二
会津屋のむすめのお定とお由はわたくしの稽古朋輩で、おなじ裁縫のお師匠さんへ通っているのでございます。従妹同士でもあり、稽古朋輩ですから、ふだんから仲のいいのは勿論で、叔父さんがそんな風ではわたくしたちばかりでなく、さあちゃんやおよっちゃんもさぞ困るだろうなどと考えると、わたくしは本当に悲しくなりました。こういう時の心持は悲しいとか情けないとかいうよりほかに申上げようはございません。どうぞお察しを願います。 あくる日、お稽古に参りますと、お定とお由の姉妹はいつもの通りに来ていました。気をつけて見ますと、わたくしの気のせいか、姉妹ともになんだか暗いような、涙ぐんだような顔をしています。ゆうべのことについて、もっと詳しく訊いてみたいような気もしましたけれど、ほかにも稽古朋輩が五、六人坐っているのですから迂濶なことも言えません。お稽古が済んで、途中まで一緒に帰って来ると、お定が歩きながらわたくしに訊きました。 「家のおっかさんがゆうべお前さんのとこへ行ったでしょう。」 「ええ、来てよ。」 「どんな話をして……。」 正直に言えばよかったのでしょうが、わたくしは何だか言いそびれて、叔母さんはわたしがお湯に行っている留守に来たのだから、どんな話をしたのかよく知らないと、いい加減にごまかしてしまいました。お定はだまってうなずいていましたが、その苦労ありそうな顔は、わたくしにもよく判りました。やがて横町の角へ来たので、そこで別れて二、三間ほど歩き出しますと、お定は引っ返してわたくしのあとを追って来ました。そうして、わたくしの耳の端へ口を寄せるようにして、小声に少し力を籠めて言いました。 「およっちゃんと仲よくして頂戴よ。」 そう言ったかと思うと、足早にまた引っ返して行ってしまいました。なんの訳だか判りません。きょうに限って、お定がなぜわざわざそんなことを言ったのか、わたくしも少しおかしく思いました。 およっちゃんというのは妹のお由のことで、わたくしの兄とは三つ違いでございまして、従妹同士の重縁でゆくゆくは兄と一緒にするという相談が、双方の親たちのあいだに結ばれていることを、わたくしも薄うす承知していましたから、わたくしに向っておよっちゃんと仲よくしてくれというのは判っています。しかし今さら思い出したように往来のまん中で、だしぬけにそんなことを言ったのはどういう料簡か、年のゆかないわたくしには呑み込めませんでしたが、それでも深くも気に留めないで、そのまま自分の家へ帰りました。勿論、母にもそんな話はしませんでした。 その日はずいぶん暑かったのを覚えています。あんまり蒸すから今に夕立でも降るかも知れないと母が言っていますと、果して七つ半、唯今の午後五時でございます。その頃から空が陰って来ました。西の方角で遠い雷の音がきこえました。わたくしも雷が嫌いですが、母はなおさら嫌いで、かみなり様が鳴り出したが最後、顔の色をかえて半病人のようになってしまうのでございます。空は陰って来る、雷は鳴って来る、母の顔色はだんだん悪くなって来る。わたくしもかねて心得ていますから、蚊帳を吊る。お線香の支度をする。それから裏の空き地へ出て干物を片づける。そのうちに大粒の雨が降って来る。いなびかりがする。あわてて雨戸を繰出している間に、母は蚊帳のなかへ逃げ込んでしまいました。 いや、こんなことを詳しく申上げていては長くなります。とにかく、それから半時あまりは雨と雷と稲びかりとが続いて、わたくしも仕舞いには母の蚊帳のなかへもぐり込むような始末でございました。横町の中ほどにある大きい銀杏に雷が落ちたときには、わたくしも気が遠くなるくらいに驚かされました。 その夕立もようやく通り過ぎて、ゆう日のひかりが薄く洩れて来たので、母もわたくしも生きかえったように元気が出て、蚊帳をはずしたり、雨戸を明けたりしていると、どこの家でも同じことで、雨戸をあける音や、人の話し声や、往来をあるく足音や、それらが一緒になって、世間は夜があけたように賑やかになりました。 「さっきのかみなり様は一つ、どこか近所へお下りなすったに相違ないよ。」と、母は言いました。 「そうでしょうねえ。」 そんなことを話し合っているうちに、表はいよいよ騒がしくなって、大勢の人が駈けて行く足音がきこえます。