規矩男の家は武蔵野の打ち続く平地に盛り上った一つの瘤(こぶ)のような高まりの上に礎石を載せていた。天井の高い二階建ての洋館は、辺りの日本建築を見下すように見える。赤い煉瓦(れんが)造りの壁面を蔦蔓(つたづる)がたんねんに這(は)い繁ってしまっている。棲家として一番落着きのある風情を感じさせるものは、イギリスの住宅建築だということを、規矩男の父親は、その外国生活時代に熟々(つくづく)感じたので、辺りの純日本風景にはそぐわないとも考えたが、そんな客観的の心配は切り捨てて、思い切り純英国式の棲家を造らせ、外国で使用した英国風の調度類を各室にあふれるように並べて、豊富で力強い気分を漂わせた。建築当初は武蔵野の田畑の青味に対照して、けばけばしく見え、それが却(かえ)ってこの棲家を孤独な淋しい普請のようにも見させたが、武蔵野の土から生えた蔦が次第にくすみ行く赤煉瓦の壁を取り巻き、平地の草の色をこの棲家の上にも配色すると、大地に根を下ろした大巌(おおいわ)のように一種の威容を見せて来た。 正面の石段を登ると、細いバンドのように閂(かんぬき)のついた木扉が両方に開いて、前房(ヴェルチビュル)は薄暗い。一方には二階の明るさを想(おも)わせる、やや急傾斜の階梯(かいてい)がかっちりと重々しく落着いた階段を見せている。錆(さ)びた朱いろの絨緞(じゅうたん)を敷きつめたところどころに、外国製らしい獣皮の剥製(はくせい)が置いてあり、石膏(せっこう)の女神像や銅像の武者像などが、規律よく並んでいる。 かの女を出迎えて、それからサロンへ導いた規矩男の母親は、 「毎度、規矩男がお世話さまになりますことで」 と半身を捩(ね)じらして頭を下げた。もっともその拍子にかの女の様子をちらりと盗(ぬす)み視(み)したけれども、かの女はどこの夫人にもあり勝ちな癖だからと、別にこれをこの夫人の特色とも認めることは出来なかった。 かの女は普通に礼を返した。 話はぽつんとそれで切れた。好奇心で一ぱいのかの女には却って何やかや観察の時間が与えられ都合がよかったが、常識的の社交の儀礼に気を使うらしい夫人は、ひどく手持ち無沙汰(ぶさた)らしく、その上茶を勧めたり菓子を出したりして、沈黙の時間を埋めることを心懸けているように見えた。 かの女は、まず第一に夫人を美人だなと思った。それは昔風の形容の詞句を胸のうちに思い泛(うか)べさせる美人だなと思った。いわゆる瓜実顔(うりざねがお)に整った目鼻立ちが、描けるように位置の坪に嵌(はま)っていて、眉(まゆ)はやや迫って濃かった。かの女は逸作の所蔵品で明治初期の風俗を描いた色刷りの浮世絵や単色の挿画を見て知っていた。いわゆる鹿鳴館時代(ろくめいかんじだい)と名付ける和洋混淆(わようこんこう)の文化がその時期にあって、女の容姿にも一つタイプを作った。江戸前のきりりとして、しかも大まかな女形男優顔の女が、前髪を額に垂らしたり、束髪に網をかけたりしていた。そして襟の詰った裾(すそ)の長い洋装をしていた。 いま夫人は髪や服装を現代にはしているが、顔立ちは鹿鳴館時代の美人の系統をひくものがあった。土着の武蔵野の女には元来こういうタイプがあるのか、それともこの夫人だけが特にこういう顔立ちに生れついたのか、かの女は疑いながら、しかし無条件に通俗な標準の眼から見たら、結局こういうのが美人と云えるのではないかと思ったりした。蔦の葉の単衣(ひとえ)が長身の身体に目立たぬよう着こなされていた。 「この辺は藪(やぶ)がありますので、春の末からもう蚊が出ますのでございますよ。お気をつけ遊ばせ」 と、ちょっと何か払うようなしなやかな手つきをして、更に女中の持って来た果物を勧めたりした。 始終七分身の態度で、款待(もてな)しつづけ、決してかの女の正面に面と向き合わない夫人の様子に、かの女は不満を覚えて来た。 「奥さま、もう結構でございますわ。勝手に頂戴(ちょうだい)いたしますから」かの女はなおもシトロンの壜(びん)の口をあけて、コップの口に臨ませて来る夫人を軽く手で制してそう云った。「それよりか、奥さまにもお楽にして頂いて、何かお話を承りとうございますわ」 「恐れ入ります」 夫人はやっとソファの端に膝(ひざ)を下ろした。