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母子叙情(ぼしじょじょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:12:25 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 かの女は何とも知らず感謝のこころが湧(わ)き上って、それを表現するために、誰に向っていうともなく、
「有難うございます」
 西洋人の前で不器用な日本流に頭を下げた。逸作も釣り込まれて、ちょっと頭を下げた。 
 食後に銀座通りの人ごみの中を一巡連れ立って歩いて見せた。人形(にんぎょう)蒐集熱(しゅうしゅうねつ)にかかっている若い夫人は、おもちゃ人形店を漁(あさ)った。
 K・S氏は往来を眺め見渡しながら、
「イチロも日本に居るときは、始終ここを散歩したのですね」と云った。かの女はむす子が一緒だったらどんなに楽しかろうと思って見るのだが、客を疎外するように取られる懸念から口に出しては云わなかった。


 展覧会場の交渉、刊行物や美術団体への紹介、作品の売約口など闊達の勢いで取り計った。逸作に云わすと、画家が作品を携帯している以上、これを発表し度いのは山々のことであり、出来るだけ売って金を作ってやることは、旅中の画家に対して一番親切な仕方であるというのである。逸作は、ふだん放漫で磊落(らいらく)なように見えるが、処世上の経済手段は、臆病と思えるほど消極的で手堅く、画なども自分から売ったことがない。その点で美術関係の諸方面にかなり信用が蓄積されていた。そういう下地がある上に、彼は一旦物事を遣(や)り出すと、その成績に冴(さ)えて凄味(すごみ)が出るほど徹底した。
 そんなことでK・S氏の作品展覧会は、逸作の奔走により、来着後数日ならずして、市中の最も枢要な場所に在るデパートに小ぢんまりした部屋を急造させて賑(にぎ)やかに開催された。
「こんな性急なことは、巴里のどんな有力な画家でも出来ないことです。巴里ではどんなに早くても三月はかかります」
 K・S氏はむしろ呆(あき)れながら、歓(よろこ)びにわくわくして云った。何度も何度も礼を云った。
 ホテルの一室で、立続けに電話をかけたり、紹介の文案を書いたり、訪問記者と折衝したりして、深い疲労と、極度な喫煙で、どろんとした顔付きになっている逸作は、強いて事もなげに言った。
「いや、お気遣いなさるな。あなた方はむす子の友人です」それから沈痛な唇の引き締め方をして、また事務に取りかかった。
 かの女は、今こそこの父はむす子の幼時に負うた不情の罪を贖(あがな)う決心でいるのだと思った。ときどき眼を瞑(つむ)って頭を軽く振っているのは、出そうになる涙を強情に振り戻しているのではあるまいか、それとも脳貧血を起しかけて眩暈(めまい)でもするのではあるまいか。父はあまりによき父になり過ぎた。
「パパ。少し翻訳を代りましょうか。休んで下さい」
 すると、逸作は珍しく瞳(ひとみ)の焦点をかの女の瞳に熱く見合せて云った。
「僕が満足するまでやらせろ」


 かの女と逸作は、星ヶ岡の茶寮を出て、K・S氏夫妻と共に、今日で終りの展覧会場へ寄ってみようと、ぶらぶら虎の門まで歩いて来た。春もやや準備が出来たといった工合(ぐあい)に、和やかなものが、晴れた空にも、建物を包む丘の茂みにも含みかけていた。
 かの女と逸作の友人の実業家が招いて呉(く)れたK・S氏夫妻の招待は、茶寮の農家の間が場席だった。煤(すす)けた梁(はり)や柱に黒光りがするくらい年代のある田舎家の座敷を、そっくりそのまま持ち込まれた茶座敷には、囲炉裏(いろり)もあり、行灯(あんどん)もあった。西洋人に日本の郷土色を知せるには便利だろうという実業家の心尽しだった。稚子髷(ちごまげ)に振り袖(そで)の少女の給仕が配膳(はいぜん)を運んで来た。
 K・S氏はそこで出た料理の中で、焼蛤(やきはまぐり)の皿に紅梅の蕾(つぼみ)が添えてあったことや、青竹の串(くし)に差した田楽の豆腐に塗ってある味噌(みそ)に木の芽が匂(にお)ったことを想(おも)い出して話した。
「日本人は実に季節の自然を何ものにも取り入れることがうまい」
 逸作はまた彼の友が、K・S氏はさすがに芸術家だけあって、西洋人にしては味覚や嗅覚がデリケートなことに感心していたと告げた。
 かの女はまた夫人に、稚子髷をはじめ日本の伝統の髪の型を説明していた。
 一行四人の足は日比谷公園に踏み込んだ。K・S氏は沁々(しみじみ)とした調子でかの女に云った。
「いろいろ見せて頂いたり、味わわせて頂いたりしましたが、こちらへ来てはじめてイチロのことが判ったような気がします。彼はやっぱりこの国柄を背景に持った芸術家です。
「お世辞でなく、彼は私などよりよい素質を持って生れた画家です。なるほど私は、彼より世才もあり金儲(かねもう)けの術も知っています。だが、素質に於ては到底年少の彼に及びません。
「奥さまは、私に彼を助ける何物かがあるとお想いかも知れませんが、彼はそんな必要のない立派な画家です。ただ、今のところ彼は絵を売らないだけです。
「私が私の持っている才能や経験で、彼に金になるような仕事の方法を教えてやるのは造作もないことです。彼はまたそれを立派にやって除(の)けましょう。しかし、それは恐ろしいことです。彼は出来るだけ自由に働かして、金や生活のことに頭を使わせたくないんです」
 かの女は、自分がすでに感じていることを今更云い出されるような迂遠(うえん)さを感じた。しかし、長幼老若の区別や、有名無名の体裁を離れて、実際の力の上から物を云うモンパルナスの芸術家気質の言葉を、尊敬して傾聴した。場合によっては、このむす子を自分のむす子としてより、日本の誇として、世界の花として、捧げねばならない運命になるかも知れない。晴がましくも、やや寂しい。


