まされつつ、落ち着かない不安な一夜を過ごした。船長も安眠したようには見えない。その顔は
わたしは昨夜の冒険を彼に話さなかった。いや、今後とてもけっして話すまい。彼はもう落ち着きというものが少しもなく、まったく興奮している。そわそわと立ったり居たりして、少しの間もじっとしていることが出来ないらしい。
けさは私の予期のごとく、あざやかな通路が群氷のうちに現われたので、ようやくに
船長はこれが苦労の仕納めだとは全然思っていないようであった。他の船員らはみな奇蹟的脱出をなし得たと考えて、もはや広い大海へ出るのは確実であると思っているのに、なにゆえに船長は事態を悲観的にのみ見ているのか、わたしにはとうてい測り知られないことである。
「ドクトル。察するに、君はもう大丈夫だと思っているね」と、夕食の後、一緒にいる時に船長は言った。
「そうありたいものです」と、私は答えた。
「だが、あまり楽観してはならない。もっとも、たしかなことはたしかだが……。われわれはみな、間もなく自分自分のほんとうの愛人のところへ行かれるのだよ。ねえ、君、そうではないかね。しかしあまり楽観してはならない。……楽観し過ぎてはならないね」
彼は考え深そうに、その足を前後にゆすりながら、しばらく黙っていた。
「おい、君」と、彼はつづけた。「ここは危険な場所だよ。一番いい時でも、いつどんな変化があるか分からない危険な場所だ。わしはこんなところで、まったく突然に人がやられるのを知っている。ちょっとした失策の踏みはずしが、時どきそういう結果を惹き起こすのだ。――わずかに一つの失策で氷の裂け目に陥落して、あとには緑の泡が人の沈んだところを示すばかりだ。まったく不思議だね」
彼は神経質のような笑い方をしながら、なおも語りつづけた。
「ずいぶん長い間、毎年わしはこの国へ来たものだが、まだ一度も遺言状を作ろうなどと考えたことはない。もっとも、特にあとに残すようなものが何も無いからでもあるが……。しかし人間が危険にさらされている場合には、よろしく万事を処理し、また用意しておくべきだと思うが、どうだね」
「そうです」と、私はいったい、彼が何を思っているのかと怪しみながら答えた。
「誰にしたところが、それがみな決めてあると思えば安心するものだ」と、彼はまた言った。「そこで、何かわしの身の上に起こったら、どうかわしに代って君が諸事を処理してくれたまえ。わしの
「まったくそうです」と、私は答えた。「船長さんがこういう手段をとられるからには、わたしもまた……」
「君は……君は……」と、彼はさえぎった。「君は大丈夫だ。いったい君になんの関係があろうか。わしは短気なことを言ったわけではない。ようやく一人前になったばかりの若い人が、〈死〉などということについて考えているのを、聞いているのは
この会話について考えれば考えるほど、私はますます忌な心持ちになって来た。あらゆる危険を逃がれ得られそうな時に、なぜ遺言などをする必要があるのであろう。彼の気まぐれには、きっと何かの方法があるに相違ない。彼は自殺を考えているのであろうか。私はある時、彼が自己破壊のいまわしい罪であることを、非常に
ミルン氏は私の恐怖を嘲笑して、それは単に「船長のちょっとした癖」に過ぎないと言っている。彼は