しかし、両手で袖口(そでぐち)を引っぱってから畏(かしこ)まるように膝を揃(そろ)え、顎(あご)を引いて、やっぱり顔を伏せ気味にしている。 かの女はすこし焦(じ)れて来た。ひょっとしたら自分の息子と交際のある年上の女性というところをおかしく考え、一種の反意をこういう態度によって示すのではないかしらと、僻(ひが)みをさえ覚えた。かの女は何とか取做(とりな)さねばならぬと考えた。かの女は、 「規矩男さんは、なかなかしっかりしていらっしゃいますね」と云って、あまり早く問題を提議したような流暢(りゅうちょう)でない気持がした。 夫人は息子のことを云われて、何故かぎょっとしたようであった。はじめて正面にかの女を見た。 「そうでございましょうか。なにしろ父の死後女親一人で育てたものでございますから、万事行き届かぬ勝ちでございまして」 夫人の整った美しい顔に憐(あわ)れみを乞(こ)うような縋(すが)りつき度(た)いような功利的な表情が浮んで、夫人の顔にはじめて生気を帯ばした。 はじめからこの顔のどこが規矩男に似てるのだろうかと疑っていたかの女は、はじめて相似の点を発見した。それは規矩男が、一番平凡になって異性に物ねだりするときの顔付きであった。この相似を示す刹那(せつな)を通じて、規矩男の眼鼻立ちの切れ目に母親の美貌(びぼう)の鮮かさが伝っているのがはっきり観(み)て取れた。 夫人は心安からぬ面持ちを続けながら、 「なにしろわざと大学へは入学をおくらせて、ただぶらぶら遊んで居りますし、ときどき突拍子もないことを云い出しますし、私一人の手に負えない子でして、奥さまのようなお偉い方とお近付きになりましたのを幸い、あれに意見して頂き、また今後の教育の方法に就(つ)いてもお伺いもして見たいとは思って居りましたのですが、あんまり無学なお訊(たず)ね方をするのも失礼でございますし」夫人は両袖(りょうそで)を前に掻(か)き合せた。 かの女は夫人をあわれと思い乍(なが)ら頓(とみ)に失望を感じた。あれほどの複雑な魂を持つ青年の母としては、あまりに息子の何ものをも押えていない母。ただ卑屈で形式的な平安を望むつまらない母親である。なるほど規矩男が、かの女に母を逢(あ)わせることを躊躇(ちゅうちょ)したのも無理はないと、かの女は思った。 「そんなことごさいませんわ。むす子を持ちます母親同志としてなら、何誰とどんなお話でも出来ますわ」 かの女はそう云って、相手に対する影響を見ているうちに微(かす)かな怒りさえこみ上げて来た。もしこの上、この母親に不甲斐(ふがい)ない様子を見続けるなら、 「ぐずぐずしているなら、あなたのあんないいむす子さん奪(と)っちまいますよ」と云ってやり度(た)い位だった。 だか夫人は、かの女のそういう心の張りを外の方へ受けて行った。 「失礼ですけれど、あなたはそんなむす子さんがおありのようにお見受け出来ません。あんまりお若くて」 かの女はこの際「若い」と云われることに甘暖かい嫌悪を感じた。 今までの款待(もてなし)の上に女中がまたメロンを運んで来た。すると夫人は、またその方に心を向けてしまって、これは近所で自慢に作る人から貰ったとか、この片が種子が少いとか、選(よ)り取るのに好意を見せて勧めにかかった。 そんなことにばかりくどくかかずらっている母親にかの女は落胆して、もうどうでもいいと思った。自分の息子が大事だ。人のむす子やその母親のことなど、心配する贅沢(ぜいたく)はいらないと思った。しかし規矩男のぶすぶす生燃えになっているような魂を考えると、その母をも、もう少し何とかしてやりたいと諦(あきら)め兼ねた。窓の外の木々の葉の囁(ささや)きを聴き乍(なが)ら、かの女は暫(しばら)く興醒(きょうざ)めた悲しい気持でいた。すると何処かで、「メー」と山羊(やぎ)が風を歓(よろこ)ぶように鳴いた。 さっきから、かの女の瞳(ひとみ)を揶揄(やゆ)するように陽の反射の斑点(はんてん)が、マントルピースの上の肖像画の肩のあたりにきろきろして、かの女の視線をうるさがらしていた。