そうして、女だとか若い女だとかいう声がきこえます。何事が起ったのかとわたくしも表へ出てみると、横町の中ほどにある銀杏のまわりに大勢の人があつまっているので、雷はあすこへ落ちたのだろうと思いましたが、若い女だというのが判りません。もしや誰かが雷に撃たれたのかと、怖いものを見たさに駈けて行きますと、案の通り、そこには若い女が倒れているのでございます。 女は雨やどりをするつもりで銀杏の下へ駈け込んだのか、それとも、ちょうど銀杏の下を通りかかったのか、いずれにしても、その木に雷が落ちたために、女も撃たれて死んだらしいのです。 雷に撃たれて死んだ人を生れてから初めて見て、わたくしは思わずぞっとしましたが、もう一つ驚かされたのは、倒れている女の右の腕あたりにかなり大きい一匹の青い蛇が長くなって死んでいることでした。 そこらにいた人たちの話では、その蛇は銀杏の洞のなかに棲んでいたものだろうということで、勿論その女に関係はないのでしょうが、なにしろ若い女が髪をふり乱して倒れている。その腕のあたりに長い蛇が死んでいるというわけですから、わたくしはまたぞっとしました。 それだけで逃げて帰ればよろしいのですが、唯今も申す通りに怖いもの見たさで、わたくしは怖ごわながらそっと覗いてみると、その女の顔には見覚えがあります。年のころは二十二、三の粋な女――きのうのお午ごろ、叔父と一緒にわたくしの家のまえに立っていた女――着物は変っていましたけれど、確かにそれに相違ないので、わたくしは俄かにからだ中が冷たくなって、手も足もすくんでしまうように思われました。どこの何という人か知りませんけれど、ともかくも叔父と連れ立って、きのうここへ来た女がきょうもまたここへ来て、しかも雷に撃たれて死んだということが、わたくしに取っては不思議なような、怖ろしいような、何かの因縁があるような、一種の言うにいわれない不気味さを感じたのでございます。こう申すと、みなさんは定めてお笑いになるかも知れませんが、わたくしはその時まったく怖かったのでございます。 死骸のまわりには大勢の人があつまっていましたが、唯がやがやと騒いでいるばかりで、その女がどこの誰だか、識っている者はないようでございます。自身番からも人が来て、御検視を願うのだとか言っていました。 叔父のところへ知らせてやれば、おそらく身許は判るだろうと思うのですけれど、うっかりしたことを言っていいか悪いか判りませんから、わたくしは急いで家へ帰って来て、母にその話をしますと、母も顔をしかめて考えていましたが、そんなことに係り合うと面倒だから、決してなんにも言ってはならないと戒めました。それでもなんだか気にかかるとみえて、母はまた考えながら起ちあがりました。 「おまえ、見違いじゃあるまいね。確かにきのうの女だろうね。」 「ええ、確かにきのうの人でした。」と、わたくしは受合うように言いました。 「それじゃ会津屋へ行って、叔父さんにそっと耳打ちをして来ようかねえ。」 母は思いきって出て行きました。そのうちに日も暮れてしまって、例の蚊いぶしの時刻になりましたが、わたくしは今夜もぼんやりして、ただ坐ったままでその女のことばかりを考えていました。 雷に撃たれて死んだのですから、別に叔父の迷惑になるようなこともあるまいとは思うのですが、ともかくも叔父の識っている人が変死を遂げたということだけでも、決していい心持はいたしません。その女は夕立の最中になんでこの横町へ来たのだろう。もしやわたしの家へたずねて来る途中ではなかったか。そうすると、わたくしの家の者も自身番へ呼出されて、なにかのお調べを受けはしまいかなどと、それからそれへといろいろのことを考えて、いよいよ忌な心持になっているところへ、母があわただしく帰って来ました。 「まあちゃん。」 わたくしを呼ぶ声がふだんと変っているので、なんだかぎょっとして振返ると、母は息をはずませながら小声で言い聞かせました。 「会津屋のさあちゃんが何処へか行ってしまったとさ。」 「あら、さあちゃんが……。どうして……。」 わたしもびっくりしました。
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