 かの女は一行とゆるゆる日比谷公園の花壇や植込の間を歩きながら、春と初夏の花が一時に蕾をつけて、冬からはまるで幕がわりのように、頓(とみ)に長閑(のどか)な貌様(ぼうよう)を呈して来る巴里(パリ)の春さきを想い出した。濃く青い空は媚(こび)を含んでいつまでも暮れなかった。エッフェル塔は長い長い影を、セーヌ河岸の樹帯の葉の上や、密集した建物の上へはっきり曳(ひ)きながら、広く河波に臨んで繊細で逞(たくま)しい脚を驚くほど張り拡(ひろ)げていた。
 街を歩くと、紫色やレモン色の室内の灯を背景に、道路まで並べ出されたキャフェの卓で、大勢の客がアペリチーフを飲みつつ行人を眺めていた。それは仄(ほの)かで濃厚な黄昏(たそがれ)を味わうという顔付きに一致して、いくらか横着に構えた貪慾(どんよく)な落着きにさえ見えた。
 こういう夕暮に、かの女はよくパッシィの家を出て、あまり遠くないトロカデロ宮裏の広庭に行った。パッシィの町が尽きたところから左手へ折れ、そこからやや勾配(こうばい)を上る小路の道には、古風な石垣が片側の崖(がけ)を防いでいた。僅(わず)かな樹海を通して、セーヌ河の河面の銀波に光る一片や、夕陽に煙った幻のようなエッフェル塔が見渡された。かの女は、時代をいつに置くとも判らない意識にするこの場所に暫(しばら)く立ち停(どま)り、むす子のアトリエのあるモンパルナスの空を眺め乍(なが)ら、むす子を置いて日本へ去る親子の哀別の情を貫いて、もうあといくばくもない短い月日の流れの、倉皇(そうこう)として過ぎ行くけはいを感じるのであった。
 トロカデロ宮前を通り過ぎると、小さいキャフェには昔風に床へ鋸屑(おがくず)を厚く撒(ま)いているのが匂った。トロカデロ宮を裏へ廻(まわ)った広庭はセーヌの河岸で、緩い傾斜になっていた。その広闊(こうかつ)な場面を、幾何学的造りの庭が池の単純な円や、花壇の複雑な雲型や弧形で、精力的に区劃(くかく)されていた。それは偶然規則的な図案になって大河底を流れ下る氷の渦紋のようにも見えた。傾斜の末に、青木に囲まれて瀟洒(しょうしゃ)なイエナ橋が可愛(かわい)らしく架っている。ここから正面に見るエッフェル塔はあまりに大きい。
 暮れるのを惜しむように、遊覧の人々は、三々五々小径(こみち)を設計の模様に従って歩き廻り、眺め廻っていた。僅かに得た人生の須臾(しゅゆ)の間の安らかな時間を、ひたすら受け容(い)れようとして、日常の生活意識を杜絶(とぜつ)した人々がみんな蝶にも見える。子供にも見える。そして事実子供も随分多い。西洋の子供からあんまり泣き声が聞えない。
 かの女は花壇の縁に腰を下ろして、いつまでもいつまでもぼんやりしている。後から来る約束のむす子が勉強の仕事を仕舞って、絵具を洗い落した石鹸臭い手をして、ひょっこり傍の叢(くさむら)から現われ出るのを待ち受けているのであった。
むす子は太い素朴な声で、
「おがあさん」
と呼ぶ。それは永遠の昔に夢の中で聞いたような覚えもする。未来永遠に聴ける約束の声であるような気もする。そしていまそれを肉声で現実に聴くのだ。
 かの女は身慄(みぶる)いが出るほど嬉(うれ)しくなる。
 だが、このむす子はなぜこう大きくなってまで、「おかあさん」とちゃんといわないで、子供のときのまま「おがあさん」と濁って呼ぶのであろう。
「おまえさんが子供のときにね」とかの女はむす子に語る。むす子は来るのを急いだらしく、改めてネクタイを結び直しながら聴いている。
「鼻が詰って口で息をするものだから、小児科のお医者さんに診(み)せたのだよ。すると、喉(のど)にアデノイドがあるというのだよ。アデノイドがある子は暴れるということを聞いたので、入院して切ることになったのさ」
 ここでかの女はまず、くっくと笑った。
「その前からおまえは一通りならないやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]坊だった。親類の娘たちはおまえの活動には随分閉口していた。娘たちは小児科医の話を聞いて、なるほどおまえの腕白もみなそのアデノイドがさせるわざだと決めてしまった。おまえは手術が終って家へ帰って来た。どんなにかおとなしくなったろうと楽しみにして娘たちは、様子を見に来た。おまえの腕白はちっとも変らなかった。娘たちはつまらない顔をして帰って行った」
 かの女は娘たちの案に相違した顔を思い出すように、またくっくと笑った。
「何だ。そんな話ですか。親というものは、子供のちょっとしたことでも、いつまでも覚えていて興味を持つものですね」
 むす子は自分の幼時の話を聞くことは、嫌いではないらしいが、母がそれをあまり熱して興味がることは、母を平凡にし、母を年寄り臭くするので、その点を嫌がった。
「おかあさんもなるべく昔のことを忘れて、新しく出発するんですね」
「出発するってどんな風によ」
「おとうさんをご覧なさい。根が悧巧(りこう)だから、おかあさんのいのち[#「いのち」に傍点]を食って、今までの仕事をしました。今度はおかあさんの番ですよ。おとうさんのいい所を摂(と)って成長しなきゃ」
「たとえばどんなところよ」
「あのぬけぬけとしたところなど。おかあさんやこれからの僕には是非必要ですね」
「あたしはおとうさんにどんなところを与えたろうか」
「あれっ! 知らないんですか。おとうさんのあの気位だとか、純情だとかいうものは、みなおかあさんのいのち[#「いのち」に傍点]から汲み出したものじゃありませんか。うまく摂ってるからちょっと判らないが」
「おまえさんは鋭い子だねえ」
「そんなことをむす子の前で感心するのが、まだお嬢さんが抜けない証拠です。僕は賛成しませんね」