窓外の一本太い竹煮草(たけにぐさ)の広葉に当った夕陽から来るものらしかった。かの女はそのきろきろする斑点を意固地(いこじ)に見据えて、ついでに肖像画の全貌(ぜんぼう)をも眺め取った。幸い陽の斑点は光度が薄かったので、肖像画の主人公の面影を見て取ることが出来た。金モールの大礼服をつけた額の高い、鼻が俊敏に秀でている禿齢の紳士であった。フランス髭(ひげ)を両顎(りょうあご)近くまで太く捻(ひね)っているが、規矩男の面立ちにそっくりだった。 かの女はつと立ち上り、その大額面の下に立ってやや小腰をかがめ、 「これ、規矩男さんの、おとうさまでいらっしゃいましょうか」と云った。 釣り込まれたようにかの女のそばへ寄って来て、思わず並んで額面を見上げた夫人は、無防禦(むぼうぎょ)な声で、 「はあ」と云ったが、次にはもう意志を蓄えている声で、「これはあんまりよく似ちゃおりません。少し老けております」 と云った。規矩男から彼の父親の晩年の老耄(ろうもう)さ加減を聞いて知っているかの女は、夫人が言訳しているなと思った。年齢に大差ある結婚を、夫人がまだ身に沁(し)みて飽き足らず思っているのを感じた。 「お立派な方ですこと」かの女はしんから云った。 「いえ、似ちゃおりません」 重ねて云った夫人の言葉は、かの女がびっくりして夫人の顔を見たほど、意地強い憎みの籠(こも)った声であった。そしてなおかの女が驚きを深くしたことは、夫人の面貌や態度に、今までに決して見かけなかった、捨て鉢であばずれのところを現わして来たことだった。夫人は、 「あは、はははは」 何ということなしに笑ったようだが、その顔や声は夫人が古風な美貌であるだけに、ねびた嫌味があった。 夫人は自分の変化をかの女に気取られたのを知って、ちょっとしまったという様子を見せ、指を旧式な「髷(まげ)なし」という洋髪の鬢(びん)と髱(たぼ)の間へ突込んで、ごしごし掻(か)きながら、しとやかな夫人を取り戻す心の沈静に努める様子だったが、額の小鬢には疳(かん)の筋がぴくりぴくり動いた。小鼻の皮肉な皺(しわ)は窪(くぼ)まった。 かの女は目前の危急から逃れ度いような気もちになって、何か云い紛らしたかった。 「規矩男さんは、ご主人に似ていらっしゃいますこと」 「規矩男は主人に似てるといっても形だけなんでございますよ。あれはとても主人のようにはなれますまい」 ここでまた夫人は白く笑った。 夫人が云ってる様子は、かの女に云っているのか、独白なのかけじめのつかないような云い方だった。 「奥さま、あなたはさっき規矩男を、なかなかしっかりしてると仰(おっしゃ)って下さいましたが、そう云って下さるお心持は有難うございますけれども、実際規矩男はやくざ[#「やくざ」に傍点]で、世間の評判もよくありません。中学や高等学校はよく出来たんですけれども、それからが一向纏(まと)まらないんです。多分、老後の父親が、つまらないことを死ぬまで云い聞かせて置いたためでしょう」 「それは規矩男さんからもうかがいました。でも、規矩男さんはいまそういうことに就(つ)いてだいぶ考えていらっしゃるようでございますが」漸(ようや)くかの女は言葉を挟む機会を捉(とら)えた。「大丈夫だと存じますが……」 「そうでございましょうか。わたしはあれが、どうせ主人のようにはなれませんでも、わたくしは何とかしてあの子を、勤め先のはっきりした会社員か何かにして、素性のいい嫁を貰って身を固めさしてやり度いと思うのでございます。それには大学だけは是非出て貰わねばなりません」 かの女は夫人が、妻の自分にも子の規矩男にも夫の与えた暴戻なものに向って、呪いの感情を危く露出しそうになったのに、どうなることかとはらはらしていた。それもだんだん平板に落着いて来たが、あの規矩男にこういう母親の平凡な待望がかけられているとは、あまり見当違いも甚しく、母子ともに気の毒な感じがする。 かの女はふと「あの規矩男さんのお嫁さんは、もうお決りのがございますの」と訊(き)いてみる気になった。それはいかにも、互のむす子を持つ母親同志の心遣いらしい会話であるのを思いついたので。 すると夫人は可成り得意の色を見せて来て、 「はあ。少し義理のある知合いの娘で、気質もごくさっぱりしてますのがございますので、大体親達の間では決めてはいるんですけれども、これも、当人同志の折合い第一ですから、それとなく交際させて見ております」 夫人はちらとかの女の顔色を見て、 「当人同志も、どうやら気に入り合ってるようでございます」 そう云って夫人は、またかの女をもてなすために部屋を出て、女中に何かいいつけに行った。昔の恋人の娘をむす子の許嫁(いいなずけ)にした御都合主義も、客に茶菓ばかりむやみにすすめにかかる夫人の無智と同列なのではなかろうか、といよいよかの女は興覚めてくると、其処へ規矩男が、ふざけた子供のようなとぼけた顔をして入(はい)って来た。規矩男はかの女を自分の家へ案内して置いて、 「どうも女の人同志の初対面の挨拶(あいさつ)なんかへ、恥しくって立ち合えませんね」 と狡(ずる)くはにかんで、書斎の方へ暫く逃げていたのだ。かの女には、それがもう十分規矩男が自分に馴(な)れて甘えて来た証拠のように思えた。かの女はあの母を見たあとにこの規矩男を見、切ない自分の「母子情」を仲介にして自分に近づく運命を持ち、そして自分の心をこれほど捉え、これ程自分に馴れ甘える青年を、自分はもう何処までも引き寄せて愛撫(あいぶ)し続けてやり度い心が、胸の底からぐっとこみ上げて来るのを感じた。
今日は規矩男の書斎に案内された。二階の一番後方に当った十五畳敷位の洋間である。浅緑のリノリュームが、室の二方を張った硝子窓(ガラスまど)から射(さ)し入る初夏近い日光を吸っている。高い天井は、他の室と同じ英国貴族の邸宅に見るような花紋の浮彫りがしてあり、古代ギリシヤ型の簡素な時計が一個、書籍を山積した大デスクの上壁に、ボタンで留めたようにペッタリと掛っている。その他に装飾らしい何物もない。その室内で非常に目立つ一つのものは、ちょっと見ては何処の国の型かも判らない大型で彫刻のこんだ寝椅子(ねいす)が室の一隅に長々と横はり、その傍の壁を切ったような通路から稍々(やや)薄暗い畳敷きの日本室があり、あっさりと野菊の花を活(い)けた小さな床があった。 西洋室の二方にはライブラリ型の棚があり、其処には和洋雑多な書籍が詰っていた。だが、机の上の山積の書物にも書架の書物にも、紗(しゃ)のような薄い布が掛けてあって、書物の題名は殆(ほとん)ど読み分けられなかった。かの女がやや無遠慮にその布を捲(まく)ろうとすると、規矩男は手を振って「今日は書物なんかにかかわり度(た)くはないですよ」と止めた。 「だけどあなたは随分読書家なんでしょう」 「まあね」 規矩男はにやにや笑って、 「それだけに堪(たま)らなく嫌になって、幾日も密閉して、書物の面見るのも嫌になるんですよ。今はその時期です」 「人間にもそんなんじゃない」 「まあそんな傾向がないとは云えませんがね。しかし、人間に対しちゃ責任があるもの、いくら僕だってそんな露骨なことしやしません」 「だって一度恋人だったものがただの許嫁(いいなずけ)に戻ったりして……」 「あのことですか、だって僕は女性がまだあの頃判らなかったし、ただちょっと珍しかったからですよ」 「では、今は珍しくなくって、そして女性が判って来たとでもいうのですか」 「そんなこと云われると、僕はあれ[#「あれ」に傍点]のこと打ち明けなければ好かったと思いますよ。あなたは偉いようでも女だなあ。何も人間の判る判らないのに、順序や年代があると決らないでしょう。本を読んだり年を取ったり、体が育ったりするだけでも、その人の感情や嗜好(しこう)や興味は変って来るでしょう」 「それはそうね。でもその人を貫く大たいの情勢とか嗜好とかの性質は、そう変らないでしょう」 「そうです。それだけに大たいを貫くものにぶっ突からないものは、じきはずれて行くんです」 「それで判ったわ」 「ほんとうですか。書物にだってそうです。自分がその中に書いてあることにむしろ悩まされながら、執着したりかかずらわずにはいられない書物があるでしょう」 「近頃そんな書物に逢(あ)って?」 「シェストフですね。シェストフの虚無を随分苦しみながら噛(か)み締めました。