 K・S氏は一行と歩き乍(なが)ら話す。
抽象派(アプストレー)という名前で巴里(パリ)の前衛画派を総括していますが、めいめい違った個性から出発する画論や成長に向っていることは、先日お話したと思いますが、私の唱えるネオ・コンクレチスムというのは、単に客観的分析主義でなく、その分析して得た結果のものを材料にして、人間のロマン性や創造性によって何かしら創造して行き度(た)いのです。だから従来の分析力も生かし、これに創造という活を入れることを連絡させる点を若(も)し画派の綜合(そうごう)というなら、私のネオ・コンクレチスムは綜合主義とも云えるのです。
「一郎君は一郎君で独自の路を歩いていられます。彼は自然現象中より芸術の力によって美の抽象ということに画論を立てていますが、基礎にはカントの美学が影響を持っているようです。彼はだいぶ永い間ソルボンヌ大学でそれを研究していました。だが彼の画風は、理窟っぽいぎすぎすしたところは毛頭ありません。彼の聡明(そうめい)な物象の把握力、日本人特異の単純化と図案化。それに何という愛憐(あいれん)の深い美の象徴の仕方でしょう。私はいつも彼の画を見て惚々(ほれぼれ)とします。何と云っても一番人を融かすところのものは、彼の詩人的素質です。この素質が、彼の酷(きび)しいリアリズムを神秘にまで高めます。彼は今前衛画派の花形のうちで一番年少でありながら、一番期待と興味を持たれています。彼を見ると全く芸術家はテンペラメント一つだという気がします」   
 かの女はこれを旅先の知友が、滞在地で世話をする父兄に向って云うお世辞ともお礼心とも思わなかった。事実かの女は、近年美術季節毎に、権威ある美術批評を載せるラントランシジャン紙上に掲載される十指ほどの画家の中にむす子の名も混っているし、抽象派の機関誌にアルプとかオーザンファン、セリグマンとかいう世界的な元老の作品の頁(ページ)と並んで載っているむす子の厳格な詩的な瑞々(みずみず)しい画に就(つ)いては何の疑いもなかった。あのむす子が、精力的な西洋人の間に入って押して行く体力のほどが気遣われた。
「あの子は相変らず身体は小さい方でしょうか」
 するとK・S氏は、やっぱり女親は女親だという風に見やって
「ご心配なさるな。イチロはもうあなたのお考えになっているような子供さんではありません。逞(たくま)しい立派な青年です」
 もしそうならばと、かの女はまた心配になった。今度逢(あ)った時、取り付きにくくはあるまいか、はにかむような想(おも)いをさせられはしまいか。しかしすぐかの女は、やっぱり自分の求める通りむす子に踏み込めばいい、あの子はあの子であることに絶対に変りはないと、直(す)ぐ自信を取り戻した。公園の出口へ来た。かの女は夫人に云った。
「あまり歩いてはお疲れでしょう。もう車で参りましょう」