だが、西洋人の虚無は、すでに『否定』という定義的な相手があっての上の虚無です。ですから感情的で痛快ですが、徹底した理智的なものとは云えません。と云って東洋人の虚無は、自然よりずっと冷い虚無です。石か木かに持たすべき思想です。そこで僕等は『何処へ行くべき』です」 「あなたの云うそれは、東洋の老荘思想の虚無よ。大乗哲学でいう『空』とか『無』とかはまるで違うのよ。あらゆるものを認めてそれを一たん無の価値にまで返し、其処から自由性を引き出す流通無碍(りゅうつうむげ)なものということなのよ。それこそ素晴しく闊達(かったつ)に其処からすべての生命が輝き出すということなの。ところが青年というものは、とかく否定好きなものなのよ。肯定は古くて否定は何か新鮮なように思うのね。生命の豊富な資源を使い分けるよりも、否定に片付いている方がむしろ単純で楽なんじゃない?」 「そう云われれば、僕なんか嫌でやり切れないくせに、シェストフの著書に引っぱられているわけが自分でも判るんです」 女中が紅茶を二つ運んで来て、規矩男の大デスクの上の書籍の空間へ置いて行った。規矩男は一つをかの女に与え、自分も一つを飲みながら、 「今日は母が居ないからご馳走(ちそう)がないな。だけどご馳走攻めされなくて煩わしくないでしょう」 でもそう云われればかの女は、それが規矩男の母の美点だとさえ思えて来るのである。煩わしいのはそれが形式で、その他の気持の上での分量を何も相手に与えないから、一方の形式が目立ち過ぎて煩わしく感じられるのだ。 「規矩男さんのお母さんは……」 とかの女が云いかけると、 「まあ僕の母のことは好いです」と抑えて、「あなたゴルキーの母という小説を読みましたか」 「ええ、読んでよ」 「あの母は感心というより可愛(かわ)ゆいな」 「ほんとう。母が始めから子供の理論を理解して共鳴したりしない処がむしろ可愛ゆいわね。子供に神様を取り上げられて悄気(しょげ)ながらも、子供の愛と同時にあの思想に引き入れられちまったのね」 「それはそうと、あなたはむす子さんのいいつけ[#「いいつけ」に傍点]通りの着物の色や柄を買って着ると仰有(おっしゃ)ったね。その襟の赤と黒の色の取り合せも?」 「ええ」 「ふーむ、ユニークな母子叙情の表現法だなあ」
かの女は、枕元(まくらもと)のスタンドの灯を消し、自分の頬(ほお)に並べて枕の上に置いてあった規矩男の手紙を更に夜闇(よやみ)のなかに投げ出した。規矩男の手紙を読み終えてから今までじっと悲しく見つめ考えていたスタンドの灯影の一条が、闇のなかで閉じたかの女の眼の底に畳まり込み、それが規矩男の手紙の字画の線の印象と同じ眼底で交り合い、なかなか眠りに入れそうもない。 規矩男の手紙には、かの女と逢わなくなったこの短時日の間に経た苦難の後の気持から出た響きがあった。 [#ここから1字下げ] ……(前略)あなたが、あなたの母子情を仲介にして若い男に近づいていることが無意識にもせよ、あなたの母子情を利用しているようで堪えられないと仰有(おっしゃ)れば、僕とても、僕に潜在していた不満な恋愛感を、あなたに接触することで満足させようとしたと云われても――否むしろ僕自身そう僕を観察さえするようになりました。あなたの潔癖があなたの母子情を汚涜(おとく)することとして、それをあなたに許さないように、僕もあなたのその潔癖を汚しては済まないと思います。で、あなたとの御交際をこれ切りで打ち切らなければならないことも諒解(りょうかい)出来ました。しかし茲(ここ)で僕に少しく云わして頂き度い。あなたと僕と「性」の対蹠的(たいせきてき)な要素を無視して交響し合うことが出来なかったのは、かえりみて僕にもはっきりと判って来ましたが、僕は負け惜しみではありませんが、それを直(す)ぐフロイドのように性慾の本能というハッキリしたものへ持って結び付けることは浅はかだと思います。なぜなら、その本質はどこ迄も一元より更に基本性を帯びた根元の人間感覚では、空虚という絶対感に滅入してしまうより仕方のない奥深いところで結び合う――あのいつぞやあなたと話し合いましたね、ローレンスの文学を構成している性――あれですね。