 展覧会場は満員だった。逸作の働いた紹介の方法も効果があったには違いないが、巴里の最新画派の作品を原画で観(み)るということは、人々には稀有(けう)の機会だった。 
 オリーブ色の壁に彩色画が七八点エッチングが三十点ほど懸け並べられてあった。その前には人々は折り重なって覗(のぞ)き込んでいた。夕刻近いシャンデリヤの仄白(ほのじろ)い光は、人いきれで乳白に淀(よど)んでいた。植木鉢の棕櫚(しゅろ)の葉が絶えず微動している。押し合って移って行く見物の列から離れて、室内には三々五々塊を作って画家らしい連中が立話をしていた。
 K・S氏夫妻は見物に来た滞在フランス人に捕まって、何かしきりに話している。逸作は入口に待ち合せていた美術記者と、雑誌に載せる作品の相談をして室内を歩き廻(まわ)っている。かの女は一人ぽつんとして中央の椅子(いす)に小さく蹲(うずく)まった。 
 見物群の肩と肩との間から、K・S氏の作品がちらちら覗ける。メカニズムのような規則的に表現された物象を押し上げるように、ロマンチックな強烈な陰影が、一種ねばねばする人間性を発散している彼の作品は、何となく新中世紀趣味と云ったような感じをかの女に与えて、先程説明を聴いた所謂(いわゆる)ネオ・コンクレチスムの理論とは、また別なものを感じられる芸術家の芸術家的矛盾にかの女は興味を覚えながら、この部屋に入って来た時から、ちらちら偸視(ぬすみみ)して胸を躍らしている壁の一場面の前の人の動きにも決して注意を怠らなかった。
 そこにはたった一枚、K・S氏が携えて来たかの女のむす子のデッサンの小品が並べられてあるのだ。
 かの女を不安にしたのは、いつもその前に人だかりがして群衆の囁(ささや)きの瘤(こぶ)を作っているに引きかえ、今日はさっさと人の列は越して行くのだ。かの女は洪水が橋台を押し流してしまったあとの、滑らかな流れを見るような極度の不気味さを、人の列に感じて来た。どうしたことだろう。むす子の絵はもう飽きられたのか。人々に対して魅力を失ったのであろうか。
 かの女は不安を抑え切れなくなって、思わず覗き加減に立ち上った。人の隙(すき)から空虚なオリーヴ色の壁だけが見えて、そこにむす子の絵はない、かの女はあわて気味に近寄った。錯覚ではない。むす子の絵は姿も形もない。張札だけが曲っている。
「どうしたんだろう、一郎の絵――」
 かの女は口に出して云いながら、部屋の中をぐるぐる尋ね廻った揚句、咄嗟(とっさ)に思いついて入口の横の売場へ来た。かの女は少し息を弾ませて訊(き)いた。洋服を着た若い店員は、びっくりして直ぐ弁解口調に云った。
「え、あれはお売りになるのではなかったんですか。でも、K・Sさんは、日本へ一枚でも残す方がいいと売価をおつけでしたが」
 かの女は冷水のあとにまた温かい湯をうちかけられたような気がした。驚きはそのまま、心の和みが取り戻せた。
「まあ、誰が買いましたの」
「今夜の汽車でお発(た)ちの方だそうですが、是非自分で持って行き度いと、そう仰(おっ)しゃるものですから、もう閉場間際だし、包んでお渡ししました。たった今。この方です」
と事務員の出した売約帳には、昔の字画もそのまま「春日規矩男」と書いてあった。かの女は思わず会場の外に走り出た。そのときかの女は、どやどやとエレヴェーターの前から階段へ移り動いて行く一塊りの人数を見た。降りる機台も機台も満員なので、待ちあぐねた人達らしい。
 人数の重なりがほぐれて階段へかかる、その中の一人に、ハトロン紙の包を抱えた外套(がいとう)の青年を見た。それは規矩男であった。
 規矩男の後姿を見たときにかの女は、規矩男もかの女に気が附いたらしいのを知ったが、かの女の足は一歩もそこから動かなかった。そしてかの女は突立ったままで「ははあ、規矩男も奇抜なことをするものだ」と単にこう思っただけだったが、直(す)ぐそのあとから、しんしんと骨身に痛みを覚え出した。