ローレンスの性の根本的意義はもちろん一方に性慾も含まれているには違いないが、もっと両性の細胞の持つ電子のプラスとマイナスの配合の問題として考え度(た)いと、あなたは仰有(おしゃ)いましたね。今にして思えば、僕等は僕等の性のおつき合いをあの解釈にあてはめ度いと思うのです。あたりまえのようで不思議なのは、あなたも僕も同じ熱情的であり自我的でありながら、それが空虚の心境にまで進んでいたことです。しかし、違うところ――つまりプラスとマイナスの相違となったのは、あなたのは何処までも教養で得た虚無であり、僕のは自我と熱情で強引に押し進めて行った結果のコチコチの殻を背負った虚無なのです。 僕は仄(ほの)かに力強いものをあなたに感じました。これ以上説明しにくいですが強いて云えば、あなたの空虚は――照らしているものの空虚――存在の意識を確めさせる空虚――夢中で弾ませる空虚――自然に在っては、微(かす)かな風に吹かれているときの花の茎に認められ――人間に在っては、一種の独断的な無心な状態に於けるとき湛(たた)えられている、あの何とも知れない無限で嫋(たお)やかな空虚――(後略) [#ここで字下げ終わり]
かの女は自分を虚無の殻に押し込め乍(なが)ら、まだまだ其処から陽の目を見よう見ようと※(もが)いている規矩男の情熱の赤黒い蔓(つる)を感じる。そしてその蔓の尖(さき)は、上へ延びようとして却(かえ)って下へ深く潜って行く……かの女は自分を潔くするためにそれを見殺しする自分の行為が、勝手がましくも感ぜられて悲しい。かの女は自分の娘時代の寂しくも熱苦しかった悶(もだ)えを想(おも)い出した。 (山に来て二十日経ぬれどあたたかくわれをいたはる一樹だになし――娘時代のかの女の歌より)精神から見放しにされたまま、物足りなさに啜(すす)り泣いていた豊饒(ほうじょう)な肉体――かの女が規矩男のその肉体をまざまざ感じたその日、かの女は武蔵野へ規矩男を無断で置いて来た。それが最後で規矩男からかの女は訣(わか)れ去って来て仕舞ったのであった。 その日規矩男の書斎から出た二人は、また武蔵野の初夏近い午後をぶらぶら歩き出した。一度日が陰って暗澹(あんたん)としたあたりの景色になったが、それを最後に空は全体として明るくなって来た。木々の若芽の叢(くさむら)が、垂れた房々を擡(もた)げてほのかに揮発性の匂(にお)いを発散する。山中の小さい峠の下り坂のようになって来た小径(こみち)は、赤土に湿りを帯びていて、かの女の履きものの踵(かかと)を、程よい粘度で一足一足に吸い込んだ。 規矩男はまだシェストフについて云い続けていた。そして彼が衷心の感想を話す時のてれ[#「てれ」に傍点]隠しに、わざと昂然(こうぜん)とした態度を採る。その癖で今日も彼独得の陰性を帯びた背の反らし方をして、右手を絶えずやけに振り廻(まわ)していた。 「虚無でなければ無限絶対でないにしても嫋やかで魅力が無ければ僕たち人間には訴えて来ません」 規矩男の云うことはだんだん独語的になって、何の意味か、かの女にも判らなくなって来た。しまいには規矩男はナポレオンの晩年の悲運を思わせる、か細く丸く尖(とが)った顎(あご)を内へ引いて苦笑した。稚気を帯びた糸切歯の根元に細い金冠が嵌(はま)っている。かの女は急に規矩男が不憫(ふびん)で堪(たま)らなくなった。かの女の堰(せ)きとめかねるような哀憐(あいれん)の情がつい仕草に出て、規矩男の胸元についているイラクサの穂をむしり取ってやった。高等学校の制服を、釦(ボタン)がはち[#「はち」に傍点]切れるほどぴったり身につけている。胸の肉は釦の筋に竪の谷を拵(こしら)えるほどむっちり盛り上っている。紺サージの布地を通して何ものかを尋ね迫りつつ尋ねあぐんでいる心臓の無駄な喘(あえ)ぎを感ずると、何か優しい嫋やかなものに覆い包んで、早くこの若者を靉靆(あいたい)とした気持にさせてやりたい薄霧のような熱情が、かの女の身内から湧(わ)きあがった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页
|