 かの女は、無事に日本の旅行を終ってフランスへ帰航するK・S氏夫妻を送って仕舞い、外人の送迎にやや疲労を感じたあとの心身を、久しぶりで自分の部屋のデスクの前に休めていた。そこへ郵便が来た。春日規矩男からである。
 その後ご無沙汰(ぶさた)しましたが、僕は今仙台市内のある住宅街に棲(す)んでいます。僕はあなたが仰言(おっしゃ)った『無』それ自身充足する積極的ないのちのあるということが気になり、これを研究立証してみたくて、普通なら哲学でしょうが現代の諸事情も参酌(さんしゃく)して、純枠科学理論の物理学を選びました。あなたにお訣(わか)れしたあの年の秋東北大学の理科に入り、今では研究室の助手をしています。今度は春の休みで一寸(ちょっと)上京しましたので直ぐにこちらへ引き返しました。研究の結果は卒業論文としました。それに尚(なお)研究を加えて一冊の書物に纏(まと)めますから、その時お送りいたしますとして今は申し上げません。それよりも僕は、三年前に母を失いましたことをお知せいたします。それからこれは余事ですが、僕はあの頃お話した許嫁(いいなずけ)とは、僕の意志から結婚しませんでした。そして今も独身です。
 K・S氏の展覧会の会場の銀座のデパートで、あなたが人中の僕を見て階段の上に佇(たたず)んでいらっしゃったのを知り、僕が何故むす子さんの絵を買ったかを云わなければ済まない気がしまして、絶えて久しい手紙を書きました。今後はまた今まで通り一切手紙を差し上げぬつもりで居りますが、僕の生活もとにかく軌道にだけは乗っていますからご安心下さい。
 僕は『世の中には奇蹟的(きせきてき)に幸福なむす子もあればあるものだ。そういうむす子の描いた絵が珍しいから僕の部屋へ掛けて眺めよう』
 こういう気持で一郎さんの絵を買ってかえりました。
[#下げて、地より1字あきで]春日規矩男
   O・K 夫 人 

 かの女もこの手紙へ今さら返事を書こうとはしなかった。しかし規矩男。規矩男。訣れても忘れている規矩男ではなかった。厳格清澄なかの女の母性の中核の外囲に、匂(にお)うように、滲(にじ)むように、傷むように、規矩男の俤(おもかげ)はかの女の裡(うち)に居た。
 今改めてかの女はかの女の中核へ規矩男の俤を連れ出してみようか――今やかの女のむす子を十分な成育へ送り届け、苦労も諸別もしつくしたかの女の母性は、むしろ和やかに手を差し延べてそれを迎え、かの女の夫の逸作の如く、
「君も若いうちに苦労したのだ。見遺(みのこ)した夢の名残りを逐(お)うのもよかろう」 
 斯(こ)うもかの女にもの分りよく云うであろうか。


  君が行手(ゆくて)に雲かかるあらばその雲に
  雪積まば雪に問へかしわれを。

  君行きて心も冥(くら)く白妙(しらたへ)に
  降るてふ夜の雪黝(くろ)み見ゆ。



底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1974(昭和49)年~1978(昭和53)年
入力:阿部良子
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2001年5月7日公開
2003年7月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

※々(きき)として紙の冠(かぶ)りものを

第3水準1-15-18
※(も)いで噛(か)んだ。

第3水準1-84-80
※(もが)いている規矩男の情熱の

第3水準1